【被爆者援護連帯】
|
マーシャル連帯代表団に参加した
大石又七さんに聞く |
|
|
|
|
日本原水協は2002年2月26日−3月10日、マーシャル連帯代表団を派遣しました。代表団は、マーシャル諸島の首都マジュロやキリ島で、3・1ビキニデー行事への参加をはじめ活発な活動を行ないました。代表団に参加した、第五福竜丸元乗組員の大石又七さんに感想を聞きました。
ビキニ被災から48年ぶりにマーシャル諸島を訪問しましたが、感想は?
とにかく暑かった!これまで漁には行っていても、上陸したことはなかったので、島のことは知らず、私にとっては聞くこと、見ることすべてが初めてで驚きだった。被ばく者の話を聞いたのも初めて。
3月1日の朝、ブラボーが爆発した6時45分、ホテルから海岸へ出て空を見た。外は白みがかっていたが、自分の頭に残っていた当時の記憶より明るいと感じた。
マーシャルの3・1の行事に参加した感想は?
朝、派手に飾った車のパレードが行なわれたのには驚いた。マーシャルの大統領や日米の大使など、政治のトップの人たちが出席しており、彼らと言葉を交わすことができたのは驚きだった。私の発言には、きつい部分があったと思うが、日本とアメリカが政治決着をしたことを訴えたかった。発言の後、握手を求められたり懇談をしたが、彼らと接点が持ててよかった。
同じ死の灰を経験したロンゲラップの被ばく者との聞きとりは、いかがでしたか。
私もそうだが、被ばく者は年をとってきている。彼らは私たちよりも、放射能、核兵器について知識がない。あまりにも純真、純朴。自分の病気についても知らない。アメリカが教えていないのだろうけど、自分たちが被害者なのに真実を知らされないできていることは哀れでかわいそうだった。
キリ島でのビキニデー行事にも参加しましたね。キリ島の様子はいかがでしたか。
キリ島の人たちはオリの中に入れられている。何もすることがない。半世紀に近い間、こんな中で暮らすと人間はどうなってしまうのだろう。アメリカの食料、缶詰、コーラ。アメリカはビキニの人にこんな暮らしをさせておいて、これをどう思っているのだろう。アメリカの人間性を疑う。ひどい仕打ちだ。世界中の人が目を向けなくてはいけない大問題だ。
死の灰が降り注いだロンゲラップはどうでしたか。
ヤシの実も小さくてあまりなっていなかった。ねじれているヤシの木も見た。汚染された土を削って新しい土を敷く作業をしていたが、あまり意味のないように思われた。ロンゲラップの人たちはまだ故郷に帰れない。放射能の怖さを新ためて思い知らされた。アメリカの人たちはこの問題をどう思っているのか。
マーシャルの大統領への表敬訪問の感想は?
大統領が日本のビキニ被災者の補償の問題に関心を示したのは意外だった。この問題についてあまり知らなかった。第五福竜丸のことも、核被害の問題を扱っているような人しか知らない。私たちもマーシャルのことは知らない。お互いに知りあうべきだ。
マーシャルの被害者は、アメリカにねばり強く補償を要求しているが、日本の場合と比較してどう思ったか。
当然、日本の被ばく者も補償を要求するべきだ。それをしないで終わらせたのが、日本のビキニ事件の始末のつけ方だ。ビキニ事件は未解決だ。そして、仲間たちは死んでいった。マーシャルの人たちの補償請求は当然のことだ。
日本人はビキニ事件に対してもう終わったという考えを持っている。これを覆して補償を求めるのは至難の業だ。しかし、この事件の経緯と事実だけは残すべきだ。伝えていかなくてはならない。
最後にひと言。
私が今回、マーシャルの訪問に参加するにあたり、3つやりたいことがあった。一つは、マーシャルの被ばく者の気持ちを知りたかった。二つは、マーシャルの子供たちと凧揚げをすることだった。マーシャルの美しい島々、空と海にはミサイルは似合わない、凧揚げと子供の歓声が似合うと思っていた。三つ目は、第五福竜丸の山本機関長が死ぬ前に作った棒タイをしめて、彼と一緒にマーシャルに行くことだった。
今後も、ビキニ被災を知らせ、核兵器の廃絶を訴える活動を続けていく。私にできることは、その努力を惜しまない。
被爆者の声へもどる
|