佐賀県庁から行進。今日は、全医労の担当。圧倒的に女性が多い。みんな手ごろなタンバリンを持ち、いっせいにたたいて、歩き、手をふり、「へいわこうしーんでーす」と声がひびきます。私は顔負けの気持ちでした。
佐賀県庁、課長より、64年目の長崎被爆です。平和行進をお迎えできることは喜びです。みなさんの核兵器のない世界をめざして行動されていることに敬意を表します。核兵器をもつアメリカや開発をしようとする北朝鮮など、廃絶への道のりは長いですが、全国民の悲願です。私たちも同じ思いです。平和行進の成功を祈っています。
通し行進者の竹田さんは、父を戦争で亡くし、戦争はいやだと大きくなりました。原爆をなくせの私たちの平和行進がオバマへ伝わった。世界から核兵器廃絶の見通しが明るくなった。と、あいさつ。
私の母を思い出します。尼僧さまのように、腰がまがり、小さな人でした。おじいちゃんが火葬場の仕事をしていました。母は、一人っ子で父は、養子でした。
私は、おんぼやきの6女でした。我が家にはいつも現金がなく、質屋さんにも行く、学級費がもっていけない貧乏でした。父や母にひどい言葉を浴びせました。
父は、轢き逃げされ、母は、養護老人ホームで呆けて、娘の私も識別できず亡くなりました。尼僧さまの姿を見て、昔の自分を詫びたい、できるならばと思います。平和行進に参加した動機は、ここにあると思います。
▲森林公園の入口にある「俊寛の碑」です。引き取り手がなかった俊寛の死を悼み、建てられました。歴史を知らない私は、学習せねばと思います。
今日は、よく歩けました。このTシャツは、佐賀医療生協の人々。いいなと思い、声をかけました。
15時45分 江北町役場に到着しました。副町長からあいさつ。行進たいへんご苦労さまです。この間、世界の恒久平和を願ってきましたが、今なお原子爆弾の新たな開発をしょうとする国もあります。わが国は、唯一の被爆国、平和で明るい世界をめざす責任があります。地道な活動が力となります。
今日の参加者は58人、歩行距離は、17.5kmです。セミの声、飛びかう赤とんぼに気づかいながら歩きました。