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資料保管庫】【反核平和運動・反核平和運動

 

核兵器の使用と威嚇の適法性に関する国際司法裁判所の 勧告的意見にたいする
C・G・ウィーラマントリー判事の反対意見

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索 引
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法廷意見についての序文的所見
I 序
U 自然と核兵器の影響

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V 人道法
1.「人道の基本的考慮」
2.戦争に関する人道法の多文化的背景
3.人道法の概要
4.諸国家によるマルテンス条項の承認
5.「公的良心の命ずるところ」
6.国連憲章および人権が人道の考慮と公的
 良心の命令にあたえる影響
7.「付随的損害」は意図されたものではないという主張
8.違法性は特定の諸禁止規定とは独立して 存在する
9.「ロチュス号」事件の判決
10.戦争に関する人道法の特定法規
(a) 不必要な苦痛をあたえることの禁止
(b) 区別の原則
(c) 非交戦国の尊重
(d) ジェノサイドの禁止
(e) 環境に被害を与えることの禁止
(f) 人権法
11.法理学上の見解
12.1925年ジュネーブ毒ガス禁止議定書
13.ハーグ陸戦法規第23条(イ)

W 自衛
1.不必要な苦痛
2.均衡性/過ち
3.区別
4.非交戦国
5.ジェノサイド
6.環境への被害
7.人権

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X いくつかの全体的考察
Y 核兵器にたいする国際社会の態度
Z いくつかの特殊な要因
勧告的意見を出すことに反対するいくつかの議論
結論

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引用注

 

V 人道法

法廷に持ち出された最も主要な争点は、核兵器が人道法の基本原則に合致する点がいかなる意味においてもあるか否かということであった、といえるだろう。

人道法の原則が核兵器に適用されることについては、本審理のどの段階でも疑問が差し挟まれることはなく、法廷は満場一致でこれを承認した(パラグラフ2(D))。そればかりでなく、核兵器の使用が合法であると主張する国のほとんどが、その使用は国際人道法に従ってなされなければならないと認めているのである。

よってロシアは次のように述べている。

「もちろん、これまで述べてきたことは、核兵器の使用がまったく制限されない、ということを意味するものではない。たとえ核兵器の使用が原則として正当と認められるような場合でも個別あるいは集団的自衛において、その使用は、軍事行動の方法および手段に関する人道法により課せられた制約のわく内でなされなければならない。注意すべきは、核兵器に関しては、その制約は条約法における制約というよりむしろ、慣習法における制約であるということだ」(陳述文書、18ページ)

アメリカは次のように述べている。

「アメリカはこれまでずっと、武力紛争に関する国際法の種々の原則が、通常の戦争の方法および手段だけでなく、核兵器の使用にも適用されるという立場をとってきた。だがそれは決して、核兵器の使用が戦争法で除外されているという意味ではない。以下で証明するように、合法性の問題は、個々の核兵器使用に付随する特定の状況いかんによるのである」(陳述文書、21ページ)

よって、イギリスも次のように述べている。

「これはつまり、あらゆる核兵器使用の合法性を判断する基準となる、武力紛争に関する法には、慣習国際法のすべての条項(追加議定書Tで成文化されているものを含む)が含まれるということである。また場合によっては、協定法も含まれるが、この法に新たな規則を導入した議定書Tの諸規定は除かれる」(陳述文書46ページ、パラグラフ3.55)

このように、核兵器が人道法の諸原則に従わなければならないということは一般的に認められており、また今日では議論の余地のない国際法の原則として司法的にも確認されている。

それゆえ、人道法の主要な諸原則は依然として、すでに概観したような、核兵器がもたらすと知られている結果に対立して置かれているのである。これら諸原則と事実とを比べてみれば、両者がまったく相容れないものであることは明白であり、必然的に、核兵器と人道法は矛盾するという唯一の結論に達することになる。核兵器には疑問の余地なく人道法が適用されるのであるから、これらは議論の余地なく違法なのである。

この件に関する国際人道法の禁止規定には、過度の危害を生ぜしめる兵器、戦闘員と文民を区別しない兵器、中立国の権利を尊重しない兵器の禁止がある。

 以下で、さらに詳しく考察したい。

1.「人道の基本的考慮」

この言葉は、人道法の中心概念を言い表している。いかなる状況においても、(核兵器使用という)国家のこの行為は、人道の基本的考慮に反するのだろうか? それに答えるには、この言葉を定式化し、前述のような、核がもたらすと知られている結果を列挙するだけでよい。そこから生じる光と闇のコントラストは非常に劇的で、両者の完全な矛盾に疑いが向けられていたことに驚きを覚えるほどである。

だれでも常識的に考えれば、膨大な数の敵国住民を皆殺しにしたり、大気を汚染したり、ガンやケロイドや白血病を引き起こさせたり、これから生まれてくる多くの子どもたちに先天的障害や精神発達遅滞の要因をもたらしたり、領土を荒廃させたり、食物を人間が食べられないようなものにしたりといったようなことが、「人道の基本的考慮」とはたして合致しうるのかどうか、疑問に思うだろう。このような質問に対して確信をもって合致しうる、と答えることができないなら、核兵器が人道法に違反するか、それゆえ国際法に違反しているかどうかに関する議論はそこで終わる。

ウッドロー・ウィルソン大統領は、1917年4月2日に議会の両院合同会議での演説で次のように述べ、この概念を的確に言い表した。

「一歩一歩痛みを伴いつつ、成果はまことにわずかなものながら、……この法は築きあげられてきました。しかし少なくとも、人間の心と良心が求めるものについては、常に明確な展望をもっていました」(314)

核兵器に関しては、「人間の心と良心が求めるもの」が何であるかははっきりしている。それについて、やはりアメリカの大統領であるレーガンも述べている。「核兵器が地上のどこにも存在しなくなる日を願って、私は祈ります」(315)。本意見の別の箇所で述べるように、これは、世界中の市民に共通する感情であり、ウィルソン大統領がその成果を「まことにわずかなもの」と評したころから発展を続けてきた現代の人道法の背景となっている。

次の節では、人道法の諸原則の発展の現段階を検証したい。

2.戦争に関する人道法の多文化的背景

戦争に関する人道法の概念を大いに強める事実として、この法は最近生まれたものでもなければ、どれか一つの文化の産物でもないということに注目したい。この概念は古代に起源を持ち、少なくとも3000年に及ぶ歴史がある。また前述のように、ヒンドゥー教、仏教、中国文化、キリスト教、イスラム教、伝統的アフリカ文化など、多くの文化に根ざしている。これらどの文化においても、いかなる手段であれそれをどの程度まで敵との戦闘に使用してよいかについて、さまざまな制約が表現されてきた。現在考慮中の問題は世界全体に関わる問題であり、また、この法廷は世界的な法廷であって、国際司法裁判所規程は、裁判所の構成が、世界の主だった文化の慣習を反映したものとなるべきであると定めている(316)。法廷での考慮の際に、この重要な問題に関わる多文化の伝統を無視してはならない。そんなことをすれば、判決の説得力を高めている普遍的権威の完全性が失われてしまうだろう。この説得力は、歴史に深く根ざし、地理的に広範囲に及ぶ伝統から生じてくるのである(317)。

核兵器と特に関連するのが、大量破壊兵器の使用を禁じた、古代南アジアの伝統である。インドの二大叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバーラタ』でも、この伝統に触れている。この叙事詩は、南アジアと東南アジア全域で、この地域の生きた文化的伝統の一部として知られ、定期的に上演されているものである。この二つの叙事詩は、この原則についてきわめて具体的に言及しており、歴史的には約3000年前のある時代について述べている。

『ラーマーヤナ』(318)は、インドのアヨーディヤーの王子ラーマと、スリランカの支配者ラーヴァナとの戦いを物語った叙事詩である。この戦闘中、「武器を持たない者も含め敵の種族全体を滅ぼしてしまえる」戦争兵器が、ラーマの腹違いの兄弟、ラクシュマナの手に渡るのだが、その様子が作品の中できわめて詳細に描かれている。

ラーマはラクシュマナに、その兵器を戦争で使用してはならないと忠告する。

「なぜなら、このような大量破壊は古代の戦争法で禁じられているからだ。たとえラーヴァナが不当な目的で正義のない戦争をしているとしてもだ」(319)

 ラーマが従っているこれらの戦争法は、彼の時代においても古代のものであった。マヌ法典は、戦争が正義のものであるか否かにかかわらず、敵を欺く戦略を禁じ、また、武装していない敵や非戦闘員に対するあらゆる攻撃を禁じていた(320)。ギリシャの歴史家メガステネス(321)は、戦闘中の軍隊が、土地を耕作中の農民には、たとえ近くで激しい戦闘になったときでも危害を加えなかったという、インドの習慣に言及している。また、敵国の土地を火や伐採で荒廃させることもなかったと記している(322)。

『マハーバーラタ』は、クル族とパーンドゥ族との戦いを語った叙事詩である。この中にも、超破壊的兵器を禁じる原則に触れている箇所がある。

「アルジュナは、戦争法を遵守し、超破壊兵器『パスパサストラ』の使用を控えた。なぜなら、戦闘が通常兵器に限定されているときに、並はずれたあるいは通常でない兵器を使用することは、教義や、承認されている戦争法はもちろん、人の道にすらはずれる行為だからである」(323)

マヌ法典では、不必要な苦痛を与える兵器の使用も禁じられていた。たとえば、刺さるとなかなか抜けない、矢じりがかぎ状の矢や、矢の先を熱したり毒を塗ったりした矢などがこれにあたった(324)。

また、次にあげる申命記(旧約聖書)の一節(20章19節)には、古代ユダヤの伝統である環境に関する賢明な態度が示されている。

「長い間、町を包囲して、これを攻め取ろうとするとき、斧をふるって、そこの木を切り倒してはならない。その木から取って食べるのはよいが、切り倒してはならない。まさか野の木が包囲から逃げ出す人間でもあるまい」(強調は筆者)

アフリカの部族間の戦争に関する最近の研究でも、武力闘争の際の人道的な伝統があり、敵に対して節度と寛容が示されていたことが明らかになっている(325)。たとえば、語り継がれている戦争の中には、特定の兵器の使用を禁じる諸規則があったものもあるし、またある地域では、開戦前・戦争中・休戦後の礼儀・協定・規則に関して高度に発展した制度があり、その中には賠償制度も含まれていた(326)。

キリスト教の慣習では、1139年の第2回ラテラノ公会議は、あまりに残酷なため戦争での使用を禁じられた兵器の、興味深い例を示している。その兵器は、いし弓と攻城兵器で、この二つは「残酷で、神が嫌悪する」(327)ものとして糾弾されたのである。(自著でこのことに言及した)ナスバウムは、「原爆の時代においては(この規定は)きっと奇妙に思えることだろう」と述べている。新しい技術が戦場にもたらす危険性が非常に早くから認識されていたことが、この例でわかる。同様に、戦争法の別の領域では、そうした兵器を何らかの形で管理下に置こうとする努力がなされていた。たとえば「神の休戦」と宣言された数日の間は、争うことは許されず、いくつかの教会区域ではその期間は水曜の日没から月曜の日の出までとされていた(328)。

12世紀に出されたグラティアヌスの教令は、キリスト教がこれらの原則を扱った最初の例の一つであり、第2回ラテラノ公会議で課された禁止は、この問題に対する関心が高まりつつあったことを示している。だが、キリスト教の哲学では、正義の戦争(jus ad bellum)の概念については、聖アウグスティヌスのような初期の著作家たちによるきわめて綿密な調査があるものの、戦争法 (jus in bello)は何世紀もの間くわしい研究の対象にならなかった。

ビトリアは騎士道時代の戦いの伝統をはじめ、この問題に関するさまざまな慣習を集めているし、アクィナスは非戦闘員の保護に関して、よく練られた原則を作り上げている。二人をはじめとする著作家たちの研究によって、この問題に関する思想の潮流は大きくなっていった。

イスラム教の伝統では、毒矢を使ったり剣や槍などの武器に毒を塗ったりすることは、戦争法で禁じられていた(329)。不必要に残酷な殺し方や身体の切断もはっきりと禁じられていた。非戦闘員、女性と子ども、僧および礼拝の場所は、明確に保護されていた。田畑や家畜は、いかに領土権を持つ者といえども、滅ぼしてはならなかった(330)。捕虜についても「アラーの神の愛のために貧者や孤児や捕虜に食べ物を与えよ」(331)というコーランの一節に従って、慈悲をもって扱うこととされていた。戦闘中の行為に関するイスラム法は非常に進んでおり、捕虜にきちんとした扱いをすることだけでなく、捕虜が収容中に遺言を残した場合、何らかの適切な経路を通じて相手側に伝えることも定めていた(332)。

仏教は完全な平和主義であることから、その伝統はイスラムのものよりさらに進んでいて、殺生をすること、苦痛を与えること、捕虜を取ること、他人の財産や領土を奪うことなどは、いかなる状況の下でも許されない。戦争は完全に違法とされているので、どんなことがあっても、破壊のための兵器は認められない。核爆弾のような兵器などは、もっとも認められざるものである。

「仏教によれば、『正義の戦争』と呼べるものなど存在しない。それは、憎しみや残酷さや暴力や虐殺を、正当化したり弁解したりするためにつくられ広められた、偽りの言葉なのだ。何が正義で何が正義でないかなど、だれに決められるだろうか。力のあるもの、勝った者が『正義』で、弱いもの、敗けた者は『不正義』とされる。自分たちの戦争は常に『正義』で、敵方の戦争は常に『不正義』だ。仏教では、このような立場を受け入れない」(333)

全人類を滅ぼせるほどの戦力の使用が許されるか否かという、人道法の問題についての勧告的意見を出すにあたり、世界の文化的伝統の主要な部分にみられる人道的な観点を無視するようなことがあれば、まったく重大な怠慢といえるだろう(334)。

もっと最近の歴史で、人道的な原則を取り入れた例は無数にある。たとえば、クリミア戦争中の1855年、セヴァストポリの包囲攻撃で硫黄の使用が提案されたが、イギリス政府はこれを許可しようとしなかった。同様に、アメリカ南北戦争中の1862年、連邦軍は砲弾に塩素を入れることを提案したが、政府はこれを退けた(335)。

まさにこのような種々の文化的背景に照らして、これらの問題は考慮されなければならないのであって、これは19世紀になってようやく生まれた気運でもなければ、普遍的な伝統への根ざし方が浅く簡単にくつがえせるものでもないのだ。

グロティウスは戦争の残虐性を懸念し、次のように嘆いている。

「ひとたび武器を手にすると、神を畏れ敬う気持ちや人間的な法は放り出される。まるで、その時点から、あらゆる犯罪を無制限におかす権限が人間に与えられたかのように」(336)

グロティウスが築いた基礎は幅広い基盤を持つもので、戦争中の行為を制限する規則には絶対的な拘束力があると強調している。グロティウスはこの基礎を確立するのに、幅広い文明・文化に蓄積された人類の経験をよりどころとしている。

グロティウスは百般にわたる文献研究から独自の原則を引き出したが、その研究にはもちろん、これらの問題に関するヒンドゥー教や仏教やイスラム教などの膨大な文献は含まれていない。つまりグロティウスは、戦争法と呼ばれる法分野の普遍性とそのきわめて古い歴史を示す、このかなりの補足資料の利は得ていないのである。

3.人道法の概要 

人道的原則は古くから、国際法全体に備わった概念の基本的蓄積の一部だった。現代の国際法は、戦争被害と積極的に関わってきた人道主義の、100年以上にわたる資産を受け継いでいる。その目指すところは、戦争中に起こりがちなことだが、人間的な思いやりを説いたあらゆる教えを破る傾向を阻止することだった。実際に成功したのはいくつかの特定の地域だが、その特定の事例すべてに生命をあたえるのは、戦争の目的の必要性をこえる人的被害を避ける、という一般原則である。

アメリカ合衆国には、ごく早い時期に率先して人道法を軍隊の手引き用の文書とした功績がある。南北戦争のさなか、リンカーン大統領はリーバー教授に命じて、グラント将軍が率いる軍への訓令を準備させた。皇帝ニコライ2世の代理として1899年の平和会議に参加したマルテンス氏は、会議でこの規則に言及し、これは合衆国の軍隊だけでなく南部連合の軍隊にも多大な恩恵をもたらしたと語った。彼はこのイニシアチブに賛辞を述べ、これが、アレクサンダー2世が召集した1874年のブリュッセル会議へと「論理的かつ自然に発展」した一つの例であると説明した。その会議が今度は1899年の平和会議につながり、さらにまた、この問題で非常に重要な意味を持つ、ハーグ条約へとつながっていったのだ(337)。

1868年のセント・ピータースブルグ宣言は、「戦争において国家が遂げんとつとむる唯一の正当なる目的は敵の兵力を弱むるに在る」と定めている。そして、この後も多くの宣言がこの原則を取り入れ、補強してきた(338)。これはまさに、多くの文明によって認められてきた古代の戦争規則を言い表したものである(339)。

マルテンス氏にちなんで名づけられたマルテンス条項は、全会一致で、陸戦の法規慣例に関する条約(1899年のハーグ第二条約および1907年のハーグ第四条約)の前文に取り入れられた。

「一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は、締約国は、其の採用したる条規に含まれざる場合に於ても、人民および交戦者が依然文明国の間に存立する慣習、人道の法則および公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護および支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む」(強調は筆者)

マルテンス条項が考案されたのは、占領地域における抵抗運動の地位に関してハーグ平和会議参加国間に生じた意見の食い違いに対処するためだったが、今日では、この条項は人道法全般に適用されると考えられている(340)。人道法に関するいくつかの主要な条約には、この条項が何らかの形で盛り込まれている(341)。マルテンス条項は、すでに公式化されている個々の諸規則の背景には、まだ特定の規則で扱われたことのないような状況にも適用できるほどの多くの諸原則があるということを明確に示している(342)。

このことと関連して見ておきたいのが、1907年のハーグ条約第22条である。この条項は、「交戦者は、害敵手段の選択に付き、無制限の権利を有するものに非ず」と定めている。

ここでまた明らかにされているように、国際法は、人類の福利という大きな問題に対して無反応だったどころか、違反行為も含めどのような状況が起ころうとも、それに対する態度と対応を決めるうえで、人道を考慮することがとりわけ重要であると古くから認識していたのである。注目すべきは、これらの宣言が出されたのが、科学技術の影響で近代兵器の開発が急速に進められていた時代だったということである。より洗練された破壊兵器の開発に世界中の軍事関係者が取り組んでおり、当分はその状態が続くであろうことは、予測されていた。つまりこれらの原則は、当時すでに存在していた兵器だけでなく将来製造される兵器にも、すでに知られていた兵器だけでなくまだ目の前に姿を現していない兵器にも、適用されることを意図してつくられた。古い兵器だけでなく新しい兵器にも適用することを意図した一般原則なのである。

1949年のジュネーブ諸条約の締約国は、マルテンス条項が国際法の有効な一部であることをはっきり認めている。この命題を本気で否定する国際法学者はいないだろう。

マクドゥガルとフェリシアーノも次のように述べている。

「大規模な破壊を与えることによって敵国を威嚇することを合法と認めることは、暴力の行使に関するすべての法的規制を無効としてしまうに等しい」(343)

国際法は古くから、通常兵器と不必要に残虐な兵器とを区別してきた。また、この問題に対する関心を常に示し続けてきた。たとえば1980年に結ばれた特定通常兵器条約(過度に傷害を与えまたは無差別に効果を及ぼすことがあると認められる通常兵器の使用の禁止または制限に関する条約)では、三つの議定書でそれぞれ次のような兵器に対処している。人体内に入った場合に検出することができないような破片によって傷害を与える兵器(議定書T)、地雷、ブービートラップ及び他の類似の装置(議定書U)、焼夷弾(議定書V)。

1899年の段階において国際法が内包する諸原則が、「ダムダム弾」あるいは炸裂性の弾丸の異常な残酷性を戦争目的を越えるものとして認識できるほど強固なものだったとするなら(344)、また、窒息性または有毒性のガスを発散する投射物をやはり異常に残酷なものとして認識できるほど強固なものだったとするなら(345)、1996年の現在、1世紀を越える歴史を持ちながら、人道法がいまだに戦争目的を越えるものとしての核兵器の残酷性への対応を立てられないほど、その原則が弱体化していることを知るに及んで、客観的に事態を見る者はいくぶん当惑せざるをえないだろう。少なくとも、一人の兵士の体内で一発の弾丸が炸裂することが、過度に残酷であるとして1899年以来国際法で許容されず、一方、10万の民間人を1秒で燃やしつくすことがそうでないというのは、非常に奇妙に思われるにちがいない。この兵器が複数回の使用で全人類と全文明を滅ぼせるということになれば、その驚きはさらに大きくなるだろう。

どの学問分野にも言えることだが、時には対象から一歩下がり、矛盾や不合理がないかを客観的に綿密に調べてみると、よい結果が得られる。はなはだしい矛盾や不合理が明らかなのに、それが不問に付されているようなら、その学問は専門的な問題にはまり込んで身動きがとれなくなっているのだと見られるおそれがある。国際法は幸いそのような状況にはないが、核兵器が違法だという結論が間違っているということになれば、話は別だ。

次の議論で明らかにするが、国際法は、こうした前例のない問題に対処できないほど、資産が不足しているわけではない。人道法は核の危険に直面した無力の塔ではない。この問題を扱うだけの十分に広範で十分に深遠で十分に強力な諸原則が、人道法には豊富にあるのである。

人道法が本法廷の判決で評価をうけてきたことはもちろんだが(たとえば、コルフ海峡事件、 I.C.J. Reports 1949, p.22; 国境地帯および国境をこえた武力行動〔ニカラグア対ホンジュラス〕、I.C.J. Reports 1988, p.114)、これまで本法廷では、深い検討をおこなう機会がなかった。この件は、そのまたとない機会である。

4.諸国家によるマルテンス条項の承認

マルテンス条項は、国際社会全体の承認を受けてきた。本意見の別の箇所で触れたように、この条項は一連の条約に取り入れられ、国際的な司法法廷で適用され、軍の教範に取り入れられ(346)、また国際法の文献の中でも、その短い表現の中に戦争法の哲学全体をまさに凝縮したものである、として広く受け入れられてきた。

クルップ裁判(1948年)では、この条項は次のように評されている。

「文明国間に確立した慣習および人道法および、公共良心の要求を法的な尺度にした総体的な条項であって、この条項を付した条約および規則の特定の規定が、戦争中あるいは戦争に付随して生じる特定の事例に該当しない場合に適用される」(347)

ライト卿によれば、この条項は数多くの戦争犯罪を特定しているハーグ条約の基調となっていて、

「今後生じてくる問題は、現在有効な戦争法の原則、さらに言えばすべての法の原則すべてを本当に短い言葉で述べたこの重要な条項の、支配的な効果にゆだねられるのである。なぜなら、あらゆる法の目的は、人間の相互関係の中で可能な限り法と正義と人道の支配を保つことだからである」(348)

こうしてマルテンス条項は、現在の慣習国際法全体に不可欠な一部として確立した。国際法は、これらの諸原則が慣習国際法に結晶したかどうかを議論するような段階を通り過ぎてから久しい。今日では、これらの諸原則のどれ一つとして拒否する国家はない。

慣習国際法規として認められているかどうかを確かめる試金石として一般に受け入れられているのは、その規則が「いかなる文明国もこれを否認することは考えられないほど広く一般に受け入れられている」かどうかということである(349)。今日ではこれらの原則のどれ一つとして否定する国家はないだろうが、議論になると思われる点は、核兵器に関する具体的な事例への適用である。どういうわけか核兵器の問題は、他の兵器には適用される規則をこえた、範囲外にあるように思われる。もし国際法が、より小規模の兵器を、これらの原則が回避しようとしている過度の損害を引き起こすおそれがあるとして規制するのであるなら、より規模の大きい兵器はなおのこと規制せねばならない。核兵器をこれらの原則の適用範囲外に置こうとするのは、人道的にばかりでなく論理的に考えても論拠が欠けている。

上記のような考察は、慣習法は核保有国の反対に優先して作成することはできない、という議論(アメリカの陳述書、p.9)(350)にも有効だ。この問題に適用される慣習法の諸原則は、核兵器が発明されるずっと以前から、核保有国からの忠誠を集めていた。この諸原則こそが、核兵器の違法性の根拠なのである。

これらの諸原則が受け入れられ、それに対して異議が唱えられていないならば、当然、核兵器に関する具体的な事例への適用にも、合理的な疑いをさしはさむ余地がないことは明白であろう。

5.「公的良心の命ずるところ」

マルテンス条項に由来するこの言葉は、人道法の核心である。マルテンス条項とその後公式化された多くの人道的原則は、人道的行動に関して公衆が強く抱いている感情を法に反映させることの必要性を認めている。

もちろん、これはかなり漠然とした表現であるから、ある特定の感情がそう公式化できるほど広く共有されているかどうかを判断するのは難しい場合もある。

だが、核兵器の使用または使用の威嚇に関しては、そのようなあいまいさは存在しない。この問題については、世界中の人々がもっとも明確な言葉で何度も発言してきたからである。それを証明しているのは、何年にもわたっておこなわれてきた国連総会の決議だけではない。ほとんどすべての国の大勢の一般市民、国際的な性格の専門組織団体(351)、その他世界中の多くの団体がくり返し、公共の良心は核兵器の不使用を求めているという彼らの確信を宣言してきた。世界中で、大統領や首相、僧侶や司教、労働者や学生、女性や子どもたちが、核兵器とその危険に対する強い反対を表明しつづけてきた。まさにこの信念が、たとえばNPTで、究極的にはすべての核兵器を廃絶しなければならないと規定されたときなどに、国際社会全体の行動の基盤となったのである。さきごろおこなわれた1995年のNPT再検討会議では、この目標が再確認されている。核実験全面禁止条約に向け現在進行中の作業でも、このことは再び確認されている。

この後の章(Y)で、1945年に国連憲章が発布されて以来、人権法が大きく進歩してきた結果もたらされた人道的な問題に対する民衆の関心の高まりについて言及する。

この問題に関する総会決議は数多くある(352)。その中からひとつだけ引用すると、1961年の第1653号決議 (XVI) は、こう宣言している。

「核兵器・熱核兵器の使用は、国際連合の精神・文言および目的に反し、それ自体、国連憲章の直接的な違反である」

さらに具体的に国際法に言及して、同決議は、核兵器の使用は「国際法規と人道の法規に違反するものである」と断言している。さらに、国連総会は、核兵器の使用だけでなく使用の「威嚇」も禁止するとしている(353)。

核兵器は世界中の多くの地域において、条約によって禁止されてきた。海底、南極、ラテンアメリカおよびカリブ海、太平洋、アフリカ、そして言うまでもなく、宇宙空間もである。こうした全世界的な活動と参加を考えれば、核兵器が人道に関する諸原則と両立することを世界が受け入れることはまったくありえないだろう。ここで示されているのはむしろ、核兵器には現代の公共の良心をひどくかき乱す要素があることが一般的に認識されているということなのだ。

この点に関してよく言われることだが、「この急速に発展しつつある人権の時代において、とりわけ人類の文明そのものの運命にかかわる可能性のある問題を考えれば、官民を問わず社会のすべての構成員の、法に対する期待を十分考慮に入れることは、適切であるだけでなく、絶対に必要である」(354)。

わかりきったことだが、どんなに高潔な原則に関してであっても、全世界がそれについて一致した意見を持つということはない。だが、核兵器は使用すべきでないという主張ほど広く一般に受け入れられている主張を他に探すことは難しいだろう。この問題に関するさまざまな意見表明は、「核兵器および核戦争は、武力紛争に関する人道規則の裁きを免れない、という幅広い社会的合意」(355)を表現している。

あらゆる国の平均的市民に代表される、世界の公共良心に対する一連の質問の形でこれらの問題を公式化してみれば、「公的良心の命ずるところ」と核兵器の矛盾は明確になる。

これらの質問項目は多岐にわたるものになるだろうが、ここではそのうちいくつかをあげておく。

・敵国住民にガンやケロイドや白血病を大量に引き起こすことは、戦争目的からみて合法だろうか。

・敵国住民のこれから生まれてくる子どもたちに先天性異常や精神発達遅滞を引き起こすことは、戦争目的からみて合法だろうか。

・敵国住民の食糧を毒物で汚染することは、戦争目的からみて合法だろうか。

・核戦争の原因となる争いに関わりのない国々の住民に上記のような損害を与えることは、戦争目的からみて合法だろうか?

こうした質問は、さらにいくつもあげられるだろう。

世界の公共良心がこの質問のどれかひとつにでもイエスと答えられるとしたら、核兵器が合法だという論拠もあるかもしれない。しかし、そうでないなら、核兵器の合法性を否定する立場は争う余地のないものと思われる。

6.国際連合憲章および人権が人道の考慮と公的良心の命令にあたえる影響(356)

1948年の世界人権宣言にはじまった戦後の人権の分野における巨大な発展は、「人道の考慮」と「公的良心」といった概念の重要性を評価するうえで、必然的に影響をおよぼしてきた。人権という概念に対する考えは過去数世紀と比べ、その定式化と、世界中で受け入れられるようになったことの両方において大きな進歩をとげている。この進歩により「人道への考慮」と「公的良心の命令」に対する世界諸国民の観念は大いに強められ、また非常に敏感になってきた。今日、国際的に受け入れられている人権の規範と基準の膨大な構造は、第二次世界大戦の前には見られなかったかたちで全世界に共通する意識の一部となっているため、人道的基準に関する問題がもちあがるつど、即座にまた自動的に人権の諸原則が引き合いに出されるようになっている。

こうした人権の進歩的発展にそって、人道と人道の基準の現代的な概念が形成される必要がある。そうすることで、基本的に期待されるその水準を、マルテンス条項が成文化された時をはるかに上回るまで高めることになる。

人権のこの変化がいかに重大であるかをはかるには、近代的人道法が、時として「クラウゼヴィッツの世紀」と評される1世紀(19世紀)のあいだに最初の進展をとげたことを想起するとよいであろう。19世紀がこう呼ばれるのは、この世紀における戦争は、紛争を解決する自然な方法であり、外交の自然な延長線上にあると広く考えられていたことによる。今日では世界の人々の意識は当時からはるかに前進している。これは、国連憲章が自衛の場合をのぞき(51条)国家によるあらゆる武力の行使を禁止(2条4項)していることからも明らかである。当法廷は勧告的意見で、広範囲におよぶ意味をもつこれらの条項の重要性を強調しており、これらの点についてはこの意見の冒頭でふれた(「法廷意見についての序文的所見」《前号収録》を参照のこと)。国連憲章2条3項には、すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和および安全ならびに正義を 危うくしないように解決しなければならない、という堅固たる強い責務が存在している。戦争の常態と正当性について完全に改められたこの姿勢が、私たちの時代の「公的良心の命令」を疑いなく高めた。

人権に関して規定した第1条、第55条、第62条、第76条などの国連憲章の条項は、1948年の世界人権宣言、1966年の市民的および政治的権利、そして経済的、社会的および文化的権利に関する二つの国際人権規約、また人権基準を定式化した拷問等禁止条約などの数多くの特定の諸条約と結合して、今日では、世界の人々の良心の一部となっている。そして、人道的基準にたいする違反を、マルテンス条項が誕生した時期と比べ、はるかに発展した明確な概念にしている。実際、今日の人権の規範と基準は世界の人々の意識のなかに非常に深く根を下ろしており、人道法のすみずみにあふれている。

これらの点にそって、今回の法廷では、国連総会が核戦争を「最も重要な人権である生きる権利の侵害である」(357)として糾弾した際に、人権と核兵器の関係に注目していた事実に注意を喚起する内容の陳述がおこなわれた(たとえばオーストラリア、CR95/22, p.25)。

人権の発展に並行して、巨大な発展をとげているもう一つの分野に環境法がある。環境法の存在も、人権に影響をおよぼす環境問題に対する人々の良心を敏感にしてきた。国際法委員会が、国家責任を考察した結果述べたように、人間環境の維持を深刻に脅かす行為は、「今日、人類の良心に深く根づき、国際法全体において特に不可欠な原則となっている」諸原則に違反する(358)。

7.「付随的損害」は意図されたものではないという主張

副次的にもたらされる結果は直接意図されたものではなく、それは核兵器による「副産物」または「付随的損害」であるという議論は的をはずれている。このような副次的結果は、核兵器の使用がもたらす必然的な結果であることが既に知られているのである。その行為の張本人は、まともないかなる法体系においてもこのような結果を引き起こした法的責任を逃れ得ない。これは、混雑した通りを時速150キロのスピードで車を暴走させた者が、その結果生じた人の死について、特定の人間を殺す意図がなかったという理由で責任を逃れ得ないことと同じである。

核兵器がもたらす結果に関して出されている膨大な数の文献は、いまや万国共通の知識の一部となっており、この知識を否定する者は信用されないであろう。

8.違法性は特定の諸禁止規定とは独立して存在する

違法性に反対する諸国の議論の多くは、ある国家にたいし明示的に禁止されていないものは容認されるという主張にもとづいている。この主張を検討するには、いくつか実際的な例をあげてみるとわかりやすいだろう。

(a) 仮に、明日、100マイル四方にいる生物すべてを、瞬時にして灰と化す光線が発明されたとしよう。その場合、これは戦争法(jus in bello)の基本原則を犯しており、よって戦争において合法的に使用することはできない、と断言するためには、この光線を特定して禁止する国際条約が締結されるまで待たなければならないであろうか。法律がこのような兵器を違法とみなすまで、国際会議の開催、条約の起草、批准への過程に伴うあれこれの手続きすべてを待たねばならないのは、ばかげたことに思われる。

(b) 明示的に禁止されていないものは容認されるというこの議論の誤りは、この意見の中で前述した例によってもさらに明らかにされている。この主張を発展させると、細菌兵器を禁止する諸条約が締結される直前まで、敵国住民のなかに致死的な伝染病を蔓延させる非常に致死性の高い細菌を充填した弾頭の使用は、合法であったと推定することになる。この結論は事の真偽を曲解するものであり、すでに存在する人道法の諸原則を完全に無視した場合にのみ成り立つ。

どの条約や宣言も核兵器を明示的に違法と宣言していないという事実をもっても、いかなる特定兵器または特定の宣言よりもはるかに深い底流を流れている国際慣習法の諸原則にもとづいて核兵器は違法であるとする核心の点を論ばくすることはできない。その残忍性や冷酷性により国際法が禁止しているすべての兵器を一つひとつ特定する必要がないことは、拷問を一般的に禁止するにあたり、拷問手段をそれぞれ特定する必要がないことと同様である。この原則こそが 国際慣習法の主題なのである。特定の兵器や拷問の手段が問題となるのは、それが明白な原則 どの文明国も否定しないと一度ならず評された原則として適用されるときのみである。

兵器技術者が、時として新しい技術を応用し、今までになかったような兵器を発明することは常にありうることである。しかし、この兵器を使用することは国際法の原則に反すると断言するためには、この新兵器を特定して非難する条約ができるまで待つ必要はない。

争う余地なく事実であるが、マルテンス条項が普遍的に認められた国際法の原則を意味するのであれば、それは、明示的な禁止規定の領域がおよばないところには人道法の一般原則の領域が存在することを意味している。つまり、「戦争のある一行為が慣習法による国際的な合意によって明確に禁止されていない場合、このことは必ずしも、この行為が実際に許容されることを意味しない」(359)のである。

どんな法体系も、特定の禁止条項の文字どおりの 言葉に依存していては、法を施行し発展させることはできない。発達した法体系というものはどれでも、特定の命令と禁止事項に加えて、いままで明示的には判決の対象となっていない行為や特定の事件に、時に応じて適用される一般原則を多数もっている。このように、一般原則は特定の状況に適用され、ここからさらにより具体的な規則が生まれるのである。

明示的に禁止されていないものは容認されるという理論にもとづいた法体系は、実に原始的な体系となろうし、国際法はこのような段階からははるかに進歩している。国内法の体系がこうした理論に基づいて機能することは可能であるとしても実際にはそれは全く疑わしいが、何世代にもおよぶ哲学的思考から生み出された国際法はそうはいかない。数多くの裁判所の管轄区域内で、近代法哲学は国内法体系においてこのような見解が支持され得ないことを明らかにしてきたし、国際法に関してはなおさらである。広く知られている法理学の教科書には、次のように述べられている。

「すべての法秩序の法則は、地球が空気で覆われているように、これを全体的に包む原則と理論をもっている。これらは法則の施行に影響を与えるだけでなく、時として法則の存在そのものにとって絶対に必要である」(360)

核兵器の違法性 を述べた条約があるかという問題よりも重要なことは、核兵器の合法性 を規定した条約や宣言が一つでもあるかどうかという問題である。核兵器のさまざまな側面を扱った国際的文書があまたあるなかで、核兵器の使用または使用による威嚇 が合法であると、ほんの一言でも示した文書はひとつもない。これとは対照的に、核兵器の合法性や使用への反対をはっきりと表明した国際宣言は数多い。これらの宣言はこの反対意見の随所で言及されている。

法の一般原則は、“法が発展するための養分”と“社会の道徳観のよりどころ”という2つの側面を提供している。これらの一般原則が、論争されているようなやり方で放棄されるのなら、国際法はその概念の精神的なよりどころからはずれて漂流してしまうであろう。「文明諸国により認められた法の一般原則」は法であり続ける。それは、核兵器による 無差別大量虐殺、核兵器により 将来の世代が受ける取り返しのつかない被害、核兵器による 環境破壊、核兵器により 中立国が被る回復不可能な損害が、国際条約により明示的に禁止されていなくともである。上の文章から斜体部分が削除されたなら、上に挙げたこれらの行為が国際法によって禁止されていることはだれも否定できないだろう。兵器が特定されていないことにより禁止の原則が無効になると主張することは、見かけ倒しの意味のない議論である。

主権国は、いかなる法規によっても明文的に禁止されていないことは何をするのも自由とする説は、はるか以前に論破された理論である。法の原則におけるこのような極端な実証主義は、人類を何度か最悪の残虐行為へと導いてきた。力とは、原則に拘束されない限り乱用されるものであることを歴史は証明している。古典法の公式化はそれとして有用性をもつ。しかし、それらが法の全体を意味しないことは、想像するまでもなく理解できるであろう。

とくに戦争法規に関していえば、このような理論はまた、次のように明確に述べているマルテンス条項を無視することになる。「一層完備したる戦争法規に関する法典の制定せらるるに至る迄は、締約国は、……其の採用したる条規に含まれざる場合においても、……人道の原則が適用されることを認む」。(強調は筆者)

したがって、明確な合意により、もしそれが本当に必要な場合は、条約による特定条項がつくられていないこの問題については、慣習国際法に含まれる広範な人道法の原則が適用されるであろう。

9.「ロチュス号」事件の判決

特定しての違法性の規定が欠如しているという点にもとづく議論は、「ロチュス号」事件の判決をよりどころとしている。このケースで常設国際司法裁判所は次の点について審理をおこなった。

「当法廷に示された状況において、トルコによるドモン中尉の刑事訴追を禁ずることになったであろう原則が、国際法のもとでは存在するか否か」(P.C.I.J.,Series A, No. 10, p.21)

そして、このような原則あるいは明確に同意が得られている特定の法が欠如しているもとでは、国家の権能を制限することはできないと判決した。

しかし実際には、「ロチュス号」事件のような条件のもとでもこれらの原則を適用することは可能である。なぜなら、戦時法規との関連においては、戦時法規の人道的原則が適用されるべきであることを核保有国が明確に受け入れているからである。核保有国以外に、当法廷において違法性の事実認定に反対した国(または今回の要請に関して、明確な立場をとらなかった国)、たとえば、ドイツ、オランダ、イタリア、日本も、ハーグ陸戦慣例条約の締約国である。

「ロチュス号」事件の判決は、平和時にフランス旗国船ロチュス号とトルコ旗国船が公海で衝突した事故に対して下されたものである。この事故で、トルコ人船員と船客8人が死亡し、責任者であったフランス人将校が、殺人のかどでトルコの法廷において審理されることになった。この事故の状況は、戦時における人道法が適用されるような状況とは大きく違っていた。戦時人道法は「ロチュス号」事件の判決が下された時代にはすでに十分に確立された概念ではあったが、この事件には関連がなかったのである。現在のような全く違う状況のもとで、「ロチュス号」事件に下された法的見解が、その時代までにうちたてられてきた戦時における人道法のすべてを否定する試みに使われようとは、この事件に判決を下した裁判官は思いもしなかったであろう。なぜなら今、「ロチュス号」事件にあたえられようとしている解釈は、人道的原則は「其の採用したる条規に含まれざる場合においても」適用されることを明確に規定したマルテンス条項のような、確立した原則を蹂躙するものにほかならないからである。

さらに、当時の国際法は一般的に、平時の法と戦争法を別々の範ちゅうにして扱っていた。これは、当時の法律書の体系において明確に受け入れられていた区別である。「ロチュス号」判決が述べた原則は、完全に平和法の文脈の上で定式化されたものである。

他国の主権を尊重すべきことは、「ロチュス号」判決に必然的に含まれていた点である。核兵器の特徴のひとつは、自国の基本的主権への侵害という、核兵器使用が潜在的に有する点に、まったく合意していない諸国の主権を侵害することである。「ロチュス号」判決を、国家は自国の行動を制限する条約で拘束されない限り何をやってもよいという趣旨の、平時でも戦時でも同じように適用される理論を定式化したものであると解釈するなら、それは完全に事の文脈を外している。「ロチュス号」事件をこのように解釈すれば、国際法の進歩的発展に有害な束縛をかけることになろう。

また、常設裁判所は「ロチュス号」事件の4年前、チュニジアおよびモロッコの国籍法問題(勧告的意見、P.C.I.J., Series B, No.4、1923年)で国家主権の問題を扱った際、国際法の発展に比例して国家の主権は減少かつ制限されると述べたことにも注目しておこう。(pp.121-125, p.127, p.130) ならば、「ロチュス号」事件から半世紀たった今日、国際法そして戦時における人道的行為にかんする法が相当な発展をとげ、「ロチュス号」事件当時よりも国家主権にさらなる制限が課せられていることは全く明らかである。当法廷が自ら扱ったコルフ海峡事件 の判決は、国際慣習法は国の行為により他国を侵害しない義務をすべての国家に課しており、この義務は、訴訟国の権利を侵した特定の行為を明文的に禁止する規定がなくとも課せられるべきものとしている。1996年のいま、本裁判所は、「ロチュス号」事件について、マルテンス条項の時代以前にまで逆戻りさせるような狭い解釈をすることはできない。

10.戦争に関する人道法の特定法規

国際人道法の骨組みは、いくつかの組み合わさった原則により構成されている。核兵器の使用または使用による威嚇に違法性を言い渡すうえで、人道法の法規は不十分どころか、明らかに個別的にも集合的にも豊富な規則を示している。

戦争に関する人道法の原則は、明確に強制法規 (jus cogens訳注:法の中において、必ずそれに従わなければならず、それに反した場合は、その行為は無効となり、また、法的責任を生ずる法規のこと)の地位を獲得している。なぜなら、これらは人道的性質をもつ基本的規則であって、この規則を破ることは、必然的に人道法の規則が保護を目的としている人道への基本的考慮を否定することになるからである。ロベルト・アゴーの言葉を借りれば、この強制法規には次の基本原則が含まれる。

「平和の保護に関する基本原則、特に、武力または武力による威嚇にうったえることを禁ずる原則;人道的性質の基本原則(ジェノサイド、奴隷、人種差別の禁止、平時および戦時における人間にとって欠くことのできない権利の保護);国家の独立および主権平等のいかなる侵害をも禁ずる原則;すべての国際社会の構成員に対しある一定の共通資源(公海、宇宙など)の享受を保障する原則」(361)

現在考慮されている問題は、核兵器を明確に名指しし、決定的な用語を使って禁止する規定が存在するか否かにあるのではなく、核兵器によって侵害される強制法規の性格をもつ基本原則が存在するか、ということである。このような強制法規の性格をもつ原則が存在するなら、核兵器そのものが強制法規の概念のもとに禁止されることになるだろう。

第V章のはじめで述べたように、核兵器の使用は合法であるという見解を支持した国のほとんどは、国際人道法が核兵器の使用に適用されることを認めており、また核兵器の使用は国際法の原則に従ったものでなければならないことも認めている。この点に関連する重要度の高い国際法の原則として、次のものがあげられる。

(a) 不必要な苦痛をあたえることの禁止

(b) 均衡性の原則

(c) 戦闘員と非戦闘員を区別する原則

(d) 非交戦国の領土主権を尊重する義務

(e) ジェノサイドおよび人道にたいする犯罪の禁止

(f) 環境に永続的かつ深刻な被害を与えることの禁止

(g) 人権法

(a) 不必要な苦痛をあたえることの禁止

マルテンス条項についてはすでに述べたが、これは、「人道法および公的良心の命ずるところ」とあいいれない兵器が許されないものであることを明確に述べたことにより、近代法における上記の禁止原則に古典的な定式をあたえた。

残虐および不必要な苦痛をあたえる害敵手段の禁止は、長い間、人道法の一般原則の一部を形成しており、法の、堅固で実体的な主要部分を構成するものとして、膨大な数の法典、宣言、条約に組み込まれてきた。そして、それぞれの文書において、特定の状況あるいは複数の状況に対しこの一般原則が適用されている(362)。これらの文書は、取り扱われている特定の状況をこえて適用される一般原則が存在していることを表している。

 

さらに、不必要な苦痛をあたえることを禁ずる原則は、軍の行動規範にも組み込まれている。1916年にイギリスの陸軍省が発行し、第一次世界大戦で使用された「軍事法規手引」は次のような規定をおこなっている。

「W 戦争遂行手段」

39. 戦争の第一原則は、敵の抵抗能力を弱め、破壊することである。しかし、敵に傷害をあたえるために使用されることが許される手段は無制限ではない(注釈で、ハーグ陸戦条約22条、「交戦者ハ、害敵手段ノ選択ニ付、無制限ノ権利ヲ有スルモノニ非ス」を引用している)。この手段は実際に、国際協定および宣言、また戦争行為における慣習法により明確に制限されている。さらに、道徳、文明、騎士道的精神の求めるところが存在し、これに従って行動せねばならない。……

42. 不必要な苦痛を与えることが意図された兵器、投射物あるいは物質の使用は、明確に禁止されている(ハーグ陸戦条約23条[ホ])。当条項は、先を有刺状にした槍、変形させた弾丸、ガラスの破片またはその類似物を詰めた投射物などを含む。また弾丸の表面に刻みを入れたり、先端をやすりで削ったり、炎症または負傷をおわせる可能性のある物質をそれらの表面に塗布することも含む。しかし、当禁止条項は、地雷、航空魚雷または手榴弾の中に含まれる爆発物の使用に適用されるものではない。(pp.242-243)

イギリス軍が使用したこの手引きは、戦闘行為における人道的原則が現在のように十分に定着するはるか以前の第一次世界大戦で使われたものである(363)。

すでに1862年の時点で、フランツ・リーバーは、軍事的必要性でさえ法および戦争の慣習に従ったものでなければならないという立場を認め、これを軍の訓令に組み入れている(364)。「近代米国陸軍省実戦手引」はハーグ陸戦法規に厳格に準拠しており、軍事的必要性を、明確に「戦時における慣習法および条約法」に従属するとしている(365)。

この意見の第U章で述べた事実は、核兵器が戦争の目的をはるかにこえる不必要な苦痛をもたらすことを十二分に立証している。

この「不必要な苦痛」禁止の原則に関する議論として出されたのは、1907年のハーグ陸戦法規第23条(ホ)で、「不必要の苦痛を与ふべき (訳注:条約英文はcalculated:「〜が意図された」という意味)兵器、投射物その他の物質を使用すること」(強調は筆者)が禁止されているという点である。しかし、核兵器は、苦痛をもたらすことを意図して おらず、苦痛はむしろ、核兵器の爆発に「付随しておこる副作用」の一部であるという議論がある。この主張は、広く知られる法律上の原則に抵触する。つまり、ある行為をおこなう者は、その行為がもたらす必然かつ予測可能な結果を意図していた はずであると理解されねばならないという原則である(第V章の7参照)。さらに、この議論は、この条項の精神と基礎をなしている原理を考慮に入れない文字どおりの解釈であり、とりわけ、人道に関する法律文書を構成するには不適当な解釈方法である。また、核兵器の配備は事実、「放射線および降下物の破壊的影響を利用することも一部目的として」いることもつけ加えてよいであろう(366)。

(b) 区別の原則

目標を区別するという原則の起源は、戦争兵器は、軍事目標と文民を一様に扱って無差別に使用されてはならないという考えにある。非戦闘員は、戦時法により保護される必要があったのである。しかし、核兵器という兵器は、その固有の性質の中に無差別性が組み込まれている。都市をまるごと壊滅させ、一発で、何千発もの爆弾と同様の破壊を生じさせる兵器とは、目標を区別できる兵器ではない。広大な範囲に放たれる放射線は、戦闘員・非戦闘員を区別せず、また交戦国と中立国も区別しない。

戦争犠牲者保護に関する1949年のジュネーブ諸条約に対する、1977年の追加議定書の第48条は「基本原則」として、広く受け入れられている人道法の「基本原則」をくり返している。

「紛争当事国は、文民たる住民および民用物に対する尊重および保護のため、常に、文民たる住民と戦闘員とを、また、民用物と軍事目標とを識別することができるようにする。紛争当事国の軍事行動は、軍事目標のみを対象とする」(強調は筆者)

文民と軍人を区別する原則は、戦争法のその他の原則と同じく古典的原則であり、多くの文化により共有されてきた。古代インドの慣習は前に述べた通りである。これは、インドの農民たちは、戦争は戦闘員の問題であるとする伝統が自分たちを保護することを確信していたため、侵略軍が近くを通っても農作業を続けた、というものである(367)。この筋書きは牧歌的で、戦争の残虐性とはかけはなれているように見えるかもしれないが、区別の原則という人道の基本原則が、いままで存在していなかった新しい基準を目標としたものではないことを想起するうえで有用である。

武力紛争における文民の保護は、長きにわたって十分に確立された国際人道法の規則である。ジュネーブ条約(1949年)への追加議定書Tは、第51条5(b)により、次の攻撃を無差別とみなすとしている。

「予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、過度に、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を引き起こすことが予測される攻撃」

同様に、第57条2(b)は、次の場合の攻撃を禁じている。

「具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、過度に、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷又はこれらの複合した事態を引き起こすことが予測される」とき。

国際法学会が1969年にエジンバラ会議で採択した決議は、この規定の多くの側面を、その当時存在していた法 により禁止されているものとして言及している(368)。存在する法 により禁止される行為として次のようなものがあげられている。

・「軍隊と文民、または軍事目標と非軍事目標を区別しえないまま、いかなる動機や手段によるものであれ、ある集団や地域や市街地の中心を全滅させるようなすべての攻撃」(369)

・「文民を脅迫することを計画したあらゆる行為」(パラグラフ6)

・「その本質として、軍事目標と非軍事目標の両方、または軍隊と文民を区別することなく影響を及ぼすあらゆる武器の使用。とりわけ、その膨大な破壊的効果から、目標を軍事目標に制限することができない、あるいは統制が不可能な兵器……また『見境のない』兵器の使用を禁止している」(パラグラフ7)

(c) 非交戦国の尊重

核兵器が使用されれば、第三者の紛争当事国でない国々が回復不能な損害を被るのが必然的および予測可能な結果であることは、核兵器が許されるかどうかを決定する際に考慮しなければならない点である。取り返しのつかない損害をうける可能性をもつのは一国の非交戦国だけではなく、地球上のすべての国々なのである。放射線は封じ込めることができず、地球規模で広がる。もっとも強力な通常兵器と比較して核兵器が破壊する広大な地域は、この意見に付録としてつけたWHOの研究より引用した図表に示されている(訳注略)。風の流れが放射線の影響を拡散すると、TTAPSその他の研究によっても明らかなように、片方の半球における核兵器の爆発は、その有害な影響をもう一方の半球にまで広げるのである。地球のどの地域も、つまりどの国もこの影響から逃れることはできない。

「意図の欠如」を主張する見解は、この文脈においても出されている。この見解によれば、ある一敵国に向けた行為は、第三国への損害を意図しておらず、また実際そうなった場合は無過失行為となる、というのである。この見解に関しては、この反対意見の中で前述した際に、そのような主張は支持しえないものであることを指摘した(第V章の7参照)。核兵器の発射は計画的な行為である。中立国にあたえる損害は、当然かつ予測可能かつ不可避的にもたらされる結果である。国際法は、普遍的法理の基本原則にこれほどまで対立するような責任の免除規定(non-responsibility)を包含することはできない。

(d) ジェノサイドの禁止(370)

私の見解では、当裁判所がおこなった、核兵器のジェノサイドとの関連づけは不適当である(勧告的意見パラグラフ26)。

核攻撃への反撃、とりわけ、全面的な核兵器による反撃の際に使用される核兵器は、第W章以降で描くように、全面的な核兵器の応酬を誘発し、ジェノサイドを引き起こす可能性が高い。日本に使用されたような「小型」核兵器一発といえども、その兵器がもたらした既知の死者数から判断すれば、ジェノサイドの武器となりうる。標的が都市であれば、一発の爆弾の死者は100万を越える可能性がある。反撃する報復兵器の数がもっと多ければ、WHOによる核戦争の影響の推定によると、攻撃国とその他の国々において10億もの人間が死亡する可能性がある。これは明白にジェノサイドであり、いかなる状況のもとでも合法行為ではない。

核兵器を使う時、使う側は、それが全人口を消し去るほどの規模で死者を出す効果を有することを認識しているはずである。ジェノサイドとは、ジェノサイド条約(第2条)に定義されているように、国民的、民族的、人種的または宗教的な集団をそれ自体として全体あるいは一部を破壊する意図をもっておこなわれる行為のことである。この定義に含まれる行為には、その集団の構成員を殺すこと、集団の構成員に重大な肉体的または精神的な危害を加えること、集団全部または一部に身体的破壊をもたらすよう意図された生活条件を、故意にその集団に課すことなどがある。

ジェノサイド条約のジェノサイドの定義に関する議論では、条約文の「as such(それ自体として)」という用語がことさら強調されている。この議論で出されている論点は、ジェノサイドには特定の国民的、民族的、人種的または宗教的集団をそのような集団(qua such group)として標的にする意図が存在していなければならず、何か他の行為に付随した行為はそれに当たらないという点である。数十万から数百万におよぶ人口をまとめて消し去る核兵器の能力を考えれば、核兵器は、その兵器が向けられた国の国民集団の全体あるいは一部を標的としていることは疑う余地がない。

ニュルンベルク裁判は、一般市民の全部または一部を皆殺しにすることは、人道に対する犯罪であるとの判決を下している。核兵器が成し遂げることはまさにそれである。 

(e) 環境に被害を与えることの禁止

環境は、すべての国連加盟国の共通の生息の場であり、ある一国または数カ国の加盟国がこれを破壊し、他のすべての加盟国に不利益を与えることがあってはならない。環境保護の諸原則は「人類の良心に非常に深く根づいているがため、この原則は一般国際法においてとりわけ重要な規則となっている」ことについては、公的良心との関係においてすでに言及した(第3部6前半)(371)。 実際、国際法委員会は、大規模な大気または海洋の汚染を国際的犯罪として扱っている(372)。これらの点についてはすでに言及した通りである。

環境法に包まれる諸原則の中には、核兵器により侵害されるものが多くある。世代間の衡平の原則および共通の遺産の原則については前述した。その他の諸原則としては、予防措置の原則、地球資源信託の原則、安全措置をとる責任は行為を告訴された側に帰する原則、環境に損害をあたえた者に被害者に対する適切な賠償支払い責任を課す「汚染者負担の原則」がある(373)。今回の勧告意見要請により本法廷は、これらの諸原則を認識し、結論を出す上で利用することができる。最近では「生態学的安全保障の原則」と呼ばれるものを成文化する法的試みがなされている。これは、自滅の脅威から人類の文明を保護する必要性が強調されて生じてきた、環境法の規範づくりおよび法典化の過程のことである。

ある著者(374)によると、このような原則は11ある。そのひとつは「生態系の侵害の禁止」の原則であり、その根拠として特に、1978年10月5日発効の1977年環境改変技術敵対的使用禁止条約(1108UNTS, p.151)、および、国連総会決議の「現在および将来世代のための自然保護に対する国家の歴史的責任」(国連総会決議35/8、1980年10月30日 )を挙げている。

さらにこの著者は、「ソビエト(現在はロシア)の法律上の原則では、意図的および環境の敵対的な改変、すなわちエコサイド(訳注環境汚染などによる生態系破壊)は違法であり、国際的犯罪とみなされる」と述べている(375)。

また別の著者は、地球規模の環境危機に各国が調整をとりながら集団的対応をとる必要性とその実現の難しさについて述べ、こう論じている。

「しかし、状況はまさにこのような対応を余儀なくしている。地球の保護を組織作りの新たな原則にできなければ、私たちの文明の生存そのものが不確かなものとなる」(376)

これこそ、今日の環境法の背景にある推進力である、つまり、これからは、新たな組織を作る際には、地球を守るということを原則にしなければ、われわれの文明が脅かされるのである。

調整された集団的対応を実現するためにすでにある手段の一つが国際法であり、文明、さらには人類の生存を確実にするためのこれらの基本原則がすでに国際法の中で不可分の一部となっていることを疑問視するべきではない。

前出したもう一つの傑出した研究においても、この件は別の見地から論じられている。

「人類という種の自滅など、誰が見ても正気な行為でも賢明な行為でもない。しかし、それはわれわれが自覚せぬまま、ある一定の状況のもとに計画している行為でなのある。狂気にかられていれば別だが、種の自滅を完全に意図した行為はあり得ない。国家防衛とか、自由を守るためとか、社会主義を守るためとか、その人がたまたま信じるに至ったなにかを守るためといった、われわれが意図してとった行為による意図せざる『副作用』の結果としてしか種の自滅は起こり得ない。しかし、不注意で自滅するかもしれない危険の重大さも意味もわれわれは認識しえていないということは、不注意で自滅してしまうための一つの必要条件を満たしているということなのである。自分のやっていることがわかっていないからこそ、自滅行為がとれるのである。われわれがこの危険の全容を認識し、核兵器を一発でも使えば全人類の生命の存続が危険にさらされるホロコーストを誘発しかねないことを、明確かつ無条件に認めた時、絶滅は『考えられない』だけでなく、為し得ないこととなる」(377)

したがって、環境法のこれらの原則は、条約条項にかかわらず効力を有する。これらの原則は国際慣習法の一部であり、人間の生存にとって必要条件の一部なのである。

国際舞台において、これらの環境法の原則が国際慣習法の不可分の要素であることを事実上認めているケースを見つけるのは難しいことではない。例をあげれば、安全保障理事会の1991年の第687号決議は、クウェートへの不法な侵攻の結果生じた「環境破壊に対するイラクの責任」に言及している。イラクは1977年の環境改変技術禁止条約、その1977年の付随議定書、さらには環境改変技術に関して明示的に取り扱った他のいかなる具体的条約にも加盟していないのであるから、イラクの責任は条約のもとで生じたものではない。安保理がかくも明瞭なことばで言及したイラクの責任は、明らかに国際慣習法より生じた責任であった(378)。

また、これらの原則は平時または戦時のどちらかに限って適用されるものではなく、一般的義務から発したものであるゆえに、平時、戦時を問わずどちらの状況においても適用される(379)。

この点に関する基本的原則は、1977年ジュネーブ諸条約追加議定書T第35条(3)にこう明確に述べられている。

「自然環境に対して広範な、長期的かつ深刻な損害を与えることを目的とするまたは与えることが予想される戦闘の方法および手段を用いること」

第55条は、以下を禁止している。

「自然環境に対してそのような損害を与え、住民の健康もしくは生存を害することを目的とするまたは害することが予想される戦闘の方法または手段の使用」

問題は、これらの規定が核兵器への適用を意図していたものであったかということではない。これらの規定を議論の余地のない慣習国際法の原則を述べているものとして読めば十分である。これら一般的原則は、核兵器を包むには十分明示的ではないとか、核兵器はあえて言及されないようにしてあるのであるから範囲に含まれていないとか、これらの条項は核兵器を包む意図をもってつくられたものではないという明確な理解が存在した、とさえする意見がある。しかしこうした意見により、環境破壊力のより小さい兵器を禁止する一方で、条約が本来予防しようとする破壊をひき起こすはるかに強力な兵器に手をつけない不条理さが浮き彫りになる。

慣習国際法の下で一般的義務が存在するならば、様々な環境保護協定が、核兵器がもたらす被害に具体的に言及していなくても問題とならないことは明らかである。同様の原則は、溶鉱炉からのガスや煙の噴出や、原子炉からの漏出、爆発性兵器といった問題を扱う際にもあてはまる。環境条約が石炭を燃やす炉や原子炉に特に言及していないというだけで、こうした炉は明白かつ十分に確立された条約の規準や原則の対象外になるという結論を導き出すことはできない。

本法廷が審理したこの件に環境法を適用するにあたってのもう一つのアプローチは、国連憲章のなかに陰に陽に書き込まれている善隣主義の原則にある。この原則は、近代国際法の基礎の一つであり、この原則の下、主権国家は栄光の孤立の中で自国の利益を追求しうるという原則が消滅したのである。各主権国家が同じ地球環境に依存する世界秩序は、協同と善隣主義がなければ機能しえない相互依存関係を生み出す。

国連憲章は、この原則を「世界の他の地域の利益および福祉に妥当な考慮を払った上で、社会的、経済的および商業的事項に関して善隣主義の一般原則に基かせなければならない」(第74条)と明快に述べている。地球環境を破壊しかねない行為が進行すれば、環境を破壊するだけではなく、環境ぬきには存在しえない社会的、経済的、商業的利益も打撃をうける。憲章がこのような善隣主義の一般的義務を明確に認識しているということは、この義務は国際法の必須の一要素になっているということである。

本法廷は創設以来、各国家は「他国の権利を侵害する行為に、知りながらにして自国領土の使用を許可」しない義務があると明快に述べ、この原則を支持している。(コルフ海峡事件、I.C.J.Reports 1949,p.22.)

環境に関する国家の責任の問題は、WHOによる要請に対する私の個別の反対意見でより具体的に扱われている。これは、この個別的意見における環境への考察にたいする議論を補足するものとみなされなければならない。その中で指摘したように、核兵器による環境破壊は国家義務の不履行であり、これは、核兵器の使用または使用の威嚇の違法性にもう一つの側面を付け加えるものである。

(f) 人権法(380)

この意見の第V章では戦後の人権の発展が「人道の考慮」と「公的良心」にいかに影響をあたえてきたかを扱っている。

世界人権宣言において述べられている権利にもっと具体的に焦点をしぼってみると、尊厳の権利(前文および第1条)、生命の権利、身体の安全に関する権利(第3条)、医療を受ける権利(第25条1)、婚姻し、家族をつくる権利(第16条1)、母および子が保護を受ける権利(第25条2)、文化的生活の権利(第27条1)を、核兵器により危機にさらされる基本的人権と特定することができる。

ある一定の権利はいかなる状況においても損なわれてはないことは、確立された人権法の原則の一部である。生命に対する権利はそのひとつであり、制限することのできない、人権の中枢をなす権利の一つである。

世界人権宣言はその前文において、人類社会すべての構成員の固有の尊厳を承認することは、世界における自由、正義および平和の基礎を構成すると述べている。第1条はこれに付け加え、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利において平等である」と具体的に言明している。第6条は、すべての者が、いかなる場所においても、法の前に人として認められる権利を有することを述べている。市民的および政治的権利に関する国際人権規約は、この権利をより明示的にうちだし、この権利を法により積極的に保護する義務を国家に課している。第6条1項は、「すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する。この権利は、法律によって保護される」と述べている。本規約の加盟国は、文字どおりに規約の条項を実行する責任を負っている。

人権および基本的自由の保護のための条約(欧州人権保護条約)/(1950年、第2条)と米州人権条約(1969年、第4条)も同様に、生命に対する権利を認めている。これは、損なうことのできない権利のひとつであり、制限することのできない人権の中核の中の不可分の要素である。

生命に対する権利は絶対的権利ではなく、武力紛争において生命を奪うことは、この原則の必然的な例外であるという主張がある。しかし、WHOが本法廷に対して述べたように、ひとつの兵器が100万から10億人もの人を殺す能力を有する場合、人間の生命は、どのような文化的基準に照らしても尊厳の完全な否定だといえるほど、無価値なものにまでおとしめられるのである。国家によるこのような故意的行為は、いかなる状況においても基本的な人間の尊厳を尊重することと矛盾する。尊厳の尊重は世界平和の基礎であり、国連加盟国はこの権利を尊重する責務を負っている。

これは単に世界人権宣言をはじめとする人権に関する法律文書の規定に限られた権利ではない。国連憲章の前文そのものに正式に記されている根本的な憲章法(Charter law)なのである。なぜなら、国連の目的のひとつは、「基本的人権と人間の尊厳および価値 を、あらためて確認」することだからである(強調は筆者)。人間の人間に対する長い非人道的歴史において発明された兵器のなかで、核兵器ほど人間の尊厳と価値を否定する兵器はない。

国連人権委員会の、「生命に対する権利と核兵器」(381)と題した一般的見解にも言及する必要があろう。この見解は、生命に対する権利はとりわけ核兵器と直接の関連をもつ、とした総会の意見を支持している(382)。核兵器は、生命および生きる権利にたいする最大の脅威のひとつであるとし、核兵器と国際法の葛藤についての見解の中で、核兵器の使用は人道に対する犯罪とみなすべきであると主張している。

これらすべての人権はひとつの中心的権利、すなわちルネ・カシンが「人間の存在する権利」(CR 95/32, p.64, および注20参照)と述べた権利から生まれている。これは、世界が戦後に労をおしまずつくりあげた、精緻な人権体系の基盤である。

どんな状況のもとであれ、100万の命を一瞬にして奪い去る兵器の使用が合法であるなどという主張を支持することになれば、法学における今世紀最大の成果のひとつであるこの精緻な体系を根底からくずすことになろう。国際法が核兵器使用の権利を国家にあたえるなら、法において知られる概念のなかで最も高潔で最も本質的な概念のうえに建てられているこの体系を理論的に維持することは不可能となる。この体系は消滅するであろう。

11.法理学上の見解

法理学上の見解の多くが、核兵器は現存する人道法の原則を侵害する、という見解をとっているといえる。法理学上の見解は国際法の重要な法源であり、この個別意見の中ですべての典拠を引用することは、紙面の都合上できない。当面の目的を十分にはたすにあたってこの意見の前半でふれた決議に言及しておく。この決議とは、核兵器に関する法理学上の著作が現在のように活発には出されておらず、むしろかなり少なかった時期に、国際法学会が1969年にエジンバラ会議で採択したものである。

前述したとおり(第V章10(b)前半)、学会の見解は、現存する国際法は、とりわけ「その膨大な破壊的効果から、目標を軍事目標に制限することができない、あるいは統制が不可能な兵器……また『見境のない』兵器の使用を禁止」するとしている(383)。賛成60票、反対1、棄権2であった。この見解に賛成票を投じた者を何人か挙げてみると、シャルル・ドゥ・ヴィシェ、マックネーア卿、ロベルト・アゴー、 スザンヌ・バスティード、エリック・カストレン、ジェラルド・フィッツモーリス、ウィルフレッド・ジェンクス、ロバート・ジェニングス、シャルル・ルソー、グリゴリー・トゥンキン、ハンフリー・ウォルドック、ホセ・マリア・ルーダ、オスカール・シャヒター、田中耕太郎など、当時のそうそうたる国際法専門家がそろっている。

12.1925年ジュネーブ毒ガス禁止議定書

これまで引き合いにだしてきたさまざまな一般的原則とはまったく別に、核兵器の違法性を主張する根拠となってきた条約が存在する。この理由により私は、核兵器による威嚇または使用を違法とする包括的もしくは普遍的禁止条項は、協定上の国際法において存在しない、という見解をとった勧告的意見主文のパラグラフ2(B)に反対票を投じた。ここでは、特に1925年6月17日に署名された、窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書(毒ガス等の禁止に関する議定書として知られる)について言及する。この議定書はその禁止する内容が非常に包括的であり、私の見解では、明らかに核兵器を禁止範囲に含んでおり、したがって、核兵器は条約によって禁止されている。私と同じ意見をもつ学者は相当な数にのぼる(384)。さらに、放射線が毒物であるとすれば、核兵器はハーグ陸戦法規第23条(イ)にも違反する。事実、有毒兵器を禁ずるこの規定は、「戦争の兵器および手段の問題において、もっとも伝統的な特別禁止規定である」と説明されている(385)。これは、歴史をもっともさかのぼった時代から、広範な文化において認識されてきた規則である。

毒ガス等の禁止に関するジュネーブ議定書は非常に幅の広い表現で起草されている。議定書は、「窒息性ガス、毒性 ガスまたはこれらに類するガスおよびこれらと類似のすべての液体、物質または考案 を戦争に使用すること」を禁止している(強調は筆者)。

この議定書が核兵器に適用されるとすれば、

(1)放射線は有毒 であり、また

(2)人体と物質 の接触を伴うことが示されねばならない。

両方の条件が満たされるなら、放射線による人体への被害は、この議定書の規定の範囲内にあることとなる。

(i) 放射線は有毒か?

毒物は一般に、身体との接触または身体による吸収によりその毒物のもつ力によって健康に打撃をあたえる物質、と定義される(386)。第U章3(e)の放射線の影響に関する議論により、放射線が生命を破壊もしくは器官および組織の機能に損害をあたえることは疑いのないものとなった。

シュヴァルツェンベルガーは、十分な線量の放射線が体内に取りいれられた場合、中毒と区別のつかない症状を起こすことを指摘している(387)。

放射線(radioactive radiation)が毒物であることが一度確立されれば、放射線は、前述したハーグ陸戦法規慣例条約にもりこまれている有毒兵器禁止の範ちゅうに含まれることとなる。放射線は、何世代にもわたる遺伝子の異常をも引き起こすため、その毒性は有毒ガスよりも狡猾なものである。

NATO諸国は、北大西洋条約にドイツ連邦共和国を受け入れた際の、1954年10月23日のパリ条約の軍備管理に関する付属議定書Uにより、有毒性は核兵器がもつ効果であることを、核兵器を以下のように定義することによって自ら認めている。

(核兵器は)「爆発またはその他の制御不可能な核の変質、変化により、大量な破壊、大量の損傷、または大規模な汚染・害毒 を引き起こす能力を有する核燃料または放射性同位体を包含もしくは利用するために設計された(兵器である)」(強調は筆者)

(ii) 放射線は、身体と「物質」の接触を伴うか?

毒物は「物質」ということばで定義されている。毒ガス等の禁止に関する議定書は、有毒な「物質」について扱っている。よって、放射線は「物質」("substance" or "material")なのか、それとも、物体に衝突したとき必ずしも身体と物質との接触がない、単なる光線のようなものなのかを知る必要がある。もし、放射線が前者であるとすれば、ジュネーブ毒ガス禁止議定書の条件は満たされることになる。

The Shorter Oxford Dictionaryは、「放射能」をこう定義している。「(ラジウムのように)高速度で動く物質的粒子 が構成する放射線を自然に放出する能力を有すること」(388)。

科学的には、電波、マイクロ波、赤外線、可視光線、紫外線、エックス線、ガンマ線といった(理論的には)静止状態において質量ゼロの電磁波放射線の周波数域と、質量をもつ粒子である電子、陽子、中性子などの粒子を含んだ放射線の種類をわけて考える(389)。後者のような粒子からなる物質が高速度で運動する際に、これらは放射線とみなされる。

核兵器がもたらす電離放射線は後者に属する。とりわけ、この種の放射線を構成する粒子の流れが人体と接触すると、組織が破壊される(390)。つまり、これは、人体に損傷をおよぼす有形の物質であり、ジュネーブ毒ガス禁止議定書による有毒兵器の禁止条項の適用からのがれることはできない。

したがって、放射線が「物質」であるかどうかという問題に疑問の余地はない。シュヴァルツェンベルガーはこう述べている。

「『類似のすべての液体、物質または考案』という言葉は、この議定書が署名された当時において知られていたか、使用されていたかにかかわらず、類似の性質をもついかなる兵器をも網羅する包括的な文言である。もし、核兵器による放射線と降下物による影響を毒物になぞらえることができるなら、当然ながら、毒ガスにもなぞらえることができる」(391)

問題の議定書条項が、物質を、ガスに「類似の」ものとして扱っているため、放出された物質はガス状であるべきかという点を議論する文献がある。ここで、この条項の文言上そもそも毒物をガスの範ちゅうにとどめていないことに注目すべきである。なぜなら条項は、類似の液体、物質、またさらに考案も指示しているからである。しかし、ガスという用語にしても、軍事用語における「ガス」においては、固体、液体、気体の違いが厳格に適用されたことはないのである。シンとマッキニーが指摘しているように、厳格な科学言語において、マスタードガスは実際には液体であり、塩素は気体である。しかし、軍事用語において両者はガスと分類される(392)。

 したがって、核兵器がジュネーブ毒ガス禁止議定書の範ちゅう内にあるという事実を反ばくすることはできないと思われる。さらには、放射線が実際に毒物である場合、それが禁止されれば、あらゆる場合に適用される普遍的慣習法の禁止条項が宣言されることを意味する。それはある国家が1925年ジュネーブ毒ガス禁止議定書の加盟国であるないにかかわらず適用される(393)。

ジュネーブ毒ガス禁止議定書に関して利用できるもう一つの点は、放射線が「類似の物質」という叙述にあてはまるかどうかをぬきにしても、「考案」という用語におそらく核爆弾が含まれるということである。

この議定書が採択された当時、この世に知られていなかった核兵器をさらに具体的に記述することは不可能であった。しかし、核兵器は、議定書の記述とハーグ陸戦法規慣例条約の意図するところに含まれているのである。

アメリカ合衆国は次のような陳述をおこなっている。

「この禁止条項は、その他の手段による殺人または損傷を目的として設計された兵器にたいして適用することを意図したものではなかったし、いままで適用されたこともない。 兵器が窒息または有害な副産物をもたらす可能性があるとしてもである」(陳述書 p.25)

実際に、放射線が核兵器の主要な副産物であるなら事実そうであるがいったいどんな法体系の原則が、核兵器の使用による必然的かつ予測可能な影響を罷免するのであろうか。このような「副産物」は、ときとして副次的損害と言われる。しかし、副次的であろうがなかろうが、これが、核兵器がもたらす主要な帰結であり、このような副産物についてはよく知られているにもかかわらず、意図していなかったとすることは法においては不可能である。

加えて、このような主張には、法律上容認できない論点が含まれている。これは仮に一つの行為が合法と違法の両方の結果を含んでいる場合、前者が後者を正当化するという議論である。

13.ハーグ陸戦法規慣例条約第23条(イ)

これまでの議論により、放射線は毒物であることが立証された。これと同様の論法により、毒物をあいまいさのない表現で禁止したハーグ陸戦法規慣例条約第23条(イ)に対する明確な違反が存在する(394)。この点において更なる議論は必要ではなく、この条項にある毒物使用の明白な禁止が、戦争法として最も古く、最も広く認められている禁止規定であることは広く受け入れられている。「普遍的に受け入れられている文明国の慣習からすると毒物は禁止されているとみなされる」のであるから、第23条(イ)の禁止条項は、この条約条項の加盟国でない国家にたいしても強制力をもつものとみなされている。

「よって、純粋な条約法に加えて、法の一般原則に基づく慣習的立場からも、戦争における毒性物質の使用は、野蛮、非人道的、非文明的であるだけでなく、背信であるとして禁止されるのである」(395)

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W 自衛

この場合、自衛ということがおそらく最も重大な問題を提起している。法廷意見主文のパラグラフ2(E)は、国際法の現状および当法廷が把握できる事実の諸要素に照らし、国家の存亡そのものがかかっているような自衛の極限状況での核兵器による威嚇や使用が合法か違法かについて明確な結論を下すことはできない、と述べている。私はこの条項に反対した。核兵器による威嚇や使用は、戦争法(jus in bello)の基本的な原則に反するものとして、いかなる状況においても合法ではないというのが私の見解である。この結論は明快であり、国際法の確固たる原則から見て動かしがたいものである。

国家が攻撃を受ければ、国連憲章に基づき、その国は明確に自衛権を持つ。ひとたび国家が戦争法の支配下にはいれば、人道法の原則は、それが自衛以外の軍事行動の要素を持つ行為にも適用されるのと同様、自衛の行為にも適用される。それゆえ、戦争法のどのような原則が自衛のための核兵器の使用に適用されるのかが検討されなければならない。

注目するべき第一の点は、(明快な権利である)自衛のための武力 の行使と、自衛のための核兵器 の使用は、別個の問題だということである。前者にたいして国際法が与えている許容は、他の支配的な諸原則の適用対象にもなる後者を包括するものではない。

この個別意見で論じられた人道法の7つの原則すべてが、戦争のあらゆる局面における核兵器の使用に適用されるのと同様に、自衛のための核兵器の使用にも適用される。公然たる侵略行為の場合と同様、自衛においても、不必要な苦痛、均衡性、区別、非交戦国、ジェノサイド、環境被害と人権に関するすべての原則に違反することになるだろう。戦争法は、武力に訴える理由がなんであれ、あらゆる武力の行使について規定している。その原則に根本的に違反することなしには例外はありえない。

第一攻撃をこうむった国家は、同じやり方で報復すると予想される。第一撃による破壊の後、もしそれが核攻撃であるなら、使用可能なあらゆる核兵器で報復するという傾向があらわれるだろう。

ロバート・マクナマラは、最初の攻撃への対応について、次のように語っている。

「しかし、そのような状況下にあれば、両国の指導者たちは、こうむった損失の仕返しをし、攻撃にさらされている利益を守るという想像を絶するような圧力のもとにおかれるだろう。そしておのおのが、敵が今にも大規模な攻撃を仕かけるかもしれないと恐れるだろう。さらに、双方は(通信施設に対する攻撃がありうることは言うまでもなく)戦場の混乱によってもたらされる通信の途絶により、部分的な情報のみで動くことになるだろう。そのような状況のもとでは、おのおのが、自らが降伏するよりも、この攻撃が敵を降伏させ戦争を終わらせることになると信じて、より大規模な攻撃を行う可能性が非常に高い」(396)

そのような対応は、相手からの報復を招き、それは実際には自動的に誘発され、地球の壊滅を早めることにつながるだろう。

ここで、攻撃を受けた国家が、侵略者を撃退するために利用できるすべての兵器を使用するという権利を確かにもっていることをくり返す必要がある。しかし、この原則は使用される兵器がこれらの規定に具体化された戦争の基本的規則に違反しない限りにおいてのみ 有効である。これらの制約の枠内で、敵を撃退するという目的のために、攻撃された国家は侵略者にたいして全軍事力を使って攻撃を浴びせることができるのである。このことが議論の余地がないとは言え、たとえば化学あるいは生物兵器で攻撃された国は、自衛のために化学、生物兵器を使ったり、侵略国の国民を絶滅する権利を有するという意見や主張は、いまだにいかなる会議においても耳にしないし、いかなる学術書でも目にしない。あらゆる大量破壊兵器のうち最も破壊的な兵器が、人道法の基本的な原則から導かれるこの最も明白な結論にたいする唯一の例外であると考えられているのは、不思議なことである。

以上をふまえたうえで、自衛ということで侵害されるであろう人道法のさまざまな原則を、手短かに検討してみたい。

1.不必要な苦痛

この意見で前述したように、核兵器によってもたらされる痛ましい苦痛とは、核兵器を攻撃的に使用した場合にのみ生じるとは限らない。放射能による長期にわたる苦痛は、たんに核兵器が自衛のために使われたというだけでは、その苦痛の強さを失わない。

2.均衡性/過ち

均衡の原則は、一見すると、核攻撃に対しては、核の報復ということで問題がないかのようにみえるかもしれない。しかしながら、より注意深く見れば、この原則はあらゆる形で侵害されている。フランスが主張するように、

「ある攻撃にたいする報復が必要で均衡がとれているかどうかの評価は、攻撃の性格、その範囲、それがもたらす危険と、望まれる防衛目的に対して、報復手段を調整することによって判断される」(CR95/23, pp. 82-83)

まさにこれらの理由によって、核攻撃をうけた国が、適切で均衡のとれた報復の性格を厳密に見定めることは不可能となる(397) 。もし、核攻撃には核の報復をという点から言えば、その核の報復とは、すでに言及されているように、全面的な核戦争に関する文献で鮮明に描かれた世界的ハルマゲドンのシナリオの幕開けとなるような、全面的な核の報復になるであろう。

さらに、ここには測定の問題がある。すなわち、攻撃の激しさの度合いの測定と、報復がつりあいがとれているかの測定である。しかし、人は測定可能なものしか測ることができないのである。核戦争においては、測定可能という性質は失われる。壊滅的な状況においては、測定をする尺度が全くなくなる。均衡の原則が無意味なものになる状況にわれわれは置かれるのである。

また、核兵器においては、人的ミスが生じうるという点を見失わないことも大事な点である。いかに注意深く計画されていても、混乱している時には、攻撃の兵器の破壊力を綿密に評価し、同じ程度の反撃ができるほどに核攻撃にたいする核の報復に細かく段階をもうけることは不可能である。かなり平穏でゆったりとした平時のときでも、核攻撃を意図せずに開始してしまうほどの誤りというものは起こりうる。この問題は偶発核戦争の研究から明らかになった(398)。 核攻撃のストレスのもとでの報復は、さらにずっと事故を招きやすくなるだろう。

『ブレティン・オブ・アトミック・サイエンティスツ』誌によると、

「最高決定者とその部下の情報供給者は、コンピューターやその他の機器に依存しており、ますます複雑化しているこれらの機器は、故障を起こしやすくなっている。機械の故障、人間の失敗、あるいはその二つが組み合わさると、それが数分のうちに発見されていなかったら、多くの報告された事例において、偶発核戦争が生じていただろう」(399)

その結果は全面的な核戦争になるだろう。

ここで再び、全面核戦争はその結果として生じる可能性があるということを裏づけるような外交、軍事政策に精通している政治家の言葉を引用しよう。ロバート・マクナマラは次のように語っている。

「この問題を研究したことのある人びとなら同じだと思うが、『限定』核戦争が限定されたままであるとは私には考えられない。核兵器を使用するといういかなる決定も、全面的な核の応酬がもたらすような破壊的な結果を生じる可能性が高いだろう」(400)

もと国務長官のキッシンジャー博士も、同じ主旨のことを記述している。

「限定戦争は、単にそれに見合った軍事力と軍事ドクトリンだけの問題ではない。そのためには政治的指導部の規律と巧みさ、彼らにたいする社会の信頼などが大きく要求される。というのは、限定戦争とは、全面戦争よりも心理的にずっと複雑だからである。……全面戦争はもしそのような決定についてものを言うことができるとすればだが、その決定はおそらく非常に迅速に行われ、そのもたらす被害の大きさから、政策の微妙な違いをめぐる論争などは問題にならなくなるだろう」(401)

彼は続けてこう述べている。

「この理由づけからして、限定核戦争とは不可能であるばかりでなく望ましくない。ひとつには、熱核戦争による破壊に近い激しい破壊状況を戦闘地帯にもたらすだろう。その結果、守ろうとしているまさにその人々を、殺すことになるだろう」(402)

このように、自衛のための核兵器の使用は壊滅的な核戦争になるということは、非現実的な憶測ではない。これは、人道法が絶対に認めることのありえない危険である。それはいかなる法制度も是認することができない危険である。

3.区別

この意見ですでに述べられたように、核兵器は、軍隊と民間人を区別するべきであるという原則に反する。もちろん、その他の兵器もこの原則に反するが、放射線はいうまでもなく、激しい熱線、爆風という要因によって、核兵器は他の兵器とは違う種類として扱われる。数百万とまではいかなくとも、数十万の犠牲者を生み出す兵器のことを論ずるとき、区別の原則は、法的に意味のないものになる。

4.非交戦国

自衛のための核兵器の使用にたいする主要な異論の一つを、この項でとりあげる。

自衛とは、非交戦国の権利を侵害していないことが明瞭な場合にのみ、純粋に国内問題として扱うことができる。自衛戦略が、交戦していない第三国に被害を及ぼすと考えられた瞬間から、自衛は純粋な国内問題ではなくなる。自衛行為とは、偶然にまた無意識に、第三国に被害を生じさせるものかもしれない。そのような状況は理解できるし、実際にときどき生じているが、ここでは当てはまらない。

5.ジェノサイド

ジェノサイドの問題はすでに取り扱った(403)。自衛は、均衡性に関する議論で明らかなように、全面核戦争になる公算が大きく、それは最初の攻撃を開始することよりもジェノサイドを引き起こす可能性がより大きい。百万から十億に及ぶ人々を殺すということがジェノサイドの定義に当てはまらないとするなら、ジェノサイドとはいったい何なのか、と疑問に思わざるをえない。

いかなる国も、自国の利益のために、あえて文明の破壊を冒す権利を持つとはみなされない。

6.環境への被害

ここでもジェノサイドに関する場合と同様の考察ができる。広範な環境の汚染が、核の冬をもたらし、生態系を破壊する可能性がある。侵略目的か自衛のためかを問わず、核兵器が使用されれば、このような結果が生じるだろう。核兵器に関連した環境に関する国際法については、世界保健機関(WHO)の要請に対する私の個別意見の中で、詳しく取り上げている。その意見の中での議論は上述の議論を補足するものである。

7.人権

この意見の中ですでに詳細に言及されたように、核兵器の使用が侵略のためであろうと自衛のためであろうと、あらゆる種類の人権侵害が、同様に生じるであろう。

* * *

これまでに考察してきた人道の諸原則は、単なる原理的願望の段階をすでに通り越し、今や生きた法律であり、抑えのきかない戦争という蛮行に制約を課すという困難な課題にたいして、法律の分野での最大限の成果である。これらの人道の諸原則は、軍事行動の基本原則となっており、二つの世界大戦と多くの小規模な戦争でおびただしい数の人々が甚大な被害を受けてきたことが背景となって、国際社会が作り上げてきたものである。

あらゆる法的な原則と同様に、この諸原則は、大小にかかわらずすべての国を律するものである。

信頼できる法体系の基礎にあるべき一貫性に当然の考慮を払えば、苦痛を払ってつくりあげられたこれらの諸原則が、本来の道からそれ、核兵器を不問に付し、この未曾有の破壊手段を規制せず、本来防止するはずの巨大な悪を生じるがままにさせておいてよいとは考えられない。

* * *

自衛に関連して、法廷での主張の中で、さらに3つの点について簡単に触れておかなければならない。

イギリスは、国家の責任に関する第8報告にたいする補足の中で、アゴ判事が表明した見解をもとに、自説を展開している(陳述書、パラグラフ3.40)。 見解要旨は以下の通り。

「攻撃を阻止し撃退するための行動は、当然、こうむった攻撃の規模や程度に不つり合いなものにならざるをえないであろう。この点で問題となるのは、『防御/防衛』行動自体の形態、中味、威力ではなく、『防御』行動によってもたらされた結果である」(404)

アゴ判事はここで、防衛活動は、攻撃をやめさせ撃退するという目的からそれてはいけないということを強調している。彼は同じパラグラフで次のように述べている。

「自衛のためにとられる行動において均衡 の原則が要求するものは、行為とその目的、すなわち、攻撃をやめさせ撃退するという目的との関連性にある」(強調は筆者)

その目的とは、攻撃をやめさせ撃退することであって、侵略国を絶滅させその国民を皆殺しにすることではない。ここでアゴ判事は、行動の形態、中味、威力をこの戦争目的の範囲内で明示的に定めたのであり、中立国への被害、不必要な苦痛、区別の原則などに関する要件をすべて無視してよいと言っているのではない。戦争法(jus in bello)の一番重要な中核的要件が、これだけの著名な判事のこの見解で効力を失ったと理解してはならない。この要件は、国際法研究所から強い支持を受けたものであり、アゴ判事は,とくにこのすぐれた見解を認められて、後に同研究所長に就任している。1969年のエディンバラ会議は、軍事施設と非軍事施設、軍隊と民間人を区別せずに破壊する兵器、そして民間人を威嚇するための兵器を禁止する決議(405)を、賛成60、反対1、棄権2で採択した。アゴ判事自身は、この賛成派の一人であった。

注目すべき第二の見解は、イギリスの陳述書のパラグラフ3.42と付属文書Dの中に見られるものである。すなわち、安全保障理事会の決議984号(1995年)は、武力攻撃に対する対応として核兵器を使用することは必ずしも違法とみなすべきではないという見方を、ある意味で認めているのだ、というものである。

決議を注意深く読めば、それが、安全保障理事会と核保有国は、非保有国が核侵略の犠牲者となったときには即座に行動するということを非保有国に約束したものであることがわかる。決議は、犠牲となった国を守るためにとられるべき措置については、一切言及していない。そのような措置について言及することがこの決議の意図であったならば、そして、そのような措置としての核兵器使用が合法であったならば、安保理にとっては、そうであると表明するこの上ない機会であっただろう。

徹底させるために指摘しておくならば、もし安全保障理事会が明確に核兵器の使用を認めたとしても、合法性の問題について最終的な権限を有するのは本法廷であるし、仮にそのような見解が示されたとしても、法廷がこの問題について独自の意見を出すことの障害とはならない。

言及しなければならない第3の要因は、違法性に反対する人々の主張の多くが、国家の交戦権を律する法(jus ad bellum)と戦争法(jus in bello)の区別をあいまいにしているようであるという点だ。武力の使用(jus ad bellumの領域)に訴えることの長所と短所がなんであれ、武力という領域に一度ふみこめば、その領域を統括する法律は、戦争法になる。戦争人道法は、戦争に関わるすべての人々、すなわち、加害者と犠牲者を同様に支配する。法廷では、自衛目的の武力行使となると、戦争法が適用されないかのような主張が展開された。この推測は法律上誤りであり、論理的にも支持できない。もちろん、現実には、国家の交戦権を律する法は自衛のための、あるいは安全保障理事会による武力行使に至る道を開いているだけだが、その道を行くものは、誰であれ、戦争法に従わなければならない。武力の使用の合法性によって人道法違反は正当化されるとする意見は、したがって、全く合理性のない結論である。

* * *

それゆえ、以上にかんがみて、自衛のため、というだけの理由では、核兵器使用の違法性に例外を設けることはできない。

他国が攻撃にさらされた場合の集団的自衛についても、上述と同様の議論が生じている。

見越し自衛、すなわち、敵が実際に攻撃する前の先制攻撃は、法的には核攻撃によるものであってはならない。なぜなら、核兵器による第一攻撃は、自明なことであるが、すでに言及した基本的な原則によって禁止されるからである。核兵器以外の兵器に関して言えば、既に開発されている高度な現代技術と正確な的中システムを、この目的のために用いることができるであろう。

 

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