2009年8月アーカイブ

竹田昭彦日誌No.37

< 世界大会長崎 連帯と歓喜のフィナーレ>


昨夜は、長崎市職労のお世話で「広島~長崎反核平和マラソン」歓迎夕食会が開かれ、参加しました。会場は、大浦地区の公民館で、そこのホールに雑魚寝するのが慣例です。私も泊まり、深夜まで盛り上がりました。


今朝は、長崎市役所へ行き、敷地内にある「長崎市職員原爆犠牲者」碑に黙祷を捧げました。長崎に落とされた原爆で、市職員37人が犠牲になりました。私は、元横浜市の職員だったこともあり、長崎大会に来たときはお参りしています。


今回、偶然にも、碑の前で、横浜市従労組の若い人たちと会いました。


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▲長崎市庁舎敷地にある「長崎市職員原爆犠牲者」碑


10時半から開かれた閉会総会は、被爆者、海外代表等の報告や決意表明、そして、優れた活動をした地域や、団体の参加者集団が登壇し、絵図などでアピールし、代表者が熱弁しました。


生協労組の活動披露では、ギターの伴奏付きで、歌も出ました。青年たちの決意表明では、核兵器廃絶に向けた「3、2、1、0!」のカウントダウンが呼びかけられ、会場の人たちが一斉に、両手でゼロの輪をつくりました。


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▲生協労組の平和行進取り組みを報告する沓脱隆二さん(京都生協労組)


会場は、盛り上がり、海外の代表団も登壇し、手を取りあい、会場全体が歓喜のウエーブとなりました。


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▲壇上から子どもたちが平和の折り鶴を飛ばす


これまで以上に、総会の盛り上がりを感じました。


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▲海外代表も壇上に 連帯の歓喜満ちる


今日の参加者は、7800人と発表されました。会場が狭かったです。通路に座る人も多くありました。市職員の話しでは、施設管理者から「多く入れないよう」苦言があったとのことです。


世界大会3日間では、各地でお世話になった、多くの方々とお会いしました。


これからも、平和行進に参加し、がんばります。

竹田昭彦日誌No.36

< 世界大会‐長崎/分科会 >

 

今日は、世界大会‐長崎の第2日目で、分科会、フォーラム、うごく分科会などが開かれます。 私は、分科会3の「非核平和のアジアを」に参加しました。

 

この分科会は、最初に米国、中国、韓国、日本の各代表者から、報告と問題提起がおこなわれました。そして、質疑応答があり、参加者が総括的な意見表明をする方法で進められました。

 

問題提起は、アジアの中でも、北東アジア(日本、韓国、北朝鮮、中国)の「非核平和を」が中心でした。

 

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▲分科会3「非核平和のアジアを」(正面左から)米国、(1人おいて)中国、韓国、日本の代表者
 
 

日本と韓国が米国の核の傘に入っていること、中国が核兵器を持っていること、北朝鮮の核実験とミサイル発射問題、オバマ米大統領のプラハ宣言など、これらの現状をどのように分析・認識して、「非核平和のアジア」への運動を進めるべきか、活発な論議がされました。

 

皆さんの意見表明で強調されたのは、武力には武力を持って解決するのではなく、冷静な判断と話し合いによる交渉で「非核平和のアジアを」構築することでした。

 

そのためには、各国の国民が連帯して運動をつよめ、為政者に核兵器を破棄させることです。

 

なお、参加者の総計は150人で、若い人が30%位、世界大会初参加は20%位でした。

 

分科会終了(午後3時)後、8月6日に広島市の平和公園をスタートして長崎市へ向かって走っている「広島~長崎反核平和マラソン」(500km)に参加しました。

 

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▲折り鶴を持って長崎平和公園手前の上り坂を走る「反核平和マラソン」

 

 

通し行進者の松浦さんと私で、長崎駅前から路線バスに乗り、長崎市郊外のつつじが丘(国道34号線)でマラソンの人たちと会い、私は「間の瀬峠」(県道45号線)の上りの「難所」3kmを走りました。この峠を走るのが楽しみだったので、走れてよかったです。

 

長崎市の中心地に入るには、「日見峠」の他に、「間の瀬峠」があります。 現在は、長崎自動車道(日見峠方面)や、長崎バイパス(間の瀬峠方面)ができ、「間の瀬峠」を通る車も、地元の人以外はないでしょう。

 

平和行進や、平和マラソンは、旧道を通ることが多いので、ここでも歴史を感じます。

 

この反核平和マラソンは、今年で27回目です。福岡市職労や北九州市職労などのランナーを中心にすすめています。「全法務労組」や「ランナーズ9の会」のランナーたちも参加し、タスキをつないでいました。

 

来年は、新日本スポーツ連盟で「東京~長崎」を走る「反核平和マラソン」(1500km)の計画があるようです。

 

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▲平和祈念像前で記念撮影

竹田昭彦日誌No.35

< 世界大会長崎/開会総会 >


2009年世界大会‐長崎の開会総会オープニングは、平和行進の通し行進者がリレー横断幕を持って、会場の後方から、座席中央の縦通路を通って登壇する演出でした。


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▲世界大会会場の長崎市民会館玄関風景


47都道府県を、1歩、1歩、歩いてきた平和行進が、世界大会へつながった表現です。私は、平和行進の歴史をかみしめながら、興奮気味に手を振って壇上へ進みました。


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▲開会総会壇上の通し行進者(右から)松浦宣孝さん、竹田昭彦、森悦子さん


行進団に続き、海外代表団も登壇し、紹介されました。各人が紹介されますと、誇らしげに手をあげたり、お辞儀をされたり、連帯感に満ちていました。


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▲開会総会の壇上で紹介された海外代表


国連代表で発言したセルジオさんは、各国から参加した若い人たちに、核兵器廃絶運動で力を出すよう呼びかけました。とても、印象に残りました。


国内の活動報告では、徳島県の署名活動に注目しました。県人口80万人の10%(8万人)の署名を目標にしており、8月4日現在、1万7千人分を集計しています。


この中で、勝浦町は目標を突破し、18%を超えました。50%をめざすそうです。


署名活動の原動力は、県下のあらゆる団体、1000団体を訪問し、署名の取り組みの要請をしていることです(8月4日、訪問目標を1500団体に引き上げた)。


団体訪問・要請のヒントになったのは、昨年の平和行進です。出発式を鳴門市の四国霊場八十八ヶ所第1番霊山寺境内で行い、その後、行進とあわせて八十八ヶ寺を訪問し、住職さんから署名をいただく、四国らしい発想でした。


分け隔てなく、あらゆる団体を訪問・要請する発想と、実行力がカギです。


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▲署名活動の取り組みを報告する徳島県代表の神野美昭さん

竹田昭彦日誌No.34

< 長崎市の爆心地に無事到着 >


長崎市の行進です。


7月4日に広島市の平和公園から出発し、今日で34日目、最後の行進です。


9時40分、出発式をした日見公園では、広島に落とされた原爆で亡くなった方々の冥福を祈り黙祷を捧げました。


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▲出発式で広島の原爆犠牲者に黙祷を捧げる=長崎市日見公園


長崎市の中心街に入るには、日見峠(標高200m)を越えなければなりません。行進出発直後から、約3km上った所が日見峠です。昔は、「西の箱根」と呼ばれた難所です。今回は、1926年(大正15年)に造った日見トンネル(640m)を通りました。


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▲松浦宣孝さんを先頭に日見トンネルを通る


炎天下の上りで、吹き出した汗がとまりません。


トンネルを抜け、4kmほど下り、中心街に入りました。


昼食休憩は、世界大会の会場になる長崎市民会館の所でした。


午後の行進では、繁華街の名所「鉄橋」で、20分ほどとまって、街宣、署名、行進パンフの配布などをしました。ほとんどの通行人に、パンフを受け取ってもらいました。関心が高かったです。


午後4時20分、最終目的地の原爆「爆心地」に到着しました。


5時から集結式が開かれ(参加者120人)、来賓の長崎原爆資料館長さんと、長崎県の被爆者代表の方から歓迎の言葉をいただきました。


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▲集結式でお礼の挨拶をする竹田=長崎市爆心地


通し行進者各人が、無事、着いたことに感謝し、行進中の感激を披露、核兵器の廃絶に向けて更に頑張ることを誓いました。


式には、佐賀県内を通し行進した秋山哲朗さんが見え、唐津名物の松露饅頭と唐津原爆被害者の会の記録集をいただきました。


終了後、森さん、松浦さん、長崎県内の通し行進者の宮島茂吉さん等と会食し、労をねぎらいました。


宮島さんは、労山(日本勤労者山岳連盟)のメンバー、県内通し行進14回目のベテランです。


私は、加齢とともに身体の不安もありましたが、無事、目的が達成でき嬉しかったです。ただし、堅い物を食べたことから、弱っていた前歯2本が欠けました。


お世話になった皆さま、ありがとうございます。


今日の行進距離は、参加者60人前後で14km歩きました。


長崎県の行進距離総計は、82.5kmです。


広島市の平和公園から、長崎市の爆心地までの行進距離合計は、494.5kmです。

松浦宜孝日誌No.43

7時に別棟にある食堂に行くためフロントに下りていくと森さんが新聞の「原爆症訴訟全員救済」の記事を見て興奮している。昨夜のテレビのニュースを見ていなかったそうで、厚生労働省前での上訴するなの座り込みなどを経験している彼女はその喜びとここまで来るのに64年を費やした腹立たしさに複雑な涙が出ると言っていた。


外に出ると雨が降っていて、昨夜の天気予報で台風の接近を言っていたのを思い出し最終日も雨になると覚悟を決める。携帯iモード情報で確認すると10時半頃がピークで午後は日差しがきついとある。食事を終えて外に出ると雨はとりあえず上がっている。9時に宿を出る頃には青空がでていた。


日見公園の出発式では今日の責任団体、通し行進者の挨拶の後、広島原爆の犠牲者の冥福を祈って黙祷がささげられた。


10時にスタートした平和行進はほどなく今日の難関のひとつ日見峠への上り坂にかかる、まず右にカーブしながら34号線までの坂、そして交差点を左折してからも勾配はきついが見晴らしは良くなってくる。左手に美しいたちばな湾と今朝の雨で埃が落とされた島の緑が映えていた。その風景も視野から消え、太陽の日差しと約3キロの登り坂標高差200メートルのきつい坂が休憩を待ち遠しく思わせる。


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その休憩所はほぼ登りきった、すすき塚IC手前スズキ自動車の販売店横でした。多くの人が自動販売機でペットボトルのお茶類を購入していました。その後民商さんの給水車が遅れて到着、待ちわびていた人たちは何杯もおかわりしていました。兄弟に二人の脳梗塞患者を有するDNA持ちの私はコンビニで冷凍飲料を2本購入し、1本は保冷機能付きペットボトルホルダーに、他の1本は背中の首筋に入れ体温低下に使用し、解けた分だけ飲んでいました。


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休憩の後しばらく歩くと640メートルの長い日見隧道です、バイパスが別にあり通行量は少ないものの、暗くて危険なため1列縦隊ですすみました。下りも約3キロでしたが、まだかなと思う頃、市電の始発駅でもある蛍茶屋の休憩場所に着きました。この休憩所はモルモット代わりで調査はすれど治療はせずの「ABCC」の後継施設の放射線影響研究所の前でもありました。パンフレットをもらいましたのでまたレポートします。


市内を行進している途中で署名、宣伝行動を行うなどして爆心地に到着しました。終結集会では西彼半島コースの人を含め120人ぐらいになりました。まず長崎での原爆被爆者の冥福を祈って黙祷しました。原爆資料館館長も平和市長会議に市民も参加できるものがあるとのアピールも交えてあいさつ。被団協県会長の後,通し行進者もしめくくりの挨拶を行いました。

松浦宜孝日誌No.42

長崎のテレビでは連日高校生1万人名署名活動について放映しています。先日はこのグループがオバマ大統領に広島・長崎の原爆資料館を見に来てほしいと署名を集めているというものでした。


今日はこのグループのOBで大学生になったいまも活動している学生たちの活動を紹介しています。小学校3年生の平和活動に出前授業で出かけています。また年々高齢化が進んでいる被爆者の声を聞きDVDに残して被爆体験の風化を防ぐ活動を行っています。すでに国内外で150件のDVD貸し出しがおこなわれています。彼らのモットーは「我々は微力ではあるが無力ではない」で、地道な活動を続けています。


別のニュースでは、いま被爆者に2種類以上のガンが発生し、3種類の人が34例あるなどと報じられています。


夏にはこれらの報道は多くなりますが、地元はさらに多いようです。


今日の日程
西諫早駅前  集合9:30   出発9:50
多良見支所  着 11:05  発12:30 歓迎式 昼食
バイパス高架下 着13:20  発13:40
ネットカフェ前 着14:40  発14:50
日見公園    着15:50


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▲西諫早駅出発式


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▲多良見支所での歓迎式


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▲多良見支所の合併後の平和都市宣言


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▲進行速度計算の素になる距離表示ちなみに2:24に通過


多良見支所まで休憩無しで一気に進むが朝はまだ元気、休憩は3階の部屋をお借りすることができた。ここも合併で諫早市になっており、昨日高城公園に石碑として刻まれた平和都市諫早宣言の同文が支所でも掲示されていて、町時代の石柱も残っている。


昨日長崎も昨年より29日遅い梅雨明け宣言が出され、この2日間は日差しもきつく距離もあってハードでした。昨日は足を引きずりながら歩き、最後は気分も悪くなり途中でリタイアした若い女性もいたそうです。

竹田昭彦日誌No.33

< 長崎市に入る >


諫早市、長崎市の行進です。


昨日、九州地方の梅雨明け宣言があり、やっと本格的な夏がやってきました。


朝9時半、行進出発式の前に、500mlの水を飲みました。これは、「汗が吹き出してから水を飲む」繰り返しと違い、「汗がじわじわと出る」快適さでした。早めの水分補給が、良かったようです。汗が吹き出てからの水分補給は、水分の体内吸収が悪くなり、すぐに、汗となって吹き出すようです。


11時過ぎ、諫早市の多良見支所に着くと、支所長さんから激励の挨拶をいただきました。そして、急遽、冷房の効いた会議室を、昼食休憩場所に提供してもらいました。午前の行進を、75分休憩なしで歩いたので、会議室を使えて良かったです。


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▲諫早市多良見支所で支所長さん(右)から激励をいただく


12時30分、多良見支所を出発し、50分ほど歩いた場所に、長崎バイパス自動車道の高架下の日陰がありました。参加者から「休もう」、との声が出て、20分ほど休みました。


休憩予定場所の手前、300mでした。予定の場所まで、ガマンできなかったのです。


行進を再開し、間もなくしてあったコンビニで、20人位が水を買いました。私も買いました。レジも混み、行進団から100m以上遅れてしまい、走って追いつきました。20人位遅れていることを説明し、ペースを落としてもらいました。


今日は、行進団の後部に救護車もなく、実行委員会で用意した水もなく、不安を感じたので、その後、私は隊列の最後尾を歩きました。


高齢のご婦人が、遅れだし、隊列からどんどん離れました。タクシーを拾って帰ると言いますので、宣伝カーに乗ってもらいました。


つぎに、朝から歩いていた幼稚園児とお父さんが遅れました。追いつくのが難しいようです。宣伝カーに乗ることをすすめますと、園児は、歩くと言います。


午後4時10分前、無事、終点の長崎市の日見公園に着きました。


終了式では、明日もガンバロウのかけ声が出て、予定外に、全員で「明日の平和行進ガンバロウ」を三唱しました。暑い中を歩き通した、皆さんの気持ちです。


後方を歩いていたとき、森悦子さんが信号待ち時間を利用し、右足のストレッチをしていました。足の痛みは、相当につらいようです。


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▲道路の縁石を利用して右足のストレッチングをする森悦子さん


行進は、長崎市に入りました。あと1日で終わります。


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▲午後1時41分 長崎市に入る


今日の行進距離は、区間により参加者50~70人で15km歩きました。

私の定年後の夢が実現しました。5月6日東京夢の島第五福竜丸展示館前を出発し91日かけて本日、広島平和祈念公園に到着しました。広島のうたごえの「君の道を」を聞きながら。万歳!


8月9日に生まれた私は、子供の頃から長崎の原爆記念日を意識していました。20歳でうたごえ運動を知り、「うたごえは平和の力」を実践してきました。


西播を通る平和行進にも、参加したりしなかったりでしたが、82年のSSDⅡ(第2回国連軍縮総会)のうたごえ代表団に加わり、ニューヨークを揺るがした100人のデモの先頭を太鼓と叩き歌を歌いながら勤めました。この時多くの皆さんの代表として参加したくて、姫路の駅頭に40日間毎日立ち、署名と募金を訴えました。3千人近い署名と、90万円の募金をいただきました。


以来、お返しに、駅頭での6・9行動27年、職場(日本トムソン姫路工場)の門前での6・9活動を22年続けてきました。定年退職したら平和行進の通し行進が夢でした。


長いようで短い3ヶ月でした、平和行進52回、半世紀にわたる、「核兵器廃絶、被爆者援護連帯、平和を守れ」の草の根運動の歴史の重みと、先人たちの努力、運動の蓄積と広がりを感じる行進でした。


64年前の広島・長崎での悲劇を体を張って訴え続けてこられた被爆者の皆さんの思いが、オバマ米国大統領のプラハでの演説につながり、核兵器廃絶の追い風を受けての行進でした。


沿線の東京、神奈川、静岡、愛知、岐阜、滋賀、京都、奈良、大阪、兵庫、岡山、広島とうたごえの仲間の力強い応援、激励を受け、また、被爆者の皆さんの「たのみます」と手を握られた思いを胸に歩き通す事が出来ました。行進団を励ますうたごえの力は偉大です、歌うことで力がわき元気に行進できます、息を切らし上る峠道、歌があったから楽しく越えられたと!


日本山妙法寺にまねて、沖縄のパーランク(小さく持ち運びやすく、いい音がする)を叩きながら歩きました、歩くリズムが取れ、好評でした。歌のリズムも刻みました。私はSSDⅡの時教わった、庄原の田楽のリズムを打ちながら歩きました。


平和行進は、被爆国日本の民衆運動が生み出した素晴らしいパフォーマンスです、歩くという誰にでもできる、示威行為です。暑くても雨が降っても毎年歩き通す行進の素晴らしさ!継続は力なり!


その事を生み出し半世紀以上続けられた事に参加でき、定年後の夢が実現できました。


うたごえ運動60年の歴史の中で初めての全国通し行進者としての重責と期待を浴びて歩き通す事ができました。


同じJMIUの矢部さんといういい相棒にも恵まれました。次代を担う行進者のために、改革の旅でもありました。全国の経験を伝え、少しでも良くしたいと、苦言も呈しました。


40日目の岐阜から飛び込んできた愛知の若者(22歳・21歳)の2人に勇気と希望と元気をいただきました。平和行進の広がりを実感しました。若者たちの参加を促しました。


毎日歩き、毎日宴会で、メタボ解消どころか?早寝早起きで、太ったかな?


日誌のメールは早朝です。


毎年行進を継続し、支えてこられました。多くの皆さんにお礼を言いたいと思います。


核兵器がなくなり、歩かなくてもいい日が一日でも早く、被爆者の皆さんが生きていらっしゃる間に実現させましょう。


署名を集め世論を喚起し、来年5月のNPT(核不拡散)条約再検討会議に積み上げましょう。


ニューヨークに行きましょう。ご声援ありがとうございました。


矢部さんの一言「だんご4兄弟で歩いてきました。長崎の世界大会、NPT再検討会議まで、一緒に行きたいね!」

竹田昭彦日誌No.32

< 連日の炎天 汗がとまらず >


大村市、諫早市の行進です。


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▲炎天下を鈴田峠へ向かう行進団=大村市


朝から暑く、「暑くても、暑くても、平和行進」の空模様になってました。


汗が、腕や頭から吹き出し、とまらず、休憩時間の水分補給だけでは足りません。行進中に、自販機で水分補給をしました。


連日の暑さで、宣伝カーのカセットテープが、伸びた(?) とのことで、一昨日の午後から「音声が間延びし」、調子が悪くなりました。


昨日は、私が持参した新しいカセットテープと、携帯用カセットテープレコーダーを使い、抵抗入りケーブルなどもつなぎ、マッチングを取りましたが、調子はよくなりません。


結論は、宣伝カーの拡声器システムの異常だと判断しました。今日は、宣伝カーを取り替え、順調でした。平和行進には、色いろな出来事があるものです。


行進コースの道路沿いに、公園や、神社などがない所では、高架道路下の日陰を利用し、休憩や、雨宿りをすることがあります。


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▲立体交差道路の橋の下で休憩する=諫早市


今日の午後は、立体交差道路の橋の下で、休憩がありました。昔の旅人も、橋の下で休んだり、野宿をしたりしたので、橋の下は、今も昔も便利だと思いました。


行進の途中で、飴の差し入れがありました。路肩にテーブルを置き、「差し入れです!」と書いた紙が貼られ、飴をのせてありました。行進を止めず、歩きながら取っていただく方法です。暑さを忘れ、気が口の中の甘さに集中しました。うまい!


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▲歩きながら差し入れの飴をいただく =諫早市・諫早駅近く


今日の行進距離は、参加者40~50人で17km歩きました。

松本英治日記No.90

平和行進91日目。曇り後晴れ。


いよいよ最終日です。8時に宿を出、府中町原爆慰霊碑集合、近くの府中町役場で日本山妙法寺の平和行進団が出発集会。


8時45分集会、半日の行進で平和公園です。通し行進者の挨拶は、私「平和行進の歴史を踏まえ、世論を喚起し、世界大会を成功させオバマ発言を実行させましょう」と中平君「人の温かさ優しさに触れる行進でした、いただいたお礼に元気に歩きます」コールと歌でお返し!


東区民センター目指して出発、元気に楽しく、後から太鼓の音響かせて、妙法寺の皆さんが行進!


中平君に最後だから思いっきりやれと発破、ミッキーマウスマーチ最高!シュプレヒコールも気合が入ってます!疲れネタ切れになったら、私にマイクが!行進版の追っかけ歌特集!盛り上がります!


東区役所で野上千津江区長の挨拶を受け名刺交換、多くの職員が仕事の手を止めてお出迎え!ありがたい!


広島市内を元気に行進、駅前大橋で休憩、広島合唱団が出迎え、平和公園目指して、最後の踏ん張り!


途中、Bコース(宇品~)の矢部さんと鶴田君が出迎え、イサムノグチ設計の平和大橋を渡り、小沢日本のうたごえ事務局長出迎え、がっちり握手、平和公園へ広島合唱団の「君の道を」私のために作っていただいた曲の演奏の中、ゴール!万歳!万歳!感慨無量!
昨年の通し行進者米山さん(神奈川県内通し)も出迎え、握手を!


終結集会は宣伝カーの上で通し行進者紹介と挨拶、東京~広島の私がトップで「行進52年の歴史の重みと力強さを感じ、オバマ発言の追い風に乗り楽しく元気に歩けました。被爆者の皆さんの悲願を成就させましょう」矢部さん、四国~広島コースの浅田さん、富山~広島コースの栖原さん、飛び入り参加の中平君は「推薦はありません、あえて言うなら国民の推薦で歩き通せました」と名言です!鶴田君「何にも知らず先輩について参加しました、ここに居て良いのか葛藤しましたが、広島まで来れました。カンパや民宿ありがとうございました」2人の変化が大変うれしい、僕たちです。いい若者を育ててくれたと!平和行進事務局の安井さん!


昼食を安井さんと通し行進者6人で慰労会、世界大会の打ち合わせも!ビールが美味い!


夜、広島音楽センターで広島のうたごえの慰労会に、日うた祭典で何度か行ったのに解らず、薄暮の平和行進に!


手作り料理と、うたごえ「君の道を」も歌い交わしました。勝利の美酒に酔いしれました。ありがと~う。


日誌を読んで応援していただいた全国の皆さんありがとうございました。


2009年国民平和大行進は無事終了しましたが、引き続き世界大会の成功と、来年のNPT再検討会議成功に向け奮闘いたします。


核兵器がなくなるまで、歩み続けることを止めないでしょう!がんばりましょう!硬い握手!

栖原秀夫日誌No.62

8時30分に新庄橋北詰に着く。9時20分に出発集会。私だけの挨拶なので、少し長めに話す。自己紹介と通し行進の動機、歩いてきて感動した事と感謝、福井県辺りから非核3原則を守ろうと訴えてきたことを話しました。


9時30分、平和公園に向けて出発。10時15分、天満川に架かる新横川橋の北詰に着き、15分間休憩。高齢女性から「お元気ですね」と声を掛けられる。私の大声にびっくりしたのかな?再出発し、平和公園に近づいてくると、何だか感情が高ぶってきて、声が出にくくなる。


11時5分平和公園噴水前に到着。のどが渇き、資料館の水飲み機の所に行く。東京コースも到着し、終着集会を行う。米山さんや鳥取県の事務局長が約束通りに来てくれる。本当に有り難い。関わってくれた皆さんのお陰で歩ききりました。有難うございます。


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▲行進が平和公園に着きました。

松浦宜孝日誌No.41

今日の総責任者は高教組諫早支部長、あいさつで「田んぼに行っていたおばあさんは爆風で異変を感じ、しばらく伏せて隠れていたが怖くなって家に帰った、お母さんは山に松ヤニを取りにいってたが林を爆風が通りすぎて行った。翌日からは炊きつけと焚き木を持って集まるように指示が出された。諫早にも火葬場はあったがそれでは間に合わない、今のサブグランドのある辺りでまとめて火葬されたのです」


また、横断幕をもって先頭で共に歩きながら、先年亡くなった、救援列車の運転手の話として「原爆投下当日、長崎に向かっていたが、たまたま出発が遅れていて直撃をまぬがれた、避難者、被爆者を川棚町に運んだ」と教えていただいた。


道幅があり、並んで歩けるときは平和行進ならではの学習の場になります。


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▲大村市内、出発後10分ぐらい


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▲平和都市諫早宣言ー全文を刻んだ碑で公園に設置


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▲バックは諫早眼鏡橋


今日の行程
大村市役所   (集合9:00 出発9:20)
岩松駅前     着9:50   発10:05
鈴田峠      着10:50  発11:45 昼食
バイパス高架下  着12:20  発12:30
諫早駅西口    着13:20  発13:30
高城公園     着14:00  発14:15 (副議長あいさつ)
バイパス交差点  着15:00  発15:10
西諫早駅     着15:35

だんだん1キロが長く感じられています。しかし残りは2日間になりました。爆心地の行進が楽しみです。

竹田昭彦日誌No.31

< 炎天下 冷水補給に大わらわ >


東彼杵町、大村市の行進です。


今日は、炎天下の蒸し暑い行進になりました。


行進コースも、長崎街道(国道34号線)に戻り、幹線道路になったので、脇道の旧道以外は、日陰も少なく、汗が噴き出しました。雨天続きから、急に暑い日になると、体温調整機能がついて行けず、ボウッとしました。


皆さんも暑かったようで、休憩の度に、軽トラックに積んだプラスチック桶の冷水麦茶が、飛ぶように「売れ」ました。ペットボトルに補給する人も、多くありました。


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▲じょうごを使ってペットボトルに冷水麦茶を補給する


私は、冷水用の氷をもらい、帽子の中に入れ、頭の前部を冷やし、熱中症の予防をしました。


長崎の行進では、自治体の首長さんや議長さんからいただいたペナントを、旗棒に掲げて行進しています。リレー横断幕に結んで下げるのと違った、感じがあると思いました。


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▲ペナントを掲げて行進する


昼休みに、時間の余裕がある場合は、持参のパソコンを開き、行進日記などを書くようにしています。短時間ですが、夜の眠い時より計が進みます。


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▲昼休みにパソコンで行進日記を書く=大村市松原出張所


今日の行進距離は、参加者50人前後で19.5km歩きました。


沿道募金は、80056円いただきました。


1日で8万円の募金は、これまでの最高です。募金活動のベテランが、例年いただいている家を訪問し、多くなったそうです。

栖原秀夫日誌No.61

13時に安佐南区役所に行く。13時20分には、棚多区長以下職員も集まり始める。13時30分に出発集会を始める時には、職員は25人、参加者はおよそ60人位が集まる。私は行進団を代表して、出発集会に参加し、激励してくれる安佐南区職員に感謝し、行進で訴えたい「核廃絶」と「横須賀の状況」と「非核3原則を守ろう」について話しました。区長からは、広島市としての核廃絶への強い決意と取り組みについて話がありました。


13時40分、私は市会議員と先頭で横断幕を持ち、安佐南区役所を出発。14時10分、旧称祇園神社に着き、10分間休憩。再出発する。


14時35分、熊野神社で地域の方々が待っている。15分間休憩し、梅ジュースや冷たいお茶を頂く。市議に声を掛けられ、地元生健会の方々と一緒の写真に。再出発し、15時20分頃には新庄橋北詰に着く。明日は此処から平和公園まで歩き、私の今年最大のイベントは終わる。まだ歩き足りない感じである。


18時から広島ロードビル大会議室で広島県実行委員会主催の「2009国民平和大行進 通し行進お疲れさま会」に参加。私以外の通し行進者の挨拶は本当に熱く、感動的である。


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▲岐阜から東京-広島コースに加わった2人の若い通し行進者

松浦宜孝日誌No.40

東彼杵役場前での出発式では実行委員会事務局が、「1958年に始まった国民平和大行進は半世紀を越えました。いま、世界は大きく変わりつつあります。オバマ大統領が4月5日チェコのプラハで演説をし、『核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として、米国は行動する道義的責任がある』『核兵器のない世界を追求することを明確に宣言する』と述べました。アメリカの国家目標として『核兵器のない世界』宣言したのは、歴史上初めての出来事です。さらに、ロシアなど他の核保有国やNATO加盟国の政府にも、核廃絶を支持する声が広がっています。平和行進・原水禁世界大会の取り組みをはじめ、草の根から垣根を越えた対話、行動を大いに進めやすい情勢が生まれています』と挨拶しました。


続いて大村市長のメッセージ紹介「原水爆禁止2009年世界大会平和大行進にご参加の皆様、大変ご苦労様です。ご参加の各団体の皆様に置かれましては、人類の悲願であります。核兵器のない平和な世界の実現を求め、平和行進を行っておられることに、まずもって深く敬意を表します。広島・長崎に人類史上初めて核爆弾が投下され、64年目を迎える今日においても今なお原爆後遺症の苦しむ多くの方がいらっしゃいます。しかし、残念ながら今なおこの地球上には大量の核兵器が存在します。こうした中、オバマ米国大統領が今年4月に行ったプラハ演説で「米国は、核兵器のない、平和で安全な世界を追求する」と宣言し、核兵器廃絶への機運が新たな高まりを迎えています。
核兵器も戦争もない平和な21世紀を1日でも早く実現するためには私たち一人ひとりの平和を求める強い意志と絶え間ない努力をしていくことが必要であり、皆様のこのような取り組みが今後ますます重要になるものと考えます。
最後に、この平和行進のご成功とみなさまの健康、ご活躍を心からお祈り申し上げます。
                               大村市長 松本

議長からのメッセージも紹介されました。


9時20分に平戸街道を進みインターチェンジ前交差点を右折、34号線を中心に時々旧長崎街道を利用しながら松原出張所に26分遅れの11時56分に到着しました。隣の神社など日陰を求め三々五々昼食休憩に入りましたが、我々通し行進者を中心に職員の御好意で出張所の図書室をお借りすることができました。


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アナウンスカーの調子が昨日から悪くテープが悪いのではと今日は新しいテープで挑戦、さらにカセットデッキも交換するが、いずれも効果なし、結局アンプが悪いのではということで明日は車ごと交換の予定です。


P1000467.jpg▲午後1回目休憩直前まだ元気でした


2度の休憩を挟んで16時15分ごろ大村市役所に到着しました。


今日特筆すべきは一人で募金を6万円余集めた人がいたことです。今日の合計は80056円、参加者は午前、午後延べ104人でした。


今日の宿舎は戦時中は海軍病院だった国立病院機構長崎医療センターの近くにあります。女将のお母さんは婦人会の一員をして介護活動に動員されていました。長崎から鉄道で大村駅に重篤の被爆者が大量に送られてきて、血の流れている被爆患者を背中におぶってこの病院に運び込んだそうです。女将さんは幼いころで怖くてそれ以上の詳しい話は聞けなかったそうです。スイカを差し入れていただいた前田さんのめいごさんおいごさんはおとうさんの消息を求めて長崎の町をさまよったそうです。被爆地に近い大村市ではこのような話が身近できくことができます。

松本英治日記No.89

平和行進90日目。曇り後晴れ。


宿を9時に出て坂町役場へ。昨日の交流会でお会いした方々にお礼を。広島合唱団の山岡さんと握手、サークルの方たちもタスキに記名、突田さんギターを持って、集会前に「青い空は、折り鶴」を歌う。町長さんと議長さんの挨拶受け、名刺渡しお礼を!


通し行進者紹介と挨拶は私が「多くの皆さんと対話をし、世論を喚起しオバマ発言の実行を!」と!


10時出発、元気に今日も中平君がハンドマイクでコールを、積極的に!道からはずれ公園内へ。坂町原爆犠牲者追悼碑にお参り、黙祷を捧げる。広島市に近く、多くの方が被爆され亡くなりましたと、被爆50周年に立てられた碑で追悼と、普通は慰霊となっていると説明を受ける。広島市に近づくに連れ、沿道の反応が違う。


町内を行進し、海田町を歌いながら元気に,昼前になると眠い、歩きながらふらふら!中平君に眠気覚ましに歌をと、行進版を歌いました、追っかけ歌は盛り上がります。


歌ってるうちに海田町役場に到着、町長さん議長さんの挨拶をうけ、名刺を渡しお礼を!昼を回ったが、安芸区役所まで歩く、コール歌で、賑やかに、喜多川区長さんの挨拶を受け名刺交換、区役所の食堂で昼食、ざるそば定食(おにぎり、小鉢付き)安い、腹が満たされず近くの天下一のこってりラーメンを久しぶりに!満腹満腹!


突田さんがギター持ち登場、昼休み歌う会「ねがい」など歌う。うたごえの参加者の多くが来てくれています、『うたごえ新聞』読んでますと!うれしい!


2時出発、府中町へ歌いコールでアピールしながら元気に!府中町役場の近くの原爆慰霊碑前で集結集会。町長さん議長さんの挨拶を受けました、慰霊碑にお参りし手を合わせました。


宿に送っていただき、シャワーと洗濯、6時から近くのロードビル(民主団体の多く入ったビル)で行進実行委員会のお疲れ様会に、昨日の交流会にも、富山~広島コースの栖原さん登場、本日も!通し行進者6人に!


乾杯し手作りのごちそうをよばれながら懇談!通し行進者の自己紹介たっぷり、私が一番目に「行進50年の歴史の重みと、継続の力を、SSDⅡ参加時の毎日(40日間)駅頭に立ち署名とカンパのお願いの経験が、私の平和運動の原点です、世論を喚起し、オバマ発言を実行させましょう」皆さんこもごも、紹介!


若者2人に盛大な拍手が!大きく成長しています。「可愛い子には旅をさせろ」です、平和行進最高です。若者の参加をうながしたいです。世界大会は多いですが。岡山は若者多くて元気でした、若い県内通し行進者や、若い全国通し行進者を出した伝統でしょうか?奈木野佳代さんなど!


9時からJMIUの取材で広島焼きの店で飲みなおし。良く食べよく飲みました、メタボ解消どころか?毎日宴会(ええんかい?)。


いよいよ明日ゴールです。長いようで短かった行進でした、出会いの素晴らしさ、感動のドラマが一杯の行進でした。いい相棒に恵まれ、若者の参加で元気と勇気をいただきました。

矢部フォトギャラリー

東京-広島コース通し行進者の矢部常次さんが行進中に撮影した写真を紹介します。

竹田昭彦日誌No.30

< 「特攻殉国の碑」を見学 >


川棚町、東彼杵町の行進です。


行進出発地点の川棚町新谷郷に「特攻殉国の碑」があり、見学しました。


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▲石碑の4面に死没者名が刻まれた「特攻殉国の碑」=川棚町新谷郷


この地域は、大村湾の北部に位置した波静かな入り江(小串湾)で、ハウステンボスの近くです。


ここには、旧海軍の川棚臨時「魚雷艇」訓練所があったのです。


魚雷艇とは、「震洋」と呼ばれるベニヤ板製の1~2人乗りの小型高速モーターボート(長さ5~7m)で、艇首に爆薬(250~300kg)を装備した特攻兵器です。山口県の平生町で見た「回天」と同じく、人間を全く否定した自爆兵器です。


「特攻殉国の碑」には、碑の4面全体に特攻兵器の訓練や実戦で死没した特攻兵士、3511人の名が刻んでありました。そのうち、魚雷艇「震洋」で亡くなったのは、約2500人です。


行進は、大村湾に面した国道205号線(平戸街道)を歩きました。人家や歩道の無いところも多くありました。行き交う車が、渋滞気味になると、多くの車窓から手が振られました。車のスピードが落ちると、平和行進だと分かりやすいからです。元気をもらい、アップダウンの続く道を、よい気分で歩きました。


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▲出発式で挨拶する東彼地区平和行進実行委員長(右)=川棚町新谷郷


川棚町で泊まった宿の夕食で、珍しいご飯をいただきました。


宿(旅館川原)のご主人が、平和行進に参加しており、旅館業のかたわら稲作をしていました。そこで収穫した赤米と黒米のご飯です。


赤米は、小豆のあんを入れた、おはぎ風にしたもので、黒米は酢を入れた、すし風のものでした。黒米に酢を入れると赤色になるようです。


見た目も、食べても、美味しい、創作ご飯の絶品です。


夕食を一緒にした森悦子さん、松浦宣孝さんと、美食談義が延々と続き、美味しさ倍増でした。


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▲夕食で美味しくいただいた赤米のおはぎ(左)と黒米のすし(右)


今日の行進距離は、区間により参加者40~50人で11km歩きました。


沿道募金は、3560円いただきました。

松本英治日記No.88

平和行進89日目。快晴。


呉市役所8時半集合、出発準備をし、9時から集会、日曜日にもかかわらず市長さんのメッセージ代読、お礼を言い名刺を渡す。


昨日の交流会の参加者多数参加、到着集会でいい声で歌っていただいた方が司会、「元気な被爆者です」と!お礼の挨拶を!通し行進者挨拶は私が、「多くの皆さんにアピ-ルし世論の喚起でオバマ発言の実行を!」


呉の繁華街をパーランクとコールでアピールしながら歩く、日曜日で休みの店が多い、何処も繁華街は、シャッター通りになってます、


郊外に駐車場完備の巨大量販店が出来て!その中で頑張っておられる、商店の民主商工会の皆さん、昨日の食堂もそうでした。新婦人、民商、生協さん共産党の皆さんの休憩時のご接待ありがとうございました。元気をいただき、歩き続けることが出来ました。


呉は海軍の街、出発集会で呉の歴史が語られました、明治に日露戦争時海軍鎮守府が設置され、1次、2次の世界大戦を戦艦大和の建造、造船の町でも、現在は海上自衛隊の基地に!白いセーラー服の自衛官が!


旧街道を西へ、映画「海猿」ロケ地の200階段前の小学校で休憩。冷たい麦茶を!


中平君積極的に行進を盛り上げます、コール、アナウンス、歌と昨日の交流会で、岡山の青年(福田君)に学び、出来ることは、積極的に何でもしようと!実践です!


嬉しく、ありがたい、行進参加者が楽しめるよう、工夫を凝らし、誰でも入れる楽しい雰囲気創りに勤めています。


私も負けじと、行進版の楽しい歌で応援です。行進のムードが明るく元気にアピ-ル出来ます、パーランクも好評です、色んな方に来年はパーランク叩きながら歩きたいと!


日本山妙法寺の団扇太鼓に匹敵するほどの、反響です。私は、庄原の田楽のリズムを刻んでいます。SSDⅡの時、教えていただき、ニューヨークで演奏!


歌のときは、歌にあわせてリズムを叩きます、伴奏に!小さなパーランクから大きな音が、1個でも効果抜群です。昔は、小太鼓を乳母車に載せて叩いたり、桶堂太鼓を腰に付けたり、工夫しましたが、小さくて持ち運びに便利で、パーランクに!


矢部さんのオバママスク、靴の色を変えて履く、いかに注目を集めアピ-ルするか、知恵の結晶です。


吉原公民館で昼食休憩、反合の味噌煮込みうどん、卵かけをいただきました。暑い中ふうふうやりながらの煮込みうどん最高です。お代わりも!


今日は、鶴田君が調理当番に、食後のデザートは、「パパイヤ」レモン汁を少し垂らすと、美味さ倍増!「リポビタンD」で「ファイト-!一発!」元気を!心遣いがありがたい。


多くの方々に支えられて、ゴールの平和公園目指します。


国道35号線の海沿いの美しい景色を見ながら歌いながら歩く、途中海上保安大学が、海の傍に!


休憩所で呉民商名物「かき氷」、蜜色々、私は宇治金時に(ゆであずき、と練乳)疲れが吹っ飛びます。子供たちもお手伝い!


元気をいただき、終着の坂町原爆慰霊碑目指す、歌い叫び元気に!駐車スぺ-スの関係で手前の家具屋で終結集会、呉から安芸に引継ぎ式、歩いて慰霊碑にお参り、被爆後舟でこの町に避難された被爆者の皆さんがお亡くなりになり、90体の遺骨が葬ってあります、手を合わせお参りを!


2日間の休みに駆けつけてくれた、浜崎さんと握手でお別れ!良い歌をありがとう!


車で宿の海田温泉へ、シャワーを浴び、洗濯、6時から地元の方々と交流会、乾杯の後、被爆者3人の体験談を聞き、美味しいにぎり寿司とオードブル、広島名物こいわしの刺身を食べながら懇談、地元のうたごえサークルの4人と一緒に「折り鶴」「青い空は」を全員で歌いました、お礼に「木場の舟歌」を披露しました。後2日で平和公園!ゴール間近!温泉で疲れを癒し明日に!

栖原秀夫日誌No.60

9時15分、安佐北区役所前で出発集会。区長所要にて区政振興課長が代わって激励の挨拶をする。私からは、自治体の対応への感謝と「核廃絶」と「非核3原則を守ろう」と訴えて歩く決意で応える。


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▲国民平和大行進に参加する安佐北区生健会の人たち


9時30分、平和行進は40~50人で出発する。9時50分、津田診療所に着き、冷たいお茶と所長の挨拶と署名と募金を頂く。10時25分まで、地域に署名・募金活動に入る。留守宅が多く、私は署名を3筆だけ。地域の力持ちの戻りが遅く、再出発は10時40分。


12時15分頃に、「北民商事務所」に到着。40分ぐらい予定より遅い。スイカやアイスキャンデーを頂く。終着地の安佐南区役所には、50分遅れの13時20分に着く。


今日の交通整理は、先頭を行く警官以外は不慣れなようで、1時間遅れになりそうになり、私服の警官が手伝い始めたら、やっとスムーズになりだした。若い不慣れな警官が目についた。前後の連絡も旗や無線機などを使い明確にすべきだ。居ないよりまし程度では不満です。安芸高田署のやり方を学んでほしい。ごまめの歯ぎしり。


17時15分、県原水協事務局長が迎えに来る。安芸生健会事務所に連れて行って頂く。通し行進者の松本さん、矢部さん、浅田さんと一緒に安芸被団協の方たちと学習交流する。3人の話は本当に熱い。被団協の方たちの話は貴重で、とても有り難かった。


1人で、海田市駅から広島駅への電車に乗ったら、米山さんから電話が入る。明日の昼に広島に着き、明後日の11時30分には、平和公園で私を待って居るとのこと。助かります。

松浦宜孝日誌No.39

今日の送迎は宿泊しているかわはら旅館のご主人でした。昨日帰りにも送っていただきながら農作業着に変身し、旅館の倉庫からでてきた人と夜になって同一人物だと気付いたのです。その川原民主商工会副会長に集合時間までの寸暇を利用して「特攻殉国の碑」を案内していただきました。


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▲「特攻殉国の碑」


ここ川棚町は戦争末期、海軍の若者たちが「必中撃沈」の猛訓練をしていた場所でした。万策尽きながら、ベニヤ板製の艇長5.1メートルの小型高速モーターボートの艦首に250キロの爆弾を抱え突撃しようとしていたのです。それが、「震洋艇」でした。


大分県日出町の特攻潜水艇「回天」基地、鹿児島のゼロ戦特攻知覧基地、そして、ここ川棚町の臨時魚雷艇訓練所と魚雷発射場、九州にそろっている、命を軽く見た戦前の軍国主義の爪あとをみると二度と戦争はいやだ、こりごりだと思わずにはいられない。


新谷郷のリック駐車場(魚雷訓練所のころは通用門だった場所)を借りて出発集会が行われ、行進は出発した。今日は日曜日のため各自治体の挨拶やペナント贈与もなく、役所へも寄らないため、午前午後とも国道沿いの淡々とした行進になった。


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11時半に川棚駅に到着した後、30分間世界大会のチラシ配布と募金集めで商店街などを手分けして回ったが、商店街の休みが多く成果は少なかった。午後の大渡商店をお借りしての休憩では冷茶や試食品など大変お世話になりました。

森 悦子日誌No.52

引き継ぎを終えて通し行進者が一人ずつあいさつ。立った瞬間から感動がこみ上げてきました。私は長崎県まで横断幕を届けることができ、うれしく思います。


4月に入って急に右足の付け根が痛くなり、悩みました。骨の変形が始まっている、「痛い時は歩かないこと」と診断され、ここまでストレッチしながら歩いて来ました。一緒に歩いてくださる皆さんがいてくださったから歩けました。ありがとうございました。


整形外科の先生から生まれつきと診断され、ショックです。あと6日間頑張って爆心地まで歩きます。涙が出て止まりませんでした。


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松浦宜孝日誌No.38

有田町東庁舎にはもうひとつ東出張所の看板がかかっている。昨日はなぜかなという疑問は持っていたが、今日トイレを探して庁舎に入ろうとしたら、中は空家状態で別棟だけで業務を行っているようです。今は東庁舎跡、東出張所が正しい表現になります。


P1000453.jpg▲福岡で別ルートに貸し出された宮崎コースの横断幕が帰ってきました


さてここでの出発式、今日の責任団体年金者組合の司会と責任者挨拶に続いて、行進者代表挨拶は今日で最後になる県内通し行進者の元高校校長の秋山さん、今年77歳になり最後になるかもしれないと思いながら通し行進を続けてきた、ともに同じ目的で行動し仲間意識も生まれた4人に支えられてここまでこれたとも言っていただく。挨拶終了時に、前日から森さんが参加者に一言メッセージを書いてもらっていたミニ色紙をプレゼントする。女性ならではの心配りで、先生も大事な記念になりますと。


今日も先頭で、先生の有田陶芸の歴史、地理案内を得ながら歩いて行く。日本には陶芸家で人間国宝級の人は6、7人はいるが、韓国の陶芸家の作品を見たがそのレベルの作品はなかった。一流二流まで日本につれてこられ、三流以下の人しか残されていなかった過去の歴史があり文化の伝承が進まなかったことによるものでは。


九州陶磁文化館は世界陶磁器博覧会の跡を利用しています。


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▲九州陶磁文化館-遠景ドーム型建物


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▲いよいよ長崎県に入りました


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▲長崎との引継ぎ式


引継ぎ式では佐賀県実行委員長の田中さんの行進団へのねぎらいの言葉と核廃絶の佐賀県の熱い思いを長崎へ引き継いでほしいとの挨拶、続いて佐賀県被爆者団体協議会の吉冨会長があいさつしました。

「被爆64周年の夏を迎えました。原水爆禁止国民平和大行進の皆さん、猛暑の中ご苦労様です。眼を閉じれば64年前、原子爆弾が投下され焦土と化した地獄さながらの長崎の町並みが今でも眼底に焼き付いています。


原子爆弾が爆発時に発生した、熱量、爆風、それにガンマー放射線の影響で生き残った被爆者も、ガンや心のストレス障害等幾多の後遺症に苦しんでいる人が沢山います。


しかし、世界の核保有国は、さらに高性能で小型化した核兵器の開発を進めているとも、伝えられています。このような悲惨な人類の破滅になる悪魔の核兵器は一日も早くこの地球上から廃絶しなければなりません。


かねてより、原水協のみなさまと、私たち被団協は連帯して核兵器の廃絶、世界恒久の平和を、次の世代に引き継いで行く運動を続けていますが、さらにその輪を広げ、命の尊さを心に刻んで、この行進で力強く前進させましょう。


平和行進のみなさまの若い情熱に、大きな拍手と敬意を贈り、激励の挨拶といたします。
本日は、長い道のりをご苦労様でした。日本の将来をしっかり見据えてがんばってください」


この後、通し行進者が自己紹介とあいさつをおこない、横断幕・のぼり旗を長崎に引継ぎました。すこし行進の後、車移動と昼食、午後の出発式は早岐駅前で80人の参加で始まりました。


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▲早岐駅前の出発式


佐世保は大都市ではありますが、熱意でこの大多数の参加になったと思われます。


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この後ハウステンボス駅まで隊列は進みました。

栖原秀夫日誌No.59

9時35分、雨の中でしたが、民商の方を責任者に、法務局や国土交通省や厚労省で働く若い仲間9人と安芸高田市甲田支所を勢い良く出発。江の川沿いに更に上って行く。かなりのハイペースである。


10時25分、「お食事処 よねした」に着く。距離は、3.6kmである。


15分間トイレ休憩。10時40分、行進再開。11時30分、予定より10分早く安芸高田市役所に着く。距離は6.8km。参加者全員が健脚であると共に、警察官の体制がとても良いので、行進が止まらずに進んでいるので早いのであろう。


12時45分まで昼食休憩。12時45分に市役所前に行くと、安芸高田市の被団協の方々が15人もいらっしゃり、一緒に出発集会を行う。


通し行進者として私は「核廃絶」と「非核3原則を守ろう」を訴えて歩くと決意を述べ、次いで、被団協の方から被災時の惨状と平和への思いを話して頂きました。


次いで、国家公務員労働組合の方から組合別に、代表が行進への思いを訴えました。


13時5分、「被爆者」の方々に国民平和大行進の横断幕を持って頂き、「被爆者」を先頭に行進は出発。被団協の皆さんの足取りは、ご高齢にも関わらず大変力強く、私はびっくりしました。被団協の方々とは、1km程ご一緒し、握手をして別れました。


F1010111.jpg▲安芸高田市被団協の方々を先頭に平和行進


14時に「え之宮神社」前、「宮の城」信号に着き、15分間休憩する。


15時に八千代の手前の吉田町入江の駐車場の近くで、10分間休憩する。右手の川の向こう遠くにダムが見える。


15時45分、安芸高田市八千代支所に着く。私は、車で、江の川を遡り、分水嶺を越え、太田川に沿って下って行き、広島市安佐北区役所に送って頂く。安佐北原水協の方々と温泉と食事で歓迎して頂く。

竹田昭彦日誌No.29

< 佐賀県から長崎県へ引継 >

佐賀県の有田町、長崎県の佐世保市の行進です。


昨日書いた、同じ団体のリレー・リュックが3個あることについては、リュック3個をヒモで結びました。同じリュックが3個あるのは、2団体です。


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▲ヒモで結んだリュック3個を前に、連絡ノートに記入する参加者


今朝のリュックの様子を見ていると、リュックに入った連絡・記入ノートを探しやすかったようです。3個がバラバラになっていると、その日だけの参加者は、どのリュックにノートがあるのか、探しにくいからです(どのリュックにノートがあるのか、聞かれることもありました)。


松浦宣孝さんが持っていた「宮崎⇒長崎コース」のリレー横断幕は、7月24日に福岡市西区の周船寺駅で、福岡県の網の目コース「202号線コース」に引継いでいました。


その後、25、26日に前原市の行進に使われ、26日の昼に鹿家駅で福岡県から佐賀県へ引継ぎしたそうです。


そして、佐賀県の唐津市、玄海町を行進し、今朝、有田町東庁舎での出発集会に届けられました。


福岡県と佐賀県の間には、もう1つ県境の引継ぎがあることを知りました。


今日の佐賀県から長崎県への引継ぎ式は、長崎県に入った佐世保市の三川内で開かれました。参加者総勢100人が見守るなか、3コースのリレー横断幕と各団体のリレー旗が引き継がれました。


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▲佐賀県から長崎県への引継ぎ式で挨拶する長崎県実行委員会代表


休む間もなく、自分の荷物の積み替え、世話になった方々にお礼を述べ、長崎県の行進がはじまりました。一番気をつかうのは、忘れ物がないかです。自分の荷物の他に、託された折り鶴、歩いてきた県で託されたペナント、貸し出したカセットテープ、などもあるからです。

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▲3コースの「リレー横断幕」を持って行進=長崎県佐世保市


以上、無事に引継ぎ、よかったです。通し行進者のみんなが、長崎県まで来たことに感謝し、「最後のがんばりだ」と、決意を新たにしました。


今日の佐賀県側の行進距離は、参加者30人前後で6.5km歩きました。


佐賀県の行進距離総計は、93kmです。


長崎県側の行進距離は、区間により参加者60~80人で6km歩きました。


沿道募金は、2000円いただきました。

松本英治日記No.87

平和行進88日目。曇天。


夜来の雨も上がり、行進日和。JR仁方駅に9時過ぎ到着、反合の皆さんは雨の中テントをたたんで下山。大変だったようです。駅前で朝食中!昨夜はご馳走様!


姫路から、トムソンの浜崎氏登場、「君の道」の作詞者、本日明日と休みを利用しての応援です、ありがたい!6時に姫路を出たと!


9時40分出発集会、通し行進者挨拶は、浅野さんと、中平君!


10時出発、呉市内を目指し一路西へ、太鼓を叩き、コールでアピールしながら元気に!


沿道に折り鶴の用紙と署名が、募金と署名を持って待ってくださいます。


広島県入りし、他県とは反応が違います。


広支所で昼食休憩、広島県と、地元の実行委の皆さんとお弁当を食べながら、懇談!


中平君が、若者の参加が少なく危惧、世界大会は、多いのだが、行進参加が少なく、中心メンバーが70代、何処もそうです、参加しやすいムード創りも必要か?宣伝不足も?


昼からの出発時、日本山妙法寺の行進団が、拍手で出迎え、エールを送りました。途中向こうの休憩時、拍手のエールをいただきました。


すぐ後を呉に向かって行進、コールや歌で楽しく、中平君積極的に、コールや歌を歌います、私も行進版を歌いました。


呉に入る峠の麓の小学校で休憩、スイカをいただく、甘くておいしかった~!


シュプレヒコールを繰り返し一気に峠を越えて、呉市内へ、市内を元気に行進、市役所に3時過ぎ到着、集結集会、呉のうたごえサークルが練習の途中で応援に、高田龍治さんが指導、がっちり握手!「君の道」の作詞者紹介。高田さん編曲を。4日に広島音楽センターで慰労会が!突田さんもギター抱えて出迎え!ありがたいことです!


宿で風呂に入り、洗濯。5時から地元実行委の歓迎会が、駅前の食堂で、食事とお酒をいただき、交流しました、詳しい自己紹介も、七条さん非核の呉港を求める会の常任世話人の名刺も!


ジョン・ヨン・シン、ソウル大教授も参加され、名刺を交換。3・1韓国独立運動の話を!


今夜は呉の花火大会で、宿でゆっくり見ました。

2010年5月

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