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原水協(原水爆禁止日本協議会)
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澤田先生の反核ゼミ

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第20回 原爆投下(その1)なぜ広島・長崎に

原爆投下の人体実験はボーナス?

 被爆50周年の1995年、原水爆禁止世界大会に先立って、広島で2つの重要な会議が開かれました。

 その一つは、日本ではじめて、それも被爆地で開かれた「科学と世界の問題に関するパグウォッシュ会議」の年会でした。この会議には、アメリカの歴史学者で、戦争を早く終わらせるために原爆投下は不必要だったことを明らかにした論文「原爆投下再考」を書いたバートン・バーンシュタイン教授が参加しました。

 もう一つの会議は、「広島・長崎原爆被爆50周年国際シンポジウム」でした。この会議には、原爆投下の目的が、戦争終結ではなく、ソ連を押さえるためであったことを実証的に示して『破滅への道程?原爆投下と第二次世界大戦』を書いたアメリカの歴史学者マーチン・シャーウイン教授が参加しました。

 彼は「原爆使用の『配当』の一つは、アメリカがかつてない強力な兵器を独占していることをソ連に誇示する機会となること、もう一つの『配当』は、歴史上最大の資金をつぎ込んだ原爆開発が戦争に役立たなかったという議会の調査に先手を打つこと」だったと述べました。

 私は、バーンシュタイン教授とシャーウイン教授の二人の歴史学者それぞれに、「原爆投下には、もう一つ、原爆の威力を知るための実験という目的があったのではないか。」と尋ねましたが、二人とも最後まで「イエス」とは言いませんでした。シャーウイン教授は、何度も私が質問するので、「それはボーナスだった」と言いました。歴史学者としては、原爆投下の意味を国際政治の大きな流れの中で捉えかったのかも知れません。

原爆投下目標選定委員会

 1945年の5月には、マンハッタン計画に参加した科学者と兵器の専門家が集まって数回の原爆投下目標選定委員会を開いて、①直径3マイル(約4㌔㍍)以上の大きな都市にある軍事目標、②爆風によって効果的に被害を与えられること、③8月まで通常爆撃されずに残されそうであることの3つを基準として、原爆の投下目標を選ぶことにしました。

 ①は、原爆の破壊範囲より小さい面積の都市では、原爆がどこまで破壊できるかわからないからです。

 ②は、原爆の爆風によって、もっとも効果的に破壊できるように、原爆の爆発高度を選ぶ問題です。原爆の爆発力が大きければ爆発高度を高くして広い範囲を破壊できますが、あまり爆発力が大きくないのに高度を上げすぎると、爆発点の真下の爆心地でも破壊できなくなります。爆発高度が低いと爆心地付近に破壊が集中して、破壊面積は小さくなります。広島原爆の爆発高度約600㍍や長崎原爆の爆発高度約500㍍はこうして決められました。

 ③は、当時すでに東京、名古屋、大阪などの大都市は空襲で焼け野原になっており、焼け野原では原爆の破壊効果はわかりません。最終的に、目標選定委員会は京都、広島、小倉、新潟の4都市を選びました。目標リストに入った都市の通常爆撃は禁止されました。  

 広島の中学生だった私は、原爆が投下される前、広島市の上空を通過したアメリカの爆撃機が、すぐ隣の呉市や岩国市を連日のように空襲するのに、広島市がいつまでも爆撃されないのを不思議に思っていました。

目標都市の中心に投下

 委員会の当初の議論では、投下目標はこれらの都市の軍事的に重要な施設や工場でしたが、目標都市を完全に破壊するために、都市の中心上空で原爆を爆発させることを決めました。この段階で投下目標の選択が、明確に軍事的な性格から実験的な性格の大量殺戮へと変化したことになります。

京都の代わりに長崎

 投下目標選定委員会の結論をふまえて、マンハッタン計画の責任者であったグローブスは、原爆投下の作戦計画を立てて統合参謀本部議長のマーシャル将軍に提出しようとしました。それを知った原爆政策担当のスチムソン陸軍長官は、日本の古都であり、日本人にとって宗教的な重要性を持つ心の故郷である京都を原爆で破壊すれば、「アメリカに対する深い憎悪を日本人に植え付け、戦後、長期間にわたって日本をソ連に対してより、むしろ我々の側に同調させることを不可能にする」と、京都を目標から外させ、代わりに長崎が加わりました。

 8月2日に出された原爆投下作戦命令書には、攻撃日「8月6日」、攻撃目標「広島市中心部と工業地域」、予備第2目標「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備第3目標「長崎市中心部」、特別指令「目視投下のみ」、投下高度「8000㍍~9000㍍」と書かれています。目視投下を命じたのは、原爆投下の記録の確保という実験的側面を示しています。

エノラ・ゲイの飛行経路


 1945年8月6日、第509混成航空群のB29「エノラ・ゲイ」はテニアン島を離陸、約9500㍍の高度で東北東から広島に接近して、8時15分広島市の中心にあるT字形の相生橋に照準を合わせてウラン爆弾を投下しました。「エノラ・ゲイ」は北に急旋回した後、テニアンに帰りました。

 3日後の9日、同じ航空群のB29「ボックス・カー」がテニアン島を出発し、第1目標の小倉上空に達しましたが、小倉上空は曇って目視投下ができないので、第2目標の長崎に向かいました。長崎も曇っていたので、命令に反してレーダー爆撃をしようとしたその瞬間、雲間から目標より2~3㌔㍍北の競技場が目視され、急きょ9500㍍の高度からプルトニウム原爆を投下しました。「ボックス・カー」はテニアンまでの燃料がなくなっていたので沖縄に着陸し、給油後テニアン島に帰りました。

「原水協通信」2003年11月号(第717号)掲載

  

 


 
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