原水爆禁止2003年世界大会
国際会議

マーシャル諸島
ロンゲラップ自治体議員、被ばく者
ヒロコ・ランギンベリック



ヤッコエ、そしてこんにちは。

  私はみなさんにロンゲラップ島民、特にジョン・アンジャインとネルソン・アンジャイン、そしてアバッカ・アンジャイン・マディソン上院議員からの挨拶をお伝えします。また再びこうしてみなさんとお会いできて、マーシャルでの私たちの体験をお話しするだけでなく、みなさんからも学び、友情と平和のための連帯を確認し合えることをとても光栄に思います。

  私は被ばく者です。1954年3月1日、ブラボーとよばれる破壊力の大きい水爆実験で、高レベルの放射線を浴びました。私は当時12才でしたが、私のその後の人生を永久に変えることになったその日に何が起こったかを詳しくおぼえています。

  その日、朝早く、私は友だちと学校のランチを作っていました。突然、目もくらむようなまぶしい光を見ました。その後、島のまわり中から強風におそわれました。静かにかってから、学校に行きましたが、クラスでの話題は、何が起こったのかということでした。しかし、誰にもわかりません。その後、ジャプアンにヤシの実をとりに行き、帰り道、空から白い粉がふってきました。それが何かわかりませんでした。粉は体中に降りかかり、夜になると、体中がかゆくなり眠れませんでした。気分が悪くなって吐いたりしました。

  爆発から3日目、アメリカの艦船がやってきて、私たちをクワジェレンに避難させました。そこでは、毎日、海にはいって体を洗うように言われました。また、毎日30ccの血液をとられ、やけどを負った皮膚のサンプルも取られました。何も治療は受けませんでした。

  放射線は私に、精神的、肉体的な痛みや苦しみをもたらしました。髪の毛が抜け落ち、皮膚はひどいヤケドを負いました。甲状腺ガンにもかかり、流産や他の病気に苦しみました。私が受けた不正義の傷跡は生涯消えることはないでしょう。けれど私は私の子供たちと世界のためにたたかうのを決してやめません。

  今年、私は被ばくの体験を語るために、いろいろな所で、特にアメリカで活動しました。また、オーストラリアのラジオ局やホノルルのラジオ局、新聞、テレビ局などから、インタビューを受けました。内容は、アメリカとの自由連合協定や、その中の補償に関する177条項に基づく医療事業、核被害補償基金などについてでした。この協定は、内容に多くの問題があるにもかかわらず、すでに調印され、アメリカとマーシャルの議会によって承認されるだけになっています。アメリカとの自由連合協定は今後20年間の二国間協定で、2003年10月1日に発効することになっています。しかし、今回、アメリカは、177条項に基づく医療事業を実施する義務はないと主張しています。またアメリカは個人の疾病への補償や土地の損害賠償も続けるつもりはありません。核被害をうけたロンゲラップ、ウトリック、エニウェトク、ビキニの4つの環礁の首長はこれに非常に怒っており、共同して補償を求めてたたかう決意です。

  今日、マーシャルでは、今期最後の国会審議が始まります。4つの環礁の島民は、クワジェレンの人々、マジュロの酋長らとともに、国会のまわりで、デモを行ないます。マーシャルとアメリカの政府に対し、現在の自由連合協定には満足していないこと、それを承認するのではなく、よりよりものにするために時間をかけろということを、要求します。

  ERUB(エラブ)というNGOが最近作られました。ロンゲラップ、ウトリック、エニウェトク、ビキニの被害者で構成する組織です。自治体と協力して、私たちの問題や活動について人々を教育するばかりでなく、この組織は、おもにアメリカの教会と緊密に協力して、マーシャルのヒバクシャの問題で、アメリカの上院と下院の議員に対しロビー活動を行なっています。事務所をロンゲラップ自治体の事務所に置き、来年、マジュロで行なう3・1ビキニデー50周年の計画をつくっています。私たちは、50周年には、みなさんにぜひマジュロに来て、参加していただきたいと思います。

  また、マーシャルと日本のビキニ被災を展示する、ロンゲラップ平和ミュージアムの開館が3月に予定されています。開館にはぜひいらしてください。みなさんがこのために一生懸命とりくんでくださったのですから。ミュージアムのために、募金をしてくださったみなさん、本当にありがとうございました。みなさんのご支援があったから、ミュージアム計画を実現に導くことができました。私たちがどれだけ喜んでいるか、そして、このすばらしいプロジェクトにロンゲラップの島民がどれだけ感謝しているか、言葉では言いあらわせません。2004年3月にマジュロでお会いしましょう。

  ありがとうございます。


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