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被爆者援護連帯

島を追われて56年
監獄の島に住むビキニ島民

3月3日、首都のマジュロ島をプロペラ機で飛び立った。眼下に広がる青い海。真珠のネックレスのように細長く広がった環礁。やしの木の緑とサンゴの青い海のコントラストが美しい。
 約1時間くらい飛んだ頃、海の中にひとつの島が見えてきた。「あれがキリ島?」「えっ、すごく小さいよ」飛行機の中で、私たちはどよめいた。しかし、飛行機はその小さい島に降り立った。
 「Welcome 2002 Bikini Day」の看板が私たちを迎えてくれた。私たちは、このキリ島で行なわれているビキニデーの式典に参加するためにやって来た。

監獄の島−キリ島

 キリ島は、現在、ビキニ環礁の島民の避難先となっている。1946年3月7日、アメリカはビキニ環礁を核実験場に選び、島民を移住させた。島民は、ロンゲリックやクワジェリンなど島々を転々とした後、現在、マジュロ環礁のエジット島やキリ島などに分かれて暮している。アメリカは1946年から58年まで、ビキニとエニウェトクで合計67回の核実験を行なった。うち、ビキニでは23回の原水爆実験が行われた。島民は島を離れて以来、強い残留放射能のため、現在も故郷の島に戻れない。
 キリ島は、徒歩で45分くらいで一周する広さ。そこに1000人余りが住んでいる。新しい家が多い。車も走っている。電気は24時間OK。シャワーもあり、お湯も出る。これまで、ロンゲラップ環礁の人たちが避難しているクワジェリン環礁のメジャット島に行ったことがあるが、メジャットよりもずっと都会だ。でも、食生活は、ほとんどアメリカの食べ物に依存している。鶏肉、豚肉の固まり、小麦粉、米、缶詰、ソーセージ、ソーダ、コーラ、ラーメンが山積になっていた。子供も大人も、食事は米と肉、インスタントラーメンを食べ、ソーダをよく飲んでいた。
キリ島には、島民の食生活を育んでくれる環礁がない。どの方向に行っても、波の荒い外海にぶつかる。波が荒いため、ほとんど漁にはいけない。そのため、外からの食料に頼っているが、海が荒れると食料の島への荷揚げもままならず、しばしば飢えにもさいなまされた。
ここでは、マーシャルのカヌーをつくりそれで漁にいくという伝統的な暮らしは消えてしまった。若者たちには受け継がれない。彼らはすることもなく、ぶらぶらしている。島民は、この島のことを「監獄の島」と呼んでいる。
ビキニ環礁自治体は、核実験の被害環礁の一つとして、アメリカから最も多額の補償金をもらっている。食料も、家の新築、リフォームも、電気も、補償金は島民の生活の向上のために使われてきた。マーシャルの他の環礁の人々に比べたら、物質的には豊かな生活をしている。しかし、これで、ビキニの人たちは本当に幸せなのだろうか。

ジエンさんの人生

ジエン・カレプさん(69歳)の人生は、ビキニの歴史そのものだった。ジエンさんは言う。「ビキニ環礁は、本当に美しく、魚もたくさんいた。そこには豊かな暮らしがあった。しかし、核実験場にされ、家族と共にロンゲリックに移住した。食べ物がなく、そこでとれる魚は毒をもっていた。母親と祖母が餓死した。その後、クワジェリン環礁のクワジェリン島でテント暮らしを強いられた。1977年、ビキニが安全だということで、1年半ほど戻った。アルルート、ロブスター、貝などを食べた。その後、皮膚や胃に異常が起きてきた。」
ジエンさんはこれまで、甲状腺の病気、胃、心臓発作などを患ってきた。「ビキニは神がくれた島。魚も食物も神がくれたもの。自分たちはアメリカから奴隷以下の扱いをうけた。アメリカが私たちから奪ったものから見れば、これまでの補償なんてとるに足りない」と語気を強めた。最後に、ジエンさんの6人の子供がすべて亡くなったと聞いて、私は絶句した。

許せないアメリカの態度

3月4日、キリ島のビキニデーで、第五福竜丸の元乗組員の大石又七さんは、アメリカは人類の幸福と世界の戦争を終わらせるために核実験を行なうと言って、ビキニの人たちから土地をとりあげた。しかし、それは本当に人類の幸福のためになったのかと問いかけた。島を追われて56年。島民は長期の苦しみと深い喪失感に打ちひしがれている。いつ故郷に帰れるのかというジレンマ。未来にも希望は見えない。どの国であっても、他国民にこのような仕打ちをする権利はない。
 現在、マーシャル政府は、アメリカと結んだ自由連合協定の期限切れを迎えた経済援助などについて交渉を続けている。2000年9月、同国政府は、補償は被害の実態に合わないとして、アメリカ議会に新たな補償要求を提出した。しかし、現在まで、アメリカの議会は何ら回答をしていない。自由連合協定の交渉の中でも、アメリカ政府は補償の問題は議題にもしないという態度だ。

ビキニ島民との連帯

 きびしい補償交渉の現実とキリ島での島民の飼い殺しの状況を見て、アメリカに対する怒りが湧き上がってきた。同時に、私たちが彼らに対して一体何ができるのだろうと悶々と考えていた。
 ビキニ環礁自治体のエルドン・ノート首長は、「自分たちは、社会から疎外された大海の中の孤島に住んでいる。でも、今回のあなたたちの訪問は、自分たちは一人ではない、自分たちにも友人がいるということがわかり励まされた」と語った。「今はアメリカの議員でさえ、自分の国がマーシャルで行なったことについて知らない。自分たちは補償の交渉に行って、いちいち彼らに教えなければならない。あなたたちが、今回、マーシャルに来てやってくれているように、世界の人々にビキニ被災について知らせてくれることが、私たちの力になるんだよ」とビキニの議員が言ってくれた。
私の心の中におおいかぶさっていた雲の切れ目から、一筋の光がさしたように思えた。

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