9時15分、武雄市役所を出発。すぐに国道35号線に出る。距離表示が0キロから始まっていることに気付き尋ねると35号線はこの武雄から佐世保に伸びているとか。
直線で緩やかな上りの単調だったのが上りを意識するようになり、さらにカーブを曲がるたびにその先に峠の頂上を期待するようになってくる。
カーブを曲がったときコンクリートの構造物が・・・・トンネルを期待したが、鉄道佐世保線のガードだった。1.5kmはあったのかやっと頂上に、しかし下りではなく平坦な道路が続いていた。
永尾駅で休憩に、駅の広場にお墓?ではなく、地元の人がお金を出し合って作った駅で、その記念碑だった。
山内庁舎で昼食休憩、ご好意で畳の部屋と冷茶が用意されている。30分予定より早く着いていたので12時半に出発とは発表されたが、午後参加の人が1時に来るかも、ということで1時間半の休憩に変更され、今日もお昼寝タイム。(なぜ眠いか?夜はアルコールと疲れでバタンキュー、夜中や早朝にこの報告書で四苦八苦)
午後最初の休憩所は「寺の下」とのアナウンス、現地に着くと真言宗大覚寺派●地院(●部分は読み方が解らず、また部首入力の機能無しで変換できないが、上にのぎへん、下に心)の駐車場、日陰を求め境内に行くと階段脇に「奉植七十歳記念」の塔。どうやら古希の祝いに同級生で檜の植樹をしたらしい、村にとけ込んだ寺のようです。出発直後に駐車場の横の建物の表札形看板を見ると「寺の下公民館」固有名詞でした。
有田町との境に泉山にある峠で休憩、地理のわからない我々にとって目的地と同じ名前が出てくるといよいよゴールが近いと嬉しくなるものです。
途中幾度か、有田焼●●窯の看板見てきましたが、今度は本物の町内に入るのです。程なく両側に有田焼のお店が並んできます。陶器市にはこのあたりまで出店が並び80万人の人出になるとか。
陶器の町らしくいろいろの看板もバス停の案内図も陶器でできています。
有田町東庁舎に着いての終結集会、予定より早く着いたためか挨拶予定の町幹部は不在、我々だけで始め、終わるころに副町長が到着、別の庁舎に居たようです。このあたりの自治体では合併前の役場を部所単位で利用しているところが多いようです。
武雄のホテルに帰る道中、有田焼の陶石採石場を案内していただく。
▲後方と李三平の碑
1616年、鍋島直茂が朝鮮半島から連れてきた陶工集団の長であった李三平によって有田の泉山で白磁鉱が発見され焼成されました。この採石場跡で観光している集団、言葉が違うなと思い聞いてみると韓国から、この集団とは武雄温泉で奇遇の再開、ブサンの大学生でした。なかには福岡に4回来ているとか、九州・韓国は近い。