6月6日
<瀬戸市役所・尾張旭市役所表敬と、カンパ隊>
瀬戸市役所へ表敬訪問、瀬戸市在住の田中さんと県内行進(河原さん)元瀬戸市職委員長さんその他の方と一緒に瀬戸市役所へ行きました。秘書室長補佐と職員の二人が対応され、市長メッセージは市庁舎前の河原に集まった行進団の前で代読。河原では新婦人の仲間による和太鼓の出迎え演奏があったのに、私はそれを聞けず残念!!悔しい!。
天候が回復して気温がグングン上がる。これから夏になればもっともっと暑くなるだろう事を肝に命じておく。
尾張旭市民会館へ到着、昼食の弁当が中々喉を通らないところに、県内行進の岩田さんが野菜料理を家で作って持ってきてくださり、たっぷりと美味しくいただく。有難う・ご馳走様!!。
昼食後の出発集会で、平和行進に1回目から50回目まで歩いてみえる地元の大島良満さん(72才)から聞いた話。ーーーーーー
1回目の西本あつしさんが広島から東京へ歩かれたときのこと、1958年7月19日名古屋市内に平和行進が到着したときは、市助役(杉戸清)をはじめプラカード・幟を手にした民主団体代表500人が歓迎した。広小路通りを行進していくと、ビルから紙ふぶきで歓迎され、午後4時からTV塔下で愛知原水協主催の「核武装阻止民主主義擁護愛知県大会」が3000人の参加で開催されて、「愛知県を核非武装地帯にする宣言」が決議されたという。大島良満さん自身も、この集団行進について歩いたという。
瀬戸旭地区を通る平和行進の第1回は1959年7月1日 深川神社に於いて、瀬戸労評、商工会議所、市婦連、市青協、連合自治会、瀬戸市議会の6団体により歓迎実行委員会が結成された。行進団長は大木行治(日本妙法寺)さんだった。との事でした。
大島良満さんとは守山区への表敬訪問にもご一緒で、平和行進の事を色々聞かせてもらいました。
<カンパ隊と守山区役所表敬訪問>
午後は生協から来た若い娘さんと二人で署名・カンパ隊をする。私は愛知県で31歳の青年とカンパ隊の経験があり、今度は2回目。
平和行進が通る道にそって一本奥の道を軒並み訪れた。留守が多かったけれど、在宅された家ではほとんどすみやか署名を書いて貰った。行進団が通った後の沿道で、ある電器屋さんへ入ると店主らしき人が署名し、こわごわ差し出したカンパ袋に重いお金を入れて下さる。
カンパ隊が行進団と離れてしまい事務局に電話すると、迎えの車がきてくれて大森東島公園に連れていってくれて行進団に合流できた。
右足の指が痛み出したので、事務局と相談し、守山区役所表敬訪問団に参加するように言われ、福野さんの車で区役所へ案内していただく。 区長さん宛ての手紙を渡す場で、、応対していただいた区長代理総務課長・島さんが「個人としてペナント購入とカンパします」という申し出をいただき、要請文に記載のペナントとカンパ袋を添えていないのがわかり、急いで行進団を探しまわる。
行進団の代表が守山基地の陸上自衛隊第10師団長宛の要請文を、正面前で読み上げている所に出会い、要請行動に参加しつつ行進団の到着を待つ。暫くして行進団が門前に到着、ペナントとカンパ袋を手にして福野さんの車で守山区役所へ戻り、島課長にペナントに記名していただきカンパをいただいて丁重にお礼をする。
又々急いで終結集会が行われる守山生涯学習センターへ滑りこみ、行進団の仲間のたちへ結果報告をして今日の日程は終了。この顛末で足の痛みを忘れていた。
写真は守山基地正面で要望書を読んでいるところ。
要望書は、平和行進の趣旨とイラクでの憲法違反と指摘された自衛隊の空輸活動などを述べ、唯一の被爆国である日本の国が「核兵器廃絶と平和のために」国際社会において、積極的な役割を果たすことを求め、自衛隊のみなさんが再び戦闘地域に派遣されることのないように願い、以下のことを要望するというものです。
○米軍との共同訓練は行わないこと
○「徒歩行進訓練」など、演習場外の一切の訓練をやめること
○憲法違反の師団長「着任の辞」を撤回すること