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澤田先生の反核ゼミ

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第18回 核政策のルーツを探る(3)

グルーの早期対日戦争終結提案

 1945年5月8日ドイツが無条件降伏をすると、アメリカのトルーマン政権の中心課題はどのようにして対日戦争を終わらせるかに移りました。その年の2月に米英ソ首脳はヤルタで秘密協定を結び、その中でスターリンはドイツが降伏し、兵力を極東に移した後対日戦に参加する約束をしていました。トルーマン政権はソ連が東欧で支配権を拡大していることに懸念を深め、対日戦に参加することによってソ連がアジアでも勢力を伸ばすことを恐れていました。

 国務長官代理のジョセフ・グルーは、太平洋戦争が始まる直前までの10年間、駐日大使を務めて、日本人の考え方に精通していました。彼は、日本がソ連を仲立ちとして和平への道を探っているという情報を得ていました。もし日本が、ソ連参戦で和平の仲立ちを失って降伏することになれば、ソ連の日本占領への参加を拒めなくなると懸念していました。彼は5月28日、トルーマン大統領と会談して、ソ連がヤルタ協定に従って対日参戦する前に戦争を終結させたほうがアメリカに有利なので、直ちに対日警告を出すようにと進言しました。無条件降伏が天皇と天皇制の除去を必ずしも伴うのでなく、日本人自らが将来の政治形態を選択することを許されるであろうという何らかの示唆を与えれば、日本はすぐにでも降伏するだろうというのがグルーの判断でした。

原爆による戦争集結を優先

 トルーマンは、自分も同様の考えを持っているが陸軍長官、海軍長官、参謀総長らと検討するようにグルーに指示しました。さっそく、翌日、スチムソン陸軍長官の事務所で開かれた会議では、グルーの進言した内容の対日警告を出すことには賛成であるが、「タイミングの問題」として、今すぐ出すのではなく先延ばしにするという結論となり、これを大統領も了承しました。「タイミングの問題」とは、原爆の投下によって戦争を終結させることを基本方針としていたスチムソンらと、原爆開発計画の存在を知らされていなかったグルーの判断の違いを表しています。

 グルーの提案通り日本が早く降伏をして、原爆の開発が間に合わず、ソ連の目前で原爆を投下できなくなることをスチムソンらは避けたのでした。その結果、原爆の完成はソ連の対日参戦の予測された8月中旬をめざしていっそう急がされることになりました。

 7月に入ると、アメリカの有力な新聞やラジオの評論家の間では、グルーと同じように、降伏条件を明確にすべきだという論調が現れ始めました。アメリカ国民の多数は「無条件降伏」を支持していましたが、「無条件降伏」を補足する方式や、それに代わるものでも認める層が次第に増加していました。

ポツダム会談とトリニティ実験

 ベルリン郊外のポツダムで開く予定の米・英・ソ巨頭会談は、原爆開発の進展状況に合わせて、7月はじめから7月15日に延期されました。7月16日には爆縮式のプルトニウム原爆の「トリニティ実験」が予定されていました。ポツダム会談は17日から始まりましたが、その日の朝「トリニティ実験」が予想以上に成功したという知らせがスチムソンを通じてトルーマンに伝えられました。スターリンとはじめて会ったトルーマンは、その日の日記にスターリンの姿勢を「まるでダイナマイトだ」と評しながら、「でも、私もまだ爆発させていないが、あるダイナマイトを持っている。」と書いています。そしてスターリンから8月15日に対日戦に参戦すると聞かされて「そうなったらジャップス(日本)も終わりだ」と、ソ連の参戦によって日本が降伏するだろうという自らの判断を私的な日記に書きとめています。

 ところが、翌18日に「トリニティ」実験の続報を聞いたトルーマンは「ロシアが参戦する前に、ジャップスはつぶれると確信する。マンハッタン(原爆のこと)がジャップス本土の上に現れるとき、彼らはそうなるであろう。私はスターリンに適当なとき、それについて知らせることになるであろう」と日記に記しています。

 その日チャーチルは、前夜スターリンから聞いた、「天皇制の保持を条件にした和平提案に向けて日本の天皇が動いている」という情報をトルーマンに伝え、戦争を早く終わらせるために降伏条件の明確化を訴えました。
原爆を手にして豹変したトルーマン

 7月21日、「トリニティ実験」成功に関するグローブスの詳細な報告が届き、爆発によって発生したエネルギーは予想を越え、控えめに推定してもTNT火薬1万5千㌧から2万㌧に達すると知らされました。トルーマンは原爆の威力にますます自信を深めました。その翌日、チャーチルがスチムソンにグローブスの報告を見せられて、「昨日はトルーマンの態度を理解できなかったが、これで昨日トルーマンに何が起こったのかがわかった。報告を読んだ後で会談に臨んだトルーマンは、まったく別人のように変わっていた」と述べています。

原爆外交のスタート

 23日夜「8月1日以降ならば原爆の投下作戦はいつでも可能である」という電報がスチムソンに届き、スチムソンは翌朝トルーマンに報告しました。7月24日の会談が終わったとき、トルーマンは「われわれは異常な破壊力を持った新兵器を手にした」とさりげなくスターリンに告げました。スターリンは「それは結構。日本に対して有効に使うことを望む」と答えただけでした。実は、スターリンはスパイを通じて「トリニティ実験」のことは知っていました。スターリンは、さっそくモロトフ外相と1942年以来停止していた原爆開発の再開について話し合っています。

 オッペンハイマーはこの瞬間に世界がどれほど多くのものを失ったかを知って、「それは無頓着の行き過ぎだった」と結論しています。歴史学者シャーウインは「ボーアが回避させようとした核軍拡競争への道程は、ポツダムにおいて、いくつかの重要な一里塚を着実に通過した。アメリカの原爆にソ連が恐怖心を強めただけでなく、アメリカ側の政府首脳の間にわずか残っていた原子力国際管理への希望は、完全に消滅してしまった」と『破滅への道程』に書いています。

 戦後の平和な世界に向けて話し合う重要な機会であったポツダム会談は、トルーマンのさりげない原爆告知によって、逆に核兵器開発競争の引き金になってしまったのです。

原水協通信2003年9月号(第715号)掲載

  
 


 
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