<平和行進マラソン行脚 無事終了>
今日は、原水爆禁止世界大会・広島3日目の閉会総会です。
<平和行進マラソン行脚 無事終了>
今日は、原水爆禁止世界大会・広島3日目の閉会総会です。
<平和行進へ託された折り鶴を平和公園に捧げる>
今日は、原水爆禁止世界大会・広島2日目の分科会です。
<無事のゴールを喜び合う>
今日は、広島市南区の宇品から、広島平和記念公園までの行進です。
第91日 18170歩
府中町原爆慰霊碑に花束を捧げる
早めにスタート地点の府中町原爆慰霊碑に集合。何より先に、昨夜K夫妻からプレゼントされた花束を慰霊碑に捧げる。大勢の方達の励ましで広島への行進が完結するのだから、花束は私個人ではなく、この地に眠ってみえる方へ捧げることが、1番よい生かし方だと考えて。
<海田町長さんから折鶴のレイを頂く>
今日は、坂町、広島市、海田町、府中町の行進です。
第90日 22177歩
靴は何足履きつぶしました?
今日を入れて残り2日。私の歩きを支えたのは靴。歩く事は今靴の時代。子どもの頃は藁草履、下駄。小学生で運動靴、革靴を履いたのは自分で働いた高校生?足を鍛える為に歩き出して靴の大事さが分かったのは20年位前だろうか。
<全国唯一"かき氷の接待"呉民商青年部>
今日は、呉市の行進と安芸実行委員会への引き継ぎです。
第89日 晴 23032歩
行進仲間が4 人揃った
森 悦子さんが今日から広島コースに参加。礼文島から出発し、北海道、本州太平洋側を80日歩いて来た彼女は東京の医療生協の仲間。2008年の全国行進は女性が二人。出発前から電話連絡はしていたが顔を会わすのは今日が初めて。
第88日 晴 23606歩
もう8月?
平和行進の90日間が長いか短いかと言えば、一年の四分の一、旅をしていた期間とすれば、私にとって人生で一番長い旅だといえる。途中、自宅で2泊することもあったが、心は「行進」で充ちていた。しかし平和行進の毎日はドラマチックで、わくわく・どきどき、もう終わりなのと思う事が多かった。宣伝カーが「東京を5月6日出発して・・88日・・」と平和行進を呼びかけるアナウンスを聞くと、もう今日は8月・・・エー ホントに?。確かに日々見上げる空も雲も降り注ぐ太陽の光もまさに真夏!、そうだ夏も真中を過ぎ始めてるな!と思ったりして自分で納得。
第87日 晴 19272歩
呉港に沢山の自衛隊艦船・横須賀に原子力空母
今日は東広島市役所スタート、車移動1回で午後3時過ぎ呉市との境・市飯田町に到着。11km歩いた。
第86日 晴・雷雨・晴 11774歩
昨日の半日休養で疲れがでてきた?
今日のスタートは竹原市役所。私たちが到着したときは、うちわ太鼓を持った宗教者の団体が信者の人達と出発式をしていた。国民平和大行進はその後9時30分から3階会議室で、通し行進者の表敬訪問と出発式。市内行進して・バス移動、安芸津青果場周辺を町内行進して安芸津支所に到着・支所で昼食休憩。
第85日 晴れ 7537歩
広島の半日休息日!!
26日に岡山県から広島県入りして4日目の今日、疲れがピークになって来ている私には最高にありがたい半日休息日となった。7537歩で4kmと携帯が教えてくれた。
第84日 晴れ 25299歩
どうして歩くの? デェーレェー執念で
朝食時、宿の女将さんに尾道は本当に坂道が多いですねと話しかけたら、「海岸線のそこしか平らが無いところに道路と鉄道が敷いてあり、後ろは山ですからね」とのこと。国道2号線をひたすら西へ、広島めざして・・・まさに今日はそこしか平らがないところに作られた道を歩く行進だった。
【7月8日(火)】
午後と夕方の行動に重点を置くということで、午前中の行進はありませんでした。
【7月7日(月)】
午前10時前、養父市養父地域局で出発集会、参加者は15人程度でしたが、養父市長夫妻も来ていて挨拶されました。
【7月6日(日)】
午前10時前、高教組の人が車で来てくれました。名物"出店そば"のそば処「出石城」前で出発集会。豊岡市議会議員等より挨拶がありました。
【7月5日(土)】
午前9時前、宣伝カーで宿泊地(豊岡市の生野屋旅館)まで来てくれました。
【7月4日(金)】
午後からの行進となり、河柴峠を越えて兵庫県豊岡に入りました。
【7月3日(木)】
午前9時半、与謝野町加悦庁舎前集合。行進参加者は7人程度であったが、前後にパトカー2台、最後まで交通整理してくれました。
【7月2日(水)】
午前9時半、由良川沿いの「旧喫茶クロンボ」前の広場に集合。昨日からの舞鶴実行委員会より「宮津・与謝原水協」の平和行進実行委員会に引き継がれました。
【7月1日(火)】
京都府に引継ぐまでの福井県最後の行進日、その日の出発集会から参加できて良かったです。実数はよく把握できていませんが、35人を上回る参加者で若い人が多かったように思います。昨日参加できなかったが、元気に復帰できた私を紹介してくれ、広島まで歩きとおす決意を表明することができました。
6月27日(金)くもり
新潟県内の行進はついに雨が降りませんでした。
【6月27日(金)】
8:30「ベル西口」集合、出発集会(13人)後、2隊に分かれる。平和行進隊9人、自分は自治体訪問隊4人組の一人となりました。
6月26日(木)くもり
朝10時に柏崎市役所を訪問。午後は柏崎潮風公園から鯨波駅まで約5kmを行進。地震の爪痕が至る所で見られました。また、こわれた建物が撤去され、更地となっていたり、売地の看板が立てられていたりしたところの行進となりました。
【6月26日(木)】
午前8:30頃より、永平寺町役場前で行われた出発集会には副町長、議会議長、一般職員数人も参加。町長からのメッセージ、ペナント、募金をいただきました。
6月25日(水)晴れときどきくもり
朝9時、長岡市役所を訪問。同市が平和市長会議に加盟したという報告を聞きました。
【6月25日(水)】
午前9時より大野市役所前で出発集会。大野市代表挨拶のあと、行進団、各代表の決意表明、40余人で出発。沿道住民からの支持反応は良好です。
6月24日(火)くもりときどき雨
この地域は行進の計画が立てられず、広大な地域を終日約10人で車で走り、7自治体(魚沼市、南魚沼市、湯沢町、津南町、十日町市、川口町、小千谷市)を訪問しました。
【6月24日(火)】
8:40JR森田駅前で出発集会。当初は13人の参加であったが、福井大学で休憩し、再出発の時は大学から2人が参加してくれて15人となった。
6月23日(月)くもり
雨が降るかと思ったが、降らず、出発時は少し涼しい状態でした。
【6月23日(月)】
8時半JR芦原温泉駅前集会、9時よりあわら市役所前で出発集会。副市長、議長等も出席して挨拶。その後、雨の中であったが、50人近い人が元気に行進。
6月22日(日)くもり
新潟市のホテルを10時30分出発。信濃川の堤防から国道8号線を走ります。
【6月22日(日)】
石川県内の平和行進は今日が最終日。福井県に引継ぐ日でもあり、9時の出発集会までに加賀市役所前にすでに30人近い人が集まっていました。また、加賀市長からのメッセージも寄せられ、代理出席された課長が代読されました。
【6月20日(金)】
午前8時15分、ホテル前まで小松市の橋本議員が車で来てくれました。9時から小松市役所前で出発集会。参加者35人程度。小松市長より行進団へのメッセージがありました(市の代表は集会に来ていなかった)。
6月19日(木)くもり
自治体訪問(阿賀町、五泉市)。行進1カ所、1.5km。
阿賀町の訪問を終えて、教育委員会の資料館を見学。旧鹿瀬町に投下されたという模擬爆弾の原寸大の模型が展示されていました(長さ325cm、直径最大152.4cm)。また、投下された現場も視察してきましたが、説明を受けてようやくわかる程度でした。
【6月19日(木)】
午前8時半、交通会館で県内通し行進者2人、県原水協事務局長と4人で待ち合わせ、来るまで出発集会の場所である辰口図書館へ行きました。図書館前に9時過ぎに到着すると、すでに20~25人ほどの参加者が集まっていました。
6月18日(水)晴れ
自治体訪問(新発田市、阿賀野市)
行進は3カ所、7kmでした。
【6月18日(水)】
午前9時半、白山市役前で出発集会。白山市代表より歓迎挨拶。市長からのメッセージ、募金を受ける。白山市庁舎は広大な平野・農地を展望できる位置にあり、非常に美しい。
平和行進には白山市の職員3人が、休暇をとって参加してくれ、県内通し行進者、私を含め総勢7人であったが、素晴らしい展望の県道174号線を通り、川北町まで行進。
6月17日(火)晴れ
9:00村上市訪問。就任まもない大滝市長が応対。「核兵器は地球を破壊し人類を滅亡に追い込む」「後期高齢者医療制度は廃止すべき」ときっぱり。議長との面談も終えてから庁舎前で市長と議長がそろって行進参加者を前に激励のあいさつをしました。
【6月17日(火)】
午前9時半、有松貴船神社で出発集会。20人程度参加し、野々市町役場まで行進。
6月16日(月)晴れ
山形県最後の日。出発集会の司会は別の青年が担当しました。鶴岡地域は青年層が頑張っている感じを受けました。
【6月16日(月)】
午前8時45分、石川県労連事務所「交通会館」前に集合。車でJR森本駅前に移動、午前10時より出発集会。20~22人が参加し、森本駅より東金沢駅交差点まで行進(正午頃)して全員で署名行動。署名31筆、募金1000円。
6月15日(日)くもりのち晴れ
三川町役場前から鶴岡市役所前まで車の移動をふくめ、10.6mを約40人が行進。午前中は農村部が主でした。
【6月15日(日)】
午前8時半、石川県労連事務所「交通会館」前に集合。出発集会後、車で「卯辰山」に到着。この山は素晴らしいハイキングコースで、春夏秋冬訪れる人は絶えないと思います。頂上には「平和の子ら像」があり、「平和の子ら、忘れまい広島・長崎を ふたたびつくるまい被爆者を 核のない、平和の世界を 子どもらに」と刻まれた「原爆犠牲者追悼碑」で、題字は「石川県知事 谷本正憲」と記されていました。
6月14日(土)晴れときどき曇り
8:00すぎに酒田市のホテルを出発し庄内町に向かいました。庄内町役場前で集会や行進の準備を終えたところで大きな揺れを感じました。直後に「大地震発生」という町役場の屋外放送が流れ、ただ事ではないことがわかりました。
【6月14日(土)】
6月5日にスタートした富山の平和行進も最終日。午前9時30分、51名の参加者で小矢部市役所前を元気に出発しました。
【6月13日(金)】
午後、福岡町中央公民館で出発集会。参加者22人。最初から最後まで行進の先頭に立って、マイクを握り、集会の司会進行から宣伝カーのアナウンス嬢までこなした今年82歳になるという女性が、小矢部平和委員会の大田さんという人であることに驚きました。彼女は大阪の茨木市出身であることなど聞きました。私たちのコースの署名数90、募金9600円でした。今日の最終地点、小矢部市役所でいただいた署名数118筆でした。
6月12日(木)晴れ
自治体訪問(秋田県にかほ市、山形県遊佐町、酒田市)
【6月12日(木)】
午前9時半より氷見市民会館前で出発集会。氷見市議会事務局長が市長のメッセージを代読。出発前に署名・募金活動を行う。
6月11日(水)晴れ
自治体訪問(秋田市、秋田県、由利本荘市)
6月10日(火)晴れ
自治体訪問(潟上市、男鹿市、大潟村、八郎潟町、五城目町)
6月9日(月)晴れ
自治体訪問(能代市、八峰町、三種町、井川町)
【6月9日(月)】
平日なので、平和行進には高齢者、ご婦人が中心。高岡市役所前の出発集会には、高教組、全教、民医連、生協、新婦人、国公労連、全労働などの旗がひるがえりました。
6月8日(日)晴れときどき曇り
休息日ということなので、能代市原水協の方の案内で藤里町在住の切り絵作家・平野庄司氏(80歳)の自宅を訪問し、作品を見せてもらい、さらに道の駅に展示してある作品も見学してきました。
【6月8日(日)】
午前8時半より富山県庁前公園で出発集会。参加者はこの4日間で最高、120~130人が参加しました。
【6月7日(土)】
滑川市の出発集会から元気に出発。参加は30人前後。医療生協の人たちが中心のようです。
行進途上、全員で署名・募金行動に取組み、午前中の集約で150筆、19111円の募金が集まりました。
【6月6日(金)】
黒部市役所で出発集会。今朝のトップニュース、原爆認定訴訟でついに国を敗訴に追い込み、原爆症認定判決を勝ち取ったことを一番に取り上げ大きな拍手。
【6月5日(木)】
富山・朝日町役場前で出発集会を開催。50人の参加で元気に出発。途中、署名・募金活動にとりくみながら、入善町に到着。昼食の時、高齢な方(男性)が参加しておられたのでお年を尋ねると87歳とのこと。戦中は通信活動や暗号帳で苦労され、昭和22年に帰国してから北陸電力に入って労組・青年部活動に取り組んだことなど聞かせて頂いた。
5月23日(金)
4自治体を訪問(共和町、岩内町、泊村、神恵内村)
5月22日(木)晴れ
5自治体を訪問(仁木町、赤井川村、余市町、古平町、積丹町)
5月21日(水)晴れ
9:15 札幌のホテルを出て駅へ向かう。道原水協事務局長岩淵氏と一緒に小樽市へ。時間が早く着いたので、新婦人の和田さんの車で小林多喜二の石碑や小樽運河などを見てまわりました。
午後2時に市役所へ。秘書課のS氏がサミットへの要請文に代筆で市長名を記入。議会事務局と教育委員会では責任者が留守であることを理由に断るような態度だったのできちんと趣旨を伝えてほしいと強く要請してきました。
夕方6時には集会と行進。約80人が参加しました。
若い人も多数見られうれしい行進となりました。
5月20日(火)雨
北広島で役所訪問と平和行進の予定が、雨と強風のため行進は中止とし、自動車で市内をスピーカーで街宣。
10時からの市役所では、広島市とつながりが深いこともあって平和行事に積極的にとりくんでいる姿がよくわかりました。
庁舎の前面に「恒久平和は市民の願い、平和都市宣言のまち」の大きな垂れ幕が下がっていました。
5月19日(月)くもり
朝10時、北海道原爆訴訟の裁判を傍聴。判決が聞けるものと思っていた人も多くいたのに、やり直しのような形で終わってしまい残念です。
報告会を兼ねた記者会見での原告被爆者の発言は胸が熱くなりました。
午後、札幌市役所訪問。「平和事業担当係」が4月に新設され、独自に平和問題の仕事をしていることを聞き、驚きました。
5月18日(日)晴れ
午後から北海道原水協の総会に通し行進者の森さん、小川さんとともに出席し、あいさつ。会議を傍聴しました。
各地域代表、団体の活動ぶりはすばらしいもので、参考になりました。
5月17日(土)晴れ
朝からよく晴れて気分爽快。早朝5時30分石狩市の宿周辺を約1時間半散歩に出かける。
5月12日(月)
留萌市役所、増毛町役場、沼田町役場を訪問。
5月11日(日)晴れのちくもり
留萌市へ。ここで道内行進者の小川氏と引き継ぐ。
5月10日(土)晴れ
午前10時、旭川市内の行進開始。120人17団体でよく晴れた市内目抜き通りを元気にシュプレヒコールしながら沿道の人たちに訴えました。
集結集会後は「買物広場」で署名行動。約30分で73筆が集まりました。
5月9日(金)くもり
朝5時に起きて士別市内をウォーキング。外は寒く、気温が1.1℃。雪がちらついてきたのにはびっくり。
5月8日(木)晴れのちくもり
朝10時、名寄市役所を訪問。ここでは毎年「平和音楽大行進」をやっているとのことでした。
5月7日(水)晴れのちくもり
朝9時、稚内市役所へ我々5人は斉藤稚内市議と共に市長に会う。原爆写真展などできないかと打診したら、「資料があればやってもよい」と快諾してくれました。
今朝の礼文島は寒かったが、天気は夜中の雨もすっかり晴れて、スタートの日を祝うかのようでした。
通し行進者(私を含め3人)、北海道内行進者2人と北海道原水協の嶋田さんの計6人は4日夕方、礼文島に渡りました。
① 小田 正(おだ ただし、62歳・新発田社会進歩の会、新潟県原水協)
北海道→東京コース(日本海側・長野→群馬→埼玉→東京)
② 森 悦子(もり えつこ、60歳・東京ほくと医療生活協同組合、東京原水協)
北海道→東京コース(太平洋側)
時々足立の行進に参加していました。三多摩原水協の事務局を神尾さんがやっておられるのを知って、三多摩行進や山梨の最後の行進に参加しました.昨年は北区からと足立から上野まで参加しました。
労働組合の青年婦人部常任の頃、ひざかけを送ろうと取り組みました。広島には2回、まだ統一集会の時、そして生協の虹のひろばです。医療生協のくらしの活動委員会に属し、平和・くらし・憲法を守るたたかいを取り組んでいます。北足立生協診療所は開設5周年、待合室にパンフ(原爆)を置き、折り紙を置いて「折り鶴」のお願いをしています。母と子で折っている姿があります。3月退職を前にして、1月から鶴をつなげる「折り鶴の会」を発足。退職を機に、通し行進に参加したいと思います。「一歩でも二歩でも」と訴えることに共感しています。一緒に歩き続けることによって、全国の原爆被害者を励まし、自分もたくさん学びたい。
③ 渡邉 正郎(わたなべ まさお、60歳・東京原水協)
北海道→東京コース(日本海側・長野→山梨→東京)
毎年、東京・福生~立川間の平和行進に参加。
アメリカのイラク侵攻や核開発の拡大、国内においては自衛隊の軍事増強、さらに改憲策動など、ただならぬ情況と認識しています。子やまごになんとしても平和な社会を手渡したいという一念から、私自身何ができるのかと・・・、そして60歳定年退職を待って平和行進をしたいと以前から思っていました。行進中は「地球上から核兵器をなくそう」「平和を守ろう」「憲法改悪反対!9条を守ろう!」など、私なりに精一杯アピールしながら行進する決意です。
④ 米山幸子(よねやま さちこ、66歳・神奈川みなみ医療生協、神奈川県実行委員会)
東京→広島コース
2007年神奈川県内通し行進
平和への願いを身体を通して表現と考えている。いつか歩いてみたいと長年願いを温めてきたが、年齢的にも先が縮んで来たので実行し得ないままで終わりそうなので、50年という節目という事もあり実行を決めた。昨年県内を歩き、要領が分かってきた。
⑤ 志谷泰雄(したに やすお、67歳・島根県原水協)
東京→広島コース
2005年富山→広島コース、06、07年県内通し行進
平和行進で自治体、沿線の方々に平和を訴え、憲法9条を守り、被爆者救援を訴えていきます。
⑥ 浅田健司(あさだ けんじ、65歳・大阪平和委員会)
富山→広島コース
2002年和歌山→広島コース、03年東京・神奈川・大阪、04年静岡・愛知・大阪、05年岐阜・滋賀・京都・大阪、06年沖縄→広島コース、07年北海道→東京コース
通し行進に挑戦して今年で7年目。全コース貫徹めざし今年も頑張ります。
⑦ 竹田昭彦(たけだ あきひこ、67歳・平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会)
四国→広島コース
2001年北海道→東京コース(太平洋コース)、02年北海道→東京コース(内陸コース)、03年富山→広島コース、04年長崎→広島コース、05年沖縄→広島コース、06年宮崎→広島コース、07年東京→広島コース
私が3歳半のときに父が徴兵され、9ヵ月後に中国で戦死しました。私は父の面影を知りません。残された母と4人の姉弟は、住居を転々としながら食べ物がない悲惨な生活を強いられました。母は、「戦争さえなかったら」「お父さん生きていたら」と口癖のように言っていました。私は「戦争はいやだ」「悲惨な暮らしはいやだ」との思いを強く持って生きてきました。戦争をなくすには、核兵器の廃絶が根源だと思います。日本国民の粘り強い核兵器廃絶運動とともに、世界の平和運動の高まりに確信を持ち、核兵器も戦争もない平和な世界をめざして頑張ります。