【被爆者援護連帯】【出版刊行物】
太平洋の核実験被害
仏領ポリネシアで1966年から1974年まで実施された
大気圏核実験の影響調査委員会について
ポリネシアにおける核実験の影響調査報告書(概要)
編集者注:仏領ポリネシア議会は2005年7月15日、「1966年から1974年までの大気圏核実験の仏領ポリネシア住民にたいする影響に関するあらゆる情報の収集のための調査委員会」を設置した。以下はこの調査委員会が2006年1月26日に発表した調査報告書の概要を述べたプレスリリースの翻訳である。プレスリリースは、8つの資料と4つの参考資料からなっており、このうち資料の1〜8と、付属資料の1を訳出した。冒頭の文書は、調査委員長ウヌテア・ヒルションによる前書き(カバーレター)。
調査委員長 ウヌテア・ヒルション
2006年1月26日
1966年7月2日、5時34分、ムルロア。
周囲500キロメートル以内から目撃できたほど巨大な火の玉が炸裂し、太平洋のこの地域と、歴史によってフランス市民となった住民の平穏な生活は永遠に破壊されました。
のちに特に汚染がひどかったことが判明した最初の原子爆弾実験「アルデバラン」は、46回の大気圏実験と147回の地下実験のスタートを切る核爆発実験でした。
原子雲の大音響がおさまると、今度は鉛のベールのように重い沈黙が一帯を覆い、これまでの40年間、人々の健康、環境、経済、社会に重大な被害を与え続けてきました。これらの影響は今日まで知られなかったというより、むしろ意図的に隠蔽されてきました。
仏領ポリネシア議会は、1966年から1974年までにおこなわれた大気圏核実験が仏領ポリネシアの住民におよぼした影響についてのあらゆる情報を収集するため、はじめて調査委員会を設置しました。
こうして2005年7月から真相の究明が開始されています。
仏領ポリネシア議会がフランス本国との連絡役になることを依頼したCDRPCは、みなさんにあらゆる補足的な情報を提供することができます。
私たちの真相解明の意志にみなさんが注目されることを期待しています。
敬具 ウヌテア・ヒルション
1. 仏領ポリネシアの政府と議会は、みずからの手で30年にわたる核実験の総決算をすることを望んだ
「ポリネシアによる調査」開始までの経過
2005年2月13日の選挙で選出された仏領ポリネシアの議会と政府は、ムルロア核実験場の元労働者4,000人以上を組織する「ムルロア・エ・タトゥー」という団体の要請を受けた。同団体は2001年7月の結成時から、メンバーおよび元核実験場周辺の環礁住民の健康被害問題をポリネシアおよびフランスの政府に訴えてきた。1966年7月2日にフランスがムルロア上空で最初の核実験をおこなって以降、太平洋実験センター(CEP)当局は一貫して、核実験は無害であると主張し続けてきた。しかし、ムルロア・エ・タトゥーの訴えだけでなく、核実験に参加した数百名の元兵士と民間人もフランス本国で核実験被害者の会(AVEN)を結成して証言したこと、またメディアが秘密文書の情報を暴露したことなどによって、CEPの責任者らが、その軽率な行為で労働者やポリネシア住民を危険にさらしたことが次第に明らかになった。調査委員会設置を決定的にしたもう一つの要因がある。それは2004年に制定された新しい仏領ポリネシアの地位規定である。これによって、初めてポリネシア議会に調査委員会設置の可能性が認められた(地位規定第68条)。しかし、ポリネシア議会の調査委員会は、フランスの国民議会と比べて、調査権がかなり限定されている。調査の複雑性と重要性にかんがみ、調査委員会は最初の調査対象を大気圏核実験の時期に限定することにした。
仏領ポリネシア政府、イニシアチブをとる
2005年6月22日の閣議で、ジャッキー・ドロレ副大統領の提唱によって、政府は「核実験の影響追跡調査方針検討委員会」の設置を決定した。この方針検討委員会の使命は、ムルロア・エ・タトゥーにたいする技術的、財政的支援、および専門家による鑑定、社会的、医学的評価、科学的調査など、どのような活動が必要かを提案することである。平和・紛争資料研究センター(CDRPC)所長のブリュノー・バリヨに1年間、ポリネシアでの専門家鑑定を依頼した。バリヨの現地派遣団は2006年の第一四半期に報告書を提出し、法整備などにかんする提案をおこなうことになっていた。方針検討委員会は、仏領ポリネシア副大統領、保健大臣、環境大臣、ポリネシア議会議員3名およびムルロア・エ・タトゥーの会員3名で構成される。
仏領ポリネシア議会、調査委員会設置を決定
7月15日、議会の討議を経て、「1966年から1974年までの大気圏核実験の仏領ポリネシア住民にたいする影響に関するあらゆる情報の収集」のための調査委員会の設置が決定した。
二つの相補的な取組み
ムルロアの元労働者とその家族を結集し、支援することで、彼らの権利の承認をめざすムルロア・エ・タトゥーの活動を評価したポリネシア政府は、この団体に助成金を与えた。方針検討委員会は、仏領ポリネシア政府に、核実験の健康、社会、環境にたいする影響にかんする政策や措置を提案することが任務である。また調査委員会の提案を受けて、その提案および専門家鑑定団の勧告を適切に処理することもその任務である。一方、調査委員会は、特定期間に実施された核実験を対象に、6カ月間の調査をおこない、方針検討委員会が検討することになる勧告をまとめて議会に提出する。
2. 1966年から1974年までの大気圏核実験の仏領ポリネシア住民にたいする影響に関するあらゆる情報の収集のための調査委員会
調査委員会設置と調査期間
調査委員会は2005年7月15日に仏領ポリネシア議会の審議で設置された。ポリネシア官報での公布による正式な発足は2005年7月28日である。2004年2月27日に認められた仏領ポリネシアの自治領としての地位規定では、調査委員会は6カ月以内に議会に調査報告書を提出しなければならない。したがって、調査報告書は遅くとも2006年1月27日までに提出されなければならない。
委員長と構成委員
委員長:ウヌテア・ヒルション
ジャッキー・ヴェテアブリアン
ニコル・ブトー
カトリーヌ・トゥイオブヤール
モニク・リシュトン
シャンタル・タヒアタ
ルネ・コフモエティニ
マイロン・マタオア
エマ・マラエア
ヴェロニク・モエヴァイアモ
ハワード・ヴァイラーロア
ヒロヒティ・タファーレレ
ミッシェル・イップ
3つの調査分野
調査を円滑にすすめるため、委員会を3つの調査分野に分けた。
* 健康と科学 責任者 ウヌテア・ヒルション
* 環境 責任者 ジャッキー・ヴェテアブリアン
* 社会・経済 責任者 ニコル・ブトー
専門家
調査委員会は、議会の規定にしたがって、鑑定のための専門家を任命した。
フランス本土のリヨン市にあるCDRPC所長でフランスの核実験について多くの著書のあるブリュノー・バリヨが指名され、バリヨ氏は2005年8月3日からパペーテで作業を開始した。
法律についての論争
官報で調査委員会の設置が発表された翌日の2005年7月29日、仏領ポリネシアの共和国高等弁務官は、裁判所に2つの訴えをおこなった。調査委員会設置の取消し決定請求訴訟と、その訴訟の急速審理請求である。
高等弁務官の急速審理請求は、パペーテの行政裁判所によって却下された。しかし、裁判所が取消し請求を審議しているあいだ、共和国は調査委員会からの要請を無視し続けた。
また、ガストン・フロスのタホエラア・フイララティラ・グループは最高行政裁判所にたいし、調査委員会設置にかんする自治規定第68条の無効化裁判をおこした。
3. 調査委員会の作業のすすめかた
調査委員会は2005年8月初頭から作業を開始した。
聞き取り調査の対象者
聞き取り調査対象者の最初のリストが作成された。聞き取り調査の目的は、大気圏実験がおこなわれていた期間の核実験の目撃者、実験場の責任者、実験場で働いていた人々に会い、話を聞くことである。調査委員会の調査は健康、環境、社会の3分野にわかれていたため、リストにあげられた人々も非常に多様だった。
委員会の調査作業は期間が限られていたため、聞き取り対象としてポリネシア人ないし仏領ポリネシア住民を優先することが決められた。
このリストは完全なものでなく、新たに追加することもできる。
* ポリネシアに核実験場を設置する決定に参加した、あるいは重要な役割を果たした議員や人物。
* 1966−74年にムルロアで働いた元労働者の代表者
* 使用者側代表、特にCEP建設にあたってポリネシアにつくられた多くの下請け企業の代表者。
* 実験場付近の島や環礁の有力者(市長)と住民。
* 元保健担当大臣
* 元環境担当大臣
* フランスの教会や宗教界の代表者
* 共和国大臣と大統領
アンケート
聞き取り調査を実施するにあたって、対象者の種類別にアンケートを作成することが決まった。アンケートの質問の一部は、委員会が解明しようとしている出来事や事実の証人である「キー・パーソン」を対象に作成された。
最初の聞き取り調査
最初の聞き取り調査は8月後半に始まり、CEP設置の初期の証人である「歴史的」人物との会談がおこなわれた。このなかには、核実験実施のためにムルロアとファンガタウファをフランスに無償で譲渡することを決定した審議の主役たちもいた。この決定の賛成者と反対者の両方の証言を聞いた。
委員会の最初の公開会合
9月9日、調査委員会はメディアの参加を認めた最初の公開会議を開催した。会議の冒頭では、公文書資料や元核実験参加者から提供された写真をもとに作成された1960年から1996年までのフランスの核実験計画を短くまとめたビデオが上映された。
続いて、1700万パシフィック・フラン(約16万ユーロ)にのぼる調査委員会の予算案が承認され、CRIIRADがマンガレヴァとハオで現地調査を実施することが発表された。
4. 調査委員会の現地調査団
ムルロア環礁とファンガタウファ環礁への立入り許可申請
8月16日、調査委員会委員長は、フランス国防大臣にムルロア環礁とファンガタウファ環礁への立入り許可申請をおこなった。委員会メンバーはこれら二つの環礁の現状確認、特に1966年-1974年の期間の大気圏核実験と「コールド・ショット」が行われた現場の確認を希望していた。
現在まで、委員会の申請にたいする回答はない。
マンガレヴァ、トゥレイア、ハオへのCRIIRAD調査団
CRIIRADは、チェルノブイリ原発事故の後、フランス、ドローム県バランス市につくられた独立系の放射線調査機関である。CRIIRAD研究所はフランス保健省から認定された機関である。CRIIRADのエンジニアと技術者各1名(ブリュノ・シャレロンとクリスチャン・クルボン)が、2005年10月4日から18日までマンガレヴァとハオに派遣され、放射線測定をおこなった。
マンガレヴァについて
マンガレヴァはムルロアから約400キロメートル弱に位置する有人の島で、大気圏実験の際、とりわけ1966年には、大量の放射性降下物が降った。CDRPCが発行するダモクレス誌が最近、軍の機密文書から入手した当時の資料は、CEP当局がこの島の放射能汚染の実態を隠蔽していたことを明らかにした。
2005年5月、マンガレヴァ島の住民と市長は、この事実について国防大臣に説明を求めた。現在まで、国防大臣からの返事はいっさいない。
CRIIRADミッションは、マンガレヴァ島の土質や植物の状態を評価する要素を持ち帰ることになる。マガレヴァ島民の質問にたいする国防大臣の回答がないことは、大臣の当惑と、ポリネシア人とポリネシア議員を軽視する態度を浮き彫りにするものである。また、1966年7月2日にマンガレヴァにいたガストン・フロスが調査委員会の前での証言を拒否していることは、マンガレヴァ島出身のフロス氏の同胞たちから、当然の評価をえることになるだろう。
ハオ環礁
ハオ環礁は大気圏核実験がおこなわれていた全期間をつうじて、核実験の前進基地となっていた。環礁には全長3000メートル以上の滑走路が建設され、もともと人口150人しかない環礁に、3000人の軍人が移り住んだ。
大気圏核実験の期間、ハオ基地の滑走路の一部は、放射能をおびた雲のなかを飛行し、チリや空気のサンプルを収集した「ヴォートゥール(ハゲタカ)」とよばれる飛行機の放射能汚染除去場として使用されていた。またハオでは、村のそばにある壕のなかに放射能分析施設が建設された。これらの施設はいずれも、そのまま残っているが、いかなる放射線影響調査もおこなわれていない。したがって、この環礁でマグロの養魚場を建設するプロジェクトがすすめられていることもあり、CRIIRADの調査は重要である。
5. ポリネシアにおける核実験の影響の現在
意識の高まり
近年、元ムルロア労働者の健康問題を訴えてきたのは、2001年7月に結成されたムルロア・エ・タトゥーである。
ムルロア・エ・タトゥーの行動やよびかけは、仏領ポリネシアだけでなくフランス本土のメディア、政治的方針検討者、世論の注目を集めた。
2005年2月、仏領ポリネシアで「民主主義のための連合」(UPLD)政権が誕生するとともに、ポリネシアの政治的方針検討者たちは、実験の影響を自分たちで調査することを決めた。かつて反核の旗手であったオスカー・テマル氏は、今日、仏領ポリネシアの大統領になった。
2002年5月、ムルロア・エ・タトゥーがマンガレヴァ島を訪問し、1966年7月2日に最初の核実験がおこなわれたこの島に降った放射性降下物について新しい事実が判明し、それが人々の意識を高めた。地元のラジオ・テレビ局、新聞などのメディアは、これら新事実を広く報道した。それが調査委員会設置の政治的決定へとつながった。
タラサの反響
2005年9月、テレビ番組「タラサ」のルポルタージュ「回帰線のかに座」がRFOの2つのローカル局で放送された。これがポリネシアの世論に与えた影響は非常に大きかった。全世帯がこのルポルタージュを観た。その後、「核実験はクリーンだ」という主張は受け付けられなくなり、ポリネシア人は、当局が住民をどのような危険にさらしていたかについて認識するようになった。
タラサの影響が大きかったのは、それが、ポリネシアのテレビで初めて放送されたフランス本土で放送された核実験にかんするルポルタージュだったこともある。それまで本土で放送された有名なルポルタージュ(例えば「ムルロア、大きな秘密」や「楽園の闇」)がポリネシアのテレビで放映されたことは一度もなかった。
今日のポリネシアのメディアは、かつてタブー視されていたテーマの番組放送をためらうことがなくなり、ポリネシア世論も政府と議会がこの分野でおこなっている行動が、根拠のある正しいものだと確信するようになった。仏領ポリネシアにおける「タウイ」(変革)が最も目に見える形で、しかも住民に支持された形で現れたのが、核実験の影響にたいする認識の高まりであるということができるだろう。
6. 核実験の影響とフランス議会
Avenとムルロア・エ・タトゥーの要請を請け、フランス国民議会と上院の議員たちは、行使できるあらゆる手段を用いて、各方面に訴えようとした。その手段とは質問状と法案の提出である。
現在までに国民議会と上院の緑の党と共産党の議員団が6つの法案を提出している。その最も新しいのは、クリスチャンヌ・タウビラとポール・ジャコビが提出したもので、現在、国民議会の社会党議員団によって議論されている。
質問状
議員らは、関係する大臣に質問状を提出することもできる。質問と大臣の回答は官報に掲載される。
2005年9月22日、議員らは合同で核実験にかんする99の質問を提出した。そのうちの49はUMP(国民運動連合)、37は社会党からの質問である。大臣からの回答は、どの大臣でも同じであることが多く、「何も心配ない」、歴代政府は核実験にかかわった元軍人や元労働者の健康問題の発生を予防し、保障するために必要な措置は全て講じられているというものであった。
一部の議員は個別に大臣に質問状を送ったが、回答は議員団の質問にたいするものと同じだった。
7. 調査委員会報告の要旨
調査委員会の調査対象は、1966年から1974年までの大気圏核実験の時期で、仏領ポリネシアの健康、経済、社会への影響に限定された。
1965年から1967年までの国防省の「機密文書」を全て明らかにした報告書は、核実験を実施した当局の主張が虚偽であった疑いの余地のない、明確な証拠を示している。当局側は、実験がクリーンで「放射性降下物」は住民に影響がないと主張しているが、報告書は1966年と67年の実験はいずれも、仏領ポリネシアの有人の列島に死の雨を降らせたことを証明している。
核実験センター管理局(Dircen)が設置した気象予報システムは不十分であるだけでなく、住民が大気圏核実験の放射性降下物に被曝する危険性を防止することができなかった。軍の気象学者たちは自画自賛していたが、調査委員会はわずか14カ所の観測所では、500万平方キロ(ヨーロッパと同じくらいの広さ)の地域の気象予報には滑稽なほど不十分であるとしている。
大臣、医療専門家、医療職員の聞き取り調査の後、調査委員会は大気圏核実験が、実験場で働いた労働者だけでなく、ポリネシア住民全体の健康に深刻な影響をおよぼしていると確信した。ポリネシア女性の甲状腺ガンの発生率が非常に高いことや、急性骨髄性白血病の目立った増加は、放射性降下物の影響を示している。
報告書は、フランスがポリネシアに実験場設置の見返りに約束した経済的支援の一部が実行されていないこと、フランスがポリネシアに投入した膨大な予算は、ポリネシアの持続可能な開発の条件をつくらなかったことを指摘した。
調査委員会が放射線分析専門家(CRIIRAD)をともなって、マンガレヴァ、トゥレイア、ハオを訪問したことで、今日でも測定できるほど強い大気圏実験の放射性の降下物があったことだけでなく、軍隊が住民をいかにひどい状態に放置していたかが明らかになった。
報告書は、国が民主主義のルールに基づいて決定された調査作業を中止させるため、法的手段を行使しただけでなく、情報提供の要請に応じることを拒否し、調査委員会の話し合いに直接介入して作業を阻止しようとした姿勢を告発している。また11月には、調査団の訪問の後、国防省の代表団がトゥレイアとマンガレヴァを訪れ、これらの市や住民に、大気圏核実験の時期の「やっかいな痕跡(シェルター)」を始末するように圧力をかけている。(後略)
8. 調査委員会の勧告
仏領ポリネシア議会調査委員会は作業の終了にあたって、今回の調査が限定されたものであることを強調する。委員会の任務は、大気圏実験の期間、すなわち1966年から1974年についての調査である。この時期以後も核実験の影響は続いているため、今日のポリネシアの健康、経済、社会の現実も考慮せざるをえなかったが、委員会としては与えられた任務をまっとうしたと考えている。
報告書にムルロアとファンガタウファにかんする章がないことに驚くかもしれない。これは忘れたからでなく、1966年に核実験が始まってからこんにちまで、ポリネシア議会の議員にはこれら二つの環礁への立入りが一切禁止されていることを強調したいという意図によるものである。議員にかんする章で報告してあるように、軍の招待で実験場を訪れた少数の議員も、案内した軍人の言葉を確認する手段がなかった。調査委員会は、国防省にこれら核の環礁の訪問を実施するように要請したが、国防省からはこの要請書を受け取ったという返事もない。このような状況で、委員会は2つの環礁について沈黙すべきであると判断した。
仏領ポリネシア議会によって承認をうけるべき調査委員会の勧告は、主として仏領ポリネシア政府にたいするものである。政府は、そのための機関として方針委員会を設置した。その後、調査委員会の勧告を取り上げて、実施するのは政府である。
ただし調査委員会は、仏領ポリネシアが核実験計画全体の影響について、より完全な分析をするために、事前に次のことを勧告しておきたい。
調査委員会は、方針検討委員会にたいし、健康と環境への地下核実験の影響の独自調査を実施するよう勧告する。この影響は無視できるというには程遠く、また長期的なものである。
I. 汚染除去・復旧すべき場所
調査委員会はガンビエ、トゥレイア、ハオ環礁を訪問した。そこでは大気圏実験の期間、CEPによって環境と住民の日常生活が長期に続く被害を受けた。特に、ハオ、トゥレイア、マンガレヴァには汚染除去・復旧すべき広大な土地がある。軍事施設(シェルター、小要塞など)の一部は、今後どうするかを検討しなければならない。また、大気圏実験で汚染されたことが判明している場所については、放射能の状態には不安が残る。
調査委員会は、CRIIADの実施した事前調査に基づいて、補足的な放射線鑑定を計画することを提案する。
I-1. 調査委員会は仏領ポリネシア政府が「方針検討委員会」に「汚染除去・復旧すべき場所」にかんする作業グループの設置を委任するよう提案する。
調査委員会は、その際に使用する方法の2原則として、透明性と、関係者すなわち個人地主、自治体、仏領ポリネシア、国の協議を提案する。
係争の解決のために必要があれば、仲裁者を指定する。
II. 汚染した廃棄物と資材
調査委員会は、様々な筋(証言、資料、写真など)から、汚染された資材が海(あるいはラグーン)に廃棄されたことを知らされた。
国防省が宣言した透明性と将来の世代への影響防止の原則の適用によって、これら廃棄物についての情報は仏領ポリネシアに提供されなければならない。
II-1. 調査委員会は仏領ポリネシア政府に、以下の措置をとるための交渉を国と開始するよう勧告する:
* 海に廃棄された放射性廃棄物のリスト:廃棄物の種類、投棄の日と場所;
* 1974年に海に廃棄した航空機「ヴォートゥール」の廃棄場所の地図;
* その他の海あるいはラグーンへの廃棄場所の地図。
回収可能な放射性廃棄物の処理と管理は国と仏領ポリネシアの合同作業グループで検討する。
III. 仏領ポリネシアの放射線分析研究所
調査委員会が核実験計画で使用された地帯あるいは環礁の一部の放射線について収集した情報は、今後、仏領ポリネシアの権限で、サンプリングや解析をおこなう必要がある。調査委員会の経験は、国の同様な機関(例えばLESE)の協力が得られないことを示している。
III-1. 調査委員会は仏領ポリネシアの管轄下に放射線分析研究所を設立することを勧告する。この勧告に添付した研究所プロジェクトは、その設立の出発点となるものである。
IV. 核実験の歴史・資料センター
調査委員会は、作業をすすめるなかで、仏領ポリネシアでおこなわれた核実験にかんする数多くの資料を閲覧あるいは入手するのに苦労した。この時期の歴史とポリネシアの将来にたいする影響については、ポリネシア人自身、特に若い世代にはほとんど知られていない。
IV-1. 調査委員会は、ポリネシアの機関として、住民に公開される核実験の歴史と資料センターを設立することを提言する。
このセンターは、大国が太平洋でおこなった核実験にテーマを拡大して、国際的な性格をもたせることもできる。
このセンターには事務所、職員、予算を与える。また、センターは、核実験にかんする入手可能な文書や視聴覚資料全てを収集する。
このセンターは、ポリネシア人たけでなく、仏領ポリネシアを訪れる観光客も対象とした資料作成や展示をおこなうことができる。
IV-2. 調査委員会は中立の歴史学者委員会を設置し、ポリネシアの核実験時代の調査をおこなうよう提言する。
IV-3. 調査委員会は1963年から核実験場で働いた全てのポリネシア人、とくにすでに亡くなった人の記憶を保存することを提言する。この目的のため、調査委員会はポリネシアの市長と家族に死亡した元労働者全員の調査をおこない、その情報を方針検討委員会に伝えるよう要請する。調査委員会は、ムルロア・エ・タトゥーの提案する核実験記念碑プロジェクトを承認し、ポリネシア政府にその実現に寄与することを勧告する。
V. 健康追跡調査
調査委員会は聞き取り調査やマンガレヴァ、トゥレイア、ハオの訪問の際、多くの人々から健康についての質問を受けた。調査委員会は、核実験が仏領ポリネシア全体の公衆衛生をそこなったという確信を強くしている。
V-1. 調査委員会はポリネシア政府にたいし、ムルロア労働者とその家族、ムルロア周辺の島や環礁の住民など核実験の「最も近く」にいた人々の「健康・生活追跡調査室」の設置を勧告する。この追跡調査室の構成や任務は「方針検討委員」が検討する。
V-2. 調査委員会は核の危険で最も被害を受けたと思われる人々と地域、特に「大気圏実験の風下」にある島や環礁の住民、元ムルロア労働者とその家族についての学術調査の資金拠出を勧告する。
これら住民の追跡調査にかんする基礎調査は、大学の協力をえておこなうことができる。それによって疫学者や研究者は、本格的な社会学的、人類学的な基礎に依拠した研究をおこなうことができる。
この一環として、調査委員会は輸血センターの管轄下でDNAバンクを設立することを勧告する。
V-3. 調査委員会は放射線起因性の病気についての科学的調査を続行し、とくにポリネシアのガン登録に資金と職員を提供することを勧告する。
V-4. 調査委員会はポリネシア政府に、健康についての章で調査委員会が指定している方法にしたがって「推定の原則」を認める法案をフランス議会の審議日程に加えるよう、フランスに要請するよう勧告する。
VI. 経済開発
CEPが活動していた30年間は、仏領ポリネシアの持続可能な開発に真に貢献するものではなかった。CEP設置による障害の見返りとして、大規模な経済基盤がポリネシア議員にたいして約束されていた。その約束は履行されなかった。
VI-1. 調査委員会はポリネシア政府に、仏領ポリネシアに持続可能な発展の手段を与える、特にタヒチ島の縦断道路建設を優先した社会資本整備・維持のための資金提供について国と話し合いを開始するよう勧告する。
VI-2. 調査委員会は、ポリネシア政府に、社会保障基金、関係省庁、ムルロア・エ・タトゥーと協議し、元ムルロア労働者の被った経済的損害問題(年金計算にムルロアで働いていた年数が考慮されない、職業病の認定など)を解決するよう勧告する。
VII. 国との関係
調査委員会は、核実験が終わって10年が経過したいま、国と仏領ポリネシアとの核実験の影響をめぐる紛争が解決されるべきであると考える。ポリネシア政府と議員は、30年間の核実験について自分たちで調査する手段を確立した。この調査は今後も継続されなければならない。
VII-1.調査委員会はポリネシア政府に、核実験にかんする対話と協議のための合同委員会を設置するよう、国の諸機関に要請することを勧告する。
VII-2. 調査員会はポリネシア政府に、1966年から1974年の期間の核実験放射性降下物にかんする報告書を全て提供するよう国の責任者に要請することを勧告する。
VII-3. 調査委員会はポリネシア政府に、調査委員会の勧告を財政面で考慮するため、核実験被害補償のための「開発計画」について再交渉するよう勧告する。
VII-4. 調査委員会はポリネシア政府に、ムルロアおよびファンガタウファ環礁の監視に、ポリネシアが指名する専門家や要員の参加を認めるよう国と交渉することを勧告する。また仏領ポリネシアの設立した放射線分析研究所を、現在は国防省だけが管理する監視に参加させること。
VII-5. 調査委員会はポリネシア政府に、ムルロアおよびファンガタウファの法律上の地位を見直すため、国との話し合いを開始するように勧告する。
<付属資料>
CRIIRAD(独立放射線研究情報委員会)のプレスリリース
2006年1月25日
仏領ポリネシアにおける核実験の影響
CRIIRADの予備調査団(2005年10月)
仏領ポリネシア議会は1966年から1974年までの大気圏核実験の影響調査委員会を設置した。この期間にムルロアとファンガタウファの核実験場でおこなわれた大気圏核実験は48回にのぼる。
1. CRIIRAD調査団の目的
調査委員会はCRIIRADに、マンガレヴァ、トゥレイア、ハオでの放射線測定(ガンマ線測定)、およびサンプル採集を依頼した。CRIIRADは土壌、沈殿物、埋立用の土、水、植物など合計55点のサンプルをフランス本国に持ち帰り、分析した。
ガンビエ列島(マンガレヴァ)での調査の目的は、地上の残留放射線汚染の強度を判断することであった。ムルロアの東南東約600キロメートルに位置するこの列島は、死の灰の影響が特に大きかったとされている。
途中、調査団はムルロアの北115キロメートルのトゥレイア環礁にも数時間寄港し、予備調査をおこなうことができた。
ムルロアの北西460キロメートルにあるハオでの目的は、放射性物質を取り扱った一部の軍事施設と原子力委員会(CEA)の施設の放射線レベルを確認することであった。ハオは当時、CEPの後方基地となっていた。
また、CRIIRADは1998年に公表された軍事データと2005年にダモクレス誌が掲載した希少な「機密」文書のデータに基づいて、放射線量の推定をおこなった。調査委員会の報告書(CRIIRADの報告書を含む)は、www.obsarm.orgで閲覧できる。
2. 現在の放射能状況の知識を向上する必要性
2005年にCRIIRADがマンガレヴァ、トゥレイア、ハオの地上でおこなったサンプル採集では、現在、人々の健康被害を引き起こす危険性のある異常に高いレベルの放射能の存在は検出されなかった。調査結果は放射能レベルについては大部分が非常に優良な状態で、自然放射能のレベルも非常に低く、残留セシウム137による汚染も少ない(特にサンゴ性土壌では)ことを示している。これらの予備調査結果は、これらの島や環礁に住む住民を安心させることになろう。
しかし、サンプル採集の結果は、大気圏核実験が、採集した土壌、沈殿物、植物のサンプルの一部に放射性元素の痕跡を残していることを明らかにした。
放射線の影響の実態をさらに詳しく知るには、地上および水中の動植物相および食物連鎖についての補足的な分析が必要である。またシグアテラの問題については、特別の調査が必要である。
トゥレイアとハオにある危険施設周辺の残留放射能の測定については、CRIIRADの初期調査が短期間であったこと、調査すべき場所が広大であったことなどから、必要な技術的手段を備えた調査団によって、長期間の調査をおこなうことが不可欠である。特に放射性廃棄物(汚染された古い配管、壕、砂利など)が地中に埋められたまま残っていないかを確認しなければならない。汚染された鉄筋や土砂などを選別し、撤収することを含め、軍や原子力委員会の施設跡地の大規模な汚染除去事業と、放射能測定事業とを組み合わせて実施することもできる。このような事業の計画化には、管轄当局が、地中に埋められた古い施設や様々な配管の地図、固体および液体の放射性廃棄物の処理と廃棄の方法の描写(施設建設時だけでなく解体作業の時のものを含む)、汚染除去のしきい値を含む危険施設の廃棄にかんする資料を提供することが不可欠である。
3. 核実験時期の住民の被曝
1966年から1974年の放射性降下物にかんする軍の公式文書にある僅かなデータの分析は、大気圏核実験の一部の後で、汚染した大気の塊が通過したことによる広範囲の被曝があったことを明らかにした。1966年7月2日、ガンビエにおける放射線被曝量は、自然レベルの1万倍以上(580μシーベルト/時)であった(トゥレイアでは1971年6月12日に自然レベルの1800倍以上)。
核実験期間に生じた空気中の放射性核種は、地上に降り積り、水、土壌、食料を強く汚染した。例えば、1966年9月26日の「リジェル」実験の後、ガンビエとトゥレイアに降った雨水の放射能は非常に高い値に達していた(それぞれ1リットルあたり1億1100万ベクレルと2590万ベクレル)。これは降水の自然放射能レベルのそれぞれ8億5000万倍と1億9900万倍に相当する。つまり1966年9月26日にガンビエで測定された雨の放射能は、ガンビエで採取した水の汚染最大値として軍が発表した値(1966年7月2日の核実験)の69,000倍だったことになる。トゥレイアで1966年9月26日に測定された雨水の放射能は、DIRCENがトゥレイアの貯水タンクの水について発表した放射能最大値(1971年6月12日の核実験)の600倍であった。
CRIIRADによるダモクレス誌が発表した機密文書にもとづく放射線量推定は、健康にたいする許容できない危険性のある、すなわち当時適用されていた健康基準よりかなり高い、年間数百ミリシーベルトにのぼる体外および体内被曝を住民がうけたことを示している。放射性降下物が降った後で雨水を2リットル飲んだだけでも、数十ミリあるいは数百ミリシーベルトの放射線に被曝することになる。しかし、住民はこの汚染された水の危険性を知らされていなかった。
これらの放射線量の推定が示すように、DIRCENが1998年に公表した正式数字(被曝量の最大値は年間数ミリシーベルト)は、降下物の放射線が住民におよぼす影響を著しく過小評価している。またDIRCENのおこなった推定は、全ての降下物を考慮したものではなく、子供では放射線にたいする感受性が高いことや、トリチウム、炭素14、プルトニウムの同位体など一部の放射線核種の存在を無視している。しかしこれらの元素が降下物に含まれていたことはCRIIRADの測定が証明している(トゥレイアの貯水タンクの泥、リキテアの椰子の木の幹)。さらに正式な推定値は住民の現実の生活様式を考慮していない(ガンビエの住民は雨水をそのまま飲んでいる)。
体外被曝と体内被曝の大部分は、比較的半減期の短い放射性核種によるものである。降下して30年経過した今では、これらの放射性核種は完全に消滅している。当時被曝した住民、あるいはその子孫の健康被害の一部は、すでに表面化している可能性もある。疾病のなかには潜伏期間が数十年というものもあり、将来、発生する可能性もある。
特に体内被曝(吸入や摂取による)の低線量被曝の健康への影響についての科学的知識の向上によって、発生の恐れがあるのはガンばかりでなく、免疫系、循環器系、神経系、消化器系などにも悪影響がおよぶことが知られるようになった。1966年から1974年までの大気圏核実験に被曝した住民や労働者の健康被害評価には以下が必要である。
1) 大気圏核実験の時期の軍、特に放射線測定に関与する部署(SMSRとSMCB)の報告書の公開。これは可能な限り正確な放射線量推定をおこなうためである。これらのデータの解釈には、軍事専門家、原子力委員会、独立した研究者で構成される作業グループの設置が必要である。
2) ガン性疾病ばかりでなく、被曝者とその子孫に発生する可能性のある非ガン性疾病全体にかんする疫学的調査を継続すること。
3) 被曝者にたいする特別の生物学的調査(染色体異常、生体放射線量測定など)。
これらについては関係する分野の専門家および住民、元労働者、議員などの代表者を集めた実行委員会を設置することが有効である。
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