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被爆者援護連帯

世界の被ばく者の証言・資料マーシャル諸島
原水爆禁止2000年世界大会・国際会議

マーシャル諸島
上院議員
アバッカ・アンジャイン・マディソン

 ロンゲラップの住民からのあいさつをおつたえします。「ヤコェ!」「核兵器のない21世紀をめざす共同と行動」をテーマに開かれている広島でのこの会議に、日本と世界各地からの平和活動家のみなさんとご一緒できることを光栄に思います。私たちはきょう、核兵器による世界の非人道的行動によって亡くなった人々、苦しんでいる罪のない人々の命を記念してここに集まっています。それは私たちの島、環境、人々、こどもたちにたいして被害がもたらされたからであり、将来の世代をまもるために私たちはたたかっています。

 マーシャルでは第2次世界大戦直後、わたしたちの国の北部で六〇年代のはじめまでアメリカが核実験をおないました。マーシャル諸島でおこなわれた87回の核爆発実験のうち、島民の命をもとにもどすことのなかったのは、「二つの太陽の日」として知られる1954年3月1日の水爆実験でした。この爆弾は広島に十日された原爆の千倍の規模のものでした。

 第五福竜丸の漁師のように、ロンゲラップ島では子どもを含む当時86人が急性放射線被爆にかかりました。後に、これらの人々に甲状腺、骨、白血球、脳、皮膚、胃のガン、萎縮症、死産、流産、奇形児出産などがおこりました。何年にもわたってこれらに人々は生体実験のモルモットとしてあつかわれ、ロンゲラップは安全だとウソをつかれましたが、結局、生きるために島を逃れることになりました。今日、島の共同体は分断されています。人々はマーシャル諸島のあちこちに住んでおり、海外に移った人もすくなくありません。しかし島の人口の多くの部分はマジュロに、そしてクワジャレイン環礁にあるイバイとメジャットが二番目に大きいロンゲラップ島の人口の居住地です。私たちの長老たちは、急速に世を去っています。若い世代がロンゲラップ島民の伝統的な生活様式を学ぶチャンスがほんとうにすくなくなってきています。 

 それにもかかわらず、米議会が最終的にアメリカが島民にたいしてやったことを認めるまでには大変な時間がかかりました。ロンゲラップの救済は、米議会がつくったロンゲラップ再定住プロジェクトのもとで進行しています。ことし9月19日には、「核実験被害者補償裁判所」で土地の権利要求にかんする公聴会がおこなわれます。この要求をまとめ、ここまでくるのに、じつに8年もかかりました。これは三つの環礁にたいする要求であり、三つの理由があげられています。第一は環礁全体の救済、第二は使用できなくなったこと、第三は苦難です。 

 これは島民の生活をとりもどすための根本的な手段ですから、ロンゲラップが最大限に償われることがきわめて重要です。同時に、私たちはひきつづき米国政府にたいして医療をほどこし、2001年10月に自由連合が期限切れとなるのにともなう「状況の変化」による補償をおこなうよう要求していきます。他方、あるプロジェクトが夢の段階にさしかかっています。それはことしのビキニ集会で明らかにした博物館建設計画です。広島にくるまえに私は母親大会に出席しました。大変大きな成功をおさめた大会でした。博物館プロジェクトはこの母親大会においても多くの女性のみなさんに紹介され、支持をいただきました。いま、私はみなさんの支援をおねがいするものです。どうか、この夢を実現させるために手を貸してください。 

 博物館プロジェクトは2004年のビキニ・デー50周年にオープンすることをめざしています。約2千万円、20万ドル近くを目標に募金をおこないます。一時的に博物館はマジュロに移動式のものをつくり、ロンゲラップの汚染除去がおこなわれるのを待つことになります。博物館の名称はまだ最終的にきまっておりませんが、ロンゲラップ平和博物館というようなものになるでしょう。その目的は以下の通りです。

・島民、とりわけ子どもたちにたいし、核兵器による被害について教育すること
・医療、教育援助、情報支援などをつうじてロンゲラップ島民にたいする日本の援助を促進するセンターとして活用すること
・日本のヒバクシャとロンゲラップの被爆者の連帯をしめすこと
・若い世代にたいする文化教育の場を提供すること 

 みなさんに本当のことをお話します。今年の3月のビキニデー会議で日本に来る前、私はこの計画を、みなさんもご存知のジョージ・アンジャインに話しました。ジョージは、私のアイデアにすぐ賛成してくれました。彼も、ロンゲラップの人々がどんなに苦しんだかを思い出してもらうべきだと言いました。ジョージに私の夢を話していたとき、彼自身の記念品が博物館に収めれることになろうとは思いませんでした。しかし、ジョージは亡くなりました。私がビキニデーから帰国する3日前のことでした。ですからみなさんが私の提案を支持してくれたことは知りません。ブラボー実験が行われたとき、ジョージは3歳で、来年50歳になるはずでした。かれは生涯、健康障害に苦しみましたが、不十分な医療や設備で亡くなってしまったのです。ジョージは地方議員で、有名な地主で、ロンゲラップ島民の利益を守り、特にアメリカに補償を求めて戦う闘士として知られていました。 

 私の呼びかけに加えて、皆さん、特に科学者や医師のみなさんに、ぜひマーシャルに来ていただきたいと思います。みなさんの支援が必要だからです。  残念ながら私は明日帰国しなければなりません。月曜から議会が始まるからです。でも、私の叔父のネルソン・アンジャインといとこのヒロコは大会に最後まで参加します。ヒロコは核実験の被害者で、みなさんに自分の被曝体験や、核兵器のもたらした痛みや苦しみををお話することになっています。私は世界の友人に出会えて喜んでいます。みなさんの会議の成功をお祈りします。そして最後になりますが、ご招待いただいた日本原水協にたいし、みなさんのロンゲラップ島民へのご支援に感謝します。



世界の被ばく者の証言・資料

マーシャル諸島

原水爆禁止2000年世界大会・国際会議

ロンゲラップ島民核実験被害者
ヒロコ・ランギンベリック


  私はロンゲラップ島民とロンゲラップ市長をに代わって、ごあいさつを申し上げます。これから、1954年3月1日に何が起きたのかをお話します。

  その日、私は水平線に大きな閃光を見ました。その後、爆風がきました。その日は月曜日で、私たちは学校へ行きました。学校が終わってから、姉、他の3人の女の子と1人の男の子と一緒に、ジャブアンに行き、ココナッツを採りました。帰ってくると、爆弾の灰で目が曇り、夜になると体中がかゆくてねむれませんでした。

  次の日の朝、吐き気がして、何もたべられませんでした。その日に飛行機が飛んできました。飛行機に乗っていた男たちは、直ぐに島の井戸に行き、井戸水を調べました。でも、私たちには何も言わずにクワジャレンに帰っていきました。次の日の朝、また飛行機と大きな軍艦が島にやってきて、私たち島民を全員アエレナエに連れて行きました。私たちはクワジャレンで、毎日、朝に浜辺に行き、正午まで海に浸かり、午後もまた昼ご飯の後、浜に行って夕方の5時まで海に浸かって体を洗いました。クワジャレンにいた後、エジットに行き、そこで2年間暮らし、またロンゲラップに戻りました。ロンゲラップに戻ってからも、また何回か核実験がおこなわれました。だから私たちにはガンが多いのです。脳腫瘍、甲状腺ガン、胃ガン、白血病などです。

  補償のお金について話します。私が甲状腺の手術を受けたとき、25,000ドルもらいました。自由連合協定で、3ヶ月に一度、多い人は108ドルもらえます。でも85ドルのときもあります。医師は、いまではほとんどがマーシャル人で、アメリカの医師は3,4人しかいません。

  話を終わる前に、アバッカ上院議員を通じて、アバッカさん、ネルソン・アンジャインさんとともにこの会議に招待してくれた日本原水協に感謝します。本当にありがとうございました。



世界の被ばく者の証言・資料

マーシャル諸島

原水爆禁止1999年世界大会・国際会議

ロンゲラップ環礁地方自治体元首長
ネルソン・アンジャイン


  私の名前は、ネルソン・アンジャインです。太平洋のマーシャルから来ました。私の故郷、ロンゲラップは1954年のブラボー水爆実験で、死の灰をあび、被害をうけた島です。

  私はこの7月、ロンゲラップにいきました。これで、ロンゲラップに行ったのは、3回目です。今年の3月、島民がロンゲラップにもどれるようにするための工事が始まり、起工式が行われたからです。今は、空港ができて、飛行機で、首都のマジュロからロンゲラップに行くことができます。これから、道路や、家が立つ予定です。 

  ロンゲラップ島には、長い間、誰も住んでいなかったので、島の木や植物が、枯れていました。私は、その様子を見て、悲しく思いました。そして、昔のロンゲラップを思い出しました。ロンゲラップの島は、80からなり、食べ物は豊富でした。そこで、島民は平穏に暮らしていました。

  ロンゲラップに帰るための工事は始まりましたが、私は、アメリカに聞きたいことがあります。どのくらい、私たちの島はきれいになるのでしょうか。島は本当に安全になるのでしょうか。アメリカは、核実験によって破壊されたビキニ環礁の二つの島に、人が住めるようにするために、1億ドルを費やしました。それでも、きれいにならず、ビキニ島の島民は、まだ島に戻っていません。

  ところがアメリカは、ロンゲラップをきれいにするために、4500万ドルしか出しません。この額で、ロンゲラップは、きれいになるのでしょうか。島民がもどって、昔のように、暮らせるようになるのでしょうか。すでに、ロンゲラップ島の北部は、ひどい放射能汚染のために、立ち入り禁止になることが決まっています。

  私たちは、プルトニウムのしみこんだ、土をみんな削って取り除いてほしいのですが、30センチ弱の土しか削りとりません。カリウム肥料をまぜたものをしくと言っています。これだけで、大丈夫でしょうか。そして、汚染された土をどこに持っていくかも問題です。

  私は、家族に言っています。もう、ロンゲラップのことは、忘れてくださいと。でも、多くの島民は、ロンゲラップに帰り、安全で、豊かなくらしをすることを望んでいます。

  1954年の水爆実験で、ロンゲラップが破壊され、私たちは避難しました。それから3年後、アメリカがもうロンゲラップは安全だといったので戻りました。でも、奇形の子供が生まれたり、これまでになかったような病気にかかり、島民は死んでいきました。私たちは怖くなって、ロンゲラップを逃げ出し、クワジェリン環礁のメジャットに移り住んでいます。ここは不毛の島です。この島に来たときは、何もなく、自分たちでやしの木を植えました。食べるものが十分に育ちません。魚も取れません。だから、アメリカが3ヶ月に1度送ってくる缶詰や小麦粉に頼っています。

  アメリカからロンゲラップに支給される補償金の一部は、島民に分配されますが、一人、3ヶ月に80ドルにしかなりません。これでは、にわとり1羽買うだけでおしまいで、毎日、十分に食べられない生活を強いられています。

  同じ、クワジェリン環礁にはイバイ島があります。ここには、ロンゲラップの人もたくさん住んでいて、私自身の家もあります。イバイのとなりの島、クワジェリン島は、島全体が、米軍基地になっています。クワジェリン島に住んでいた人は、基地をつくるために、アメリカによってイバイ島に追い出されました。イバイに住んでいる人は、毎朝、船に乗って、米軍基地に働きに行き、夕方、もどってきます。マーシャルには他に仕事がなく、基地の仕事が一番お金になるので、ここに人が集まってきます。今、狭い島に1万6000人が、ひしめきあって住んでいます。ここでは、仕事もなく、することもない、若者が、盗みをしたり、物乞いをしたり、荒れた生活をしています。食べもののない子供たちが、路上で生活し、のたれ死んだりしています。

  クワジェレンの米軍基地では、アメリカのカリフォルニアから発射されるミサイルを打ち落とす訓練が行われています。イリキネという島は標的になっており、島にその印があります。これまでに、他の島にあたったり、あやまって発電所にあたり、爆発事故が起こっています。

  私たちは、ロンゲラップで核実験のために、ひどいめにあって、メジャットに逃げたのに、ここでも、ミサイルの危険にさらされています。もう、核兵器はこりごりです。核兵器は、私たちをさまざまな病気で苦しめるばかりでなく、島民の昔ながらの伝統的な生活を破壊しました。

  私たちの願いは、アメリカに被害にみあった救済をしてほしいことです。ロンゲラップを安全にして、もどしてほしい。そこで、安心して暮らせるようにしてほしい。

  私は、長い間、何度も、日本にやって来ました。それはなぜかというと、世界が平和になるために、みなさんと一緒にがんばっていきたいからです。私たちは、直接、核兵器の被害を受けました。核兵器がなくならないと、私たちの苦しみも終わりません。どれだけの人が、私の訴えを聞いてくれるかわかりませんが、私は、生きている限り、みなさんと一緒にがんばります。どうかみなさん、私たちを支援して下さい。



世界の被ばく者の証言・資料

マーシャル諸島

ハーグ平和アピール会議
オランダ、ハーグ、1999年5月11-15日
世界の被ばく者セッション

ロンゲラップ環礁自治体
マーシャル諸島核実験被害者
ノリオ・ケベンリ


  議長、ならびに来賓のみなさん、そして参加者のみなさん。本日、ロンゲラップ島民、とりわけ、核実験の被害者を代表して、皆さん方の前で発言する機会を得たことを、とても光栄に思います。最初に、みなさんに私がどこの誰であるのか、どこから来たのかなど、よりよく理解していただくために、自己紹介をさせて下さい。

  私の名前は、ノリオ・ケベンリと申します。私は、1943年7月21日、マーシャル諸島のロンゲラップで生まれ、高校に通うために、マジュロに行くまで、ロンゲラップで過ごしました。マジュロに4年間いて、その後、クワジェリンのイバイに行き、米軍基地で働いていました。6年前に、会計担当としてロンゲラップ島民のために働くようになるまで、そこで働いていました。私は、ロンゲラップ自治体で、最初は、議員として、そして今は、事務員として、働いています。私は、外国で開かれたこのような会議で、島民を代表して、何度か話をしたことがあります。

  この場で、私は日本、ノルウエー、サイパンの人々の前で、また、アメリカの議会などで、話した同じ話を、みなさんにしたいと思います。この話は、私の人生の一部であり、日々、私が扱っていることです。時間が限られていますので、フォールアウトの後、実際に何が起こったかなど、すべてを語ることはできませんが、私たちは被害者であり、ひどい被害を受けたことをみなさんにわかっていただきたいと思います。

 

  1954年3月1日の朝早く、アメリカは一連の核実験のひとつを、ロンゲラップ環礁の西約100マイルの所で行ないました。その日は、とてもすがすがしい朝で、いつものように朝早く起きて、姉たちが、学校の給食の用意するのを手伝っていました。その日は、私たちが、学校の給食を用意する当番でした。午前5時半ごろ、私が調理室の外に立っていたら、突然、西の方が、大きく光りました。数分後、西の方向に、大きなオレンジのような色の雲が現れるのを見ました。それは大きな木のような形をしていました。何が起こっているのかわからないまま、私は雑用を続けました。一時間ほどして、とても大きな音がしました。大きなかみなりが西から起こり、東に走ったような音でした。私は恐ろしくなり手を止めました。他の島民も同じでした。その日の午後おそくなって、私たちの何か降ってくるのを感じました。目がちくちくし、理由も分からず具合が悪くなり、私たちは、何か恐ろしいことが起こったのではとこわくなりました。私たちは、何が起こっているのか、知りませんでした。

  まさにその日の午後5時ごろ、軍の水上機が1機やってきました。2、3人の軍人が飛行機から降りてきて、島の放射能レベルを測る器具を持っていました。島は、黄色がかった物質に覆われていました。家の中も外も、この物質に覆われていました。私が鮮明に覚えているのは、飛行機から降り立った軍人たちが、1時間もしないうちに島から帰ったこと、帰る前に、当時は教師をしていた前市長のビリエット・エドモンドに、貯水槽の水を飲むな、そして島の食べ物を食べるなということを、島民に伝えろと言ったことです。島民はまた、避難する計画があることも知らされました。

  次の日、3月2日朝7時、軍の船がやってきて、島民は船に乗って、クワジェリンに避難させられました。そこで、次から次へと体の検査を受けました。私たちは具合が悪くなり、混乱していました。クワジェリンへの旅は、終わりのない旅への始まりでした。私たちはしばらく、そこで軍の管理下におかれ、一時的な避難先として、エジット島に移されました。この小さい島は、私たちの故郷から遠く離れ、1957年に故郷の島に戻るまで、そこで4年間過ごしました。私たちの島が汚染されているとは知らず、故郷の島に帰り、私たちは幸せでした。しかし、幸せは長くは続きませんでした。1985年、今は亡きジェトン・アンジャイン上院議員が、もう一度ロンゲラップを離れ、クワジェリン環礁の小さな島メジャット島に住むことを決めたのです。私たちは、それ以来、この島に住んでいます。ここでの生活は大変です。病院、店、教会、学校など、設備が十分ではありません。食べ物や生活必需品を手に入れるために、一番近い島でも、ボートで70マイルも行かなければなりません。医者の治療をうけるために、病人はボートで運ばれますが、荒波の中、患者自身も大変な思いをします。いつ、私たちの故郷の島が安全になり、再び帰って住むことができるようになるのか、わかりません。

  これはいつも私が言っていることですが、ロンゲラップを代表して、私はもう一度、そのことを強調したいと思います。ロンゲラップの島民は、自分たちの島ばかりでなく、世界のどこにも、核実験はくり返されてはならないと思っています。このようなことが、みなさんや、ここ、オランダで暮らす人々のうえに、起こってほしくありません。最後に、私たちは、世界の核実験を阻止するための運動をひきつづき支持し、成功を祈っていることをお伝えして、私の発言を終わります。



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