原水爆禁止2002年世界大会
国際会議
広島県原爆被害者団体協議会
丹土 美代子
私は、当時広島市立高等女学校の一年生(13歳)でした。8月5日に学校から建物疎開作業に動員され、水主町に行きました。翌日6日はタンスを田舎に運ぶ父の手伝いのため、学校(作業)を休みました。舟入仲町の自宅(爆心地より1.2キロ)の二階の窓を開け外を見たとき、突然「ピカッ」と青白い閃光が走り、私は思わず手を顔にあてました。何も見えなくなり、私は家の下敷きになっていました。右の足だけ外に出ている格好でひざ下に深い傷を負いました。父が助け出してくれましたが、一階にいた祖母は即死、外で遊んでいた弟は行方不明になりました。
父と妹と私の三人で、南観音の三菱造船社宅に避難しました。逃げる途中、のどが渇くので水を飲むと、すぐに黄色い水のようなものを吐きました。また「黒い雨」にも遭いびしょぬれになり、寒気がしたので、近くから衣類をひろってきて着せてもらいました。
8月6日、南観音の避難先では治療らしいものはなくぐったりしていました。
三日目の8月8日、朝に妹が死亡し、夕方になると父の容態が変化して、治療を受けることもなく亡くなりました。おにぎりは食べられないので、おかゆのような水っぽいものを食べていました。
五日目に叔父が私を探し当ててくれたので、大八車に乗って廿日市の叔父の家に行きました。私の火傷があまりにもひどいので、廿日市国民学校に行き、その数日後佐伯郡原村の国民学校に移りました。
疎開して無事だった母親の看護を受けて寝ていましたが、周りの人たちは私が生きのびることは無理と思っていたようです。脱毛や下痢、発熱などの症状がどの程度だったかは私の記憶がありません。火傷の治療には、どくだみを煎じたものを飲み、油とシッカロールを練り合わせたものをつけてもらいました。昭和20年12月ごろには、火傷はよくなりました。働き手の父を失った家族のために学校に行くわけにはゆかず、働き始めました。結婚も就職も被爆者ということで思うようにいかず、また、学校を休んだために自分は助かりましたが、建物疎開作業に行った友達はほとんど全員が亡くなられました。自分が助かったことでも苦悩しました。
看護婦を二年しましたが、国鉄の物資部に就職ができました。1975年頃、体調が悪くなり病院に行くと慢性肝炎と診断されました。それでも頑張って働いていましたが、51歳のとき仕事を辞めました。
7月9日に全国いっせいに取り組まれた原爆症認定集団申請に、思い切って提出しました。9年前にC型慢性肝炎と診断され、健康管理手当てもとれず、2キロ以内で被爆しているので保険手当てをもらっていました。今までは、厚生労働省の施策による切捨てを予測して、私はあきらめ続けていました。このたびの集団申請にあたり、相談所の皆さんが、診断書を書いてもらうために、医師への依頼に何度も足を運んで下さいました。こうした周りの人々の支えが、わたしの認定申請へのキッカケとなりました。また、申請の段階での医師との意思の疎通がとても大切と思いました。
私は、「被爆し、免疫力が低下したために肝炎を発症した」ことを認めさせたいという思いで、今回初めて認定申請をしました。窓口で受け付けてもらった時、涙が出そうでした。却下されたら集団訴訟に加わるつもりです。これまでは認定申請を却下されても、異議申し立てをするだけにとどまっていた被爆者が、多くの人々と力を合わせて訴訟を提起することができるようになりました。集団申請や集団訴訟運動をマスコミが大々的に取り上げてくれて、認定申請をあきらめていた被爆者から、被団協や、相談所への問合せが増えています。
集団訴訟の支援体制づくりを、従来の平和支援団体にはもちろん、医師や法律家、市民運動団体、青年、婦人など多くの団体や個人に広く呼びかけて、独自の支援組織づくりをすすめていくことが大切です。9月にも、集団申請が計画されていますが、ぜひ成功させたいと考えています。
在外被爆者の人たちは、手帳を持っていても援護法の適用が受けられません。被爆に対する国家補償を求めるたたかいを強めなければなりません。私たち被爆者は、「ふたたび被爆者をつくらない」ことを強く願っています。世界のヒバクシャや多くの人たちと手をつないで核兵器のない21世紀を実現するために頑張りましょう。