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被爆70年ヒバクシャヨーロッパ遊説―被爆証言:横山照子さん

長崎被爆の証言

長崎原爆被災者協議会・理事

横山 照子

 長崎から参りました横山照子です。

 ヘントの皆さまに、原爆のお話をする機会を与えていただき、感謝申し上げます。

 

 194586日広島に続き、9日長崎に2発目の原爆がアメリカの飛行機から投下されました。たった一発の原子爆弾は想像を絶する熱線、爆風、放射能によって75,000人の生命を一瞬にして奪いました。鉄をも溶かす4000度の熱線と爆風は、人々を吹き飛ばし一瞬にして炭にしました。住んでいた家、働いていた工場、学校、病院などの建物や木々をなぎ倒し、焼き払いました。長崎は廃墟になってしまいました。かろうじて生き延びた被爆者は、火傷や怪我、放射能による病気と不安で苦しみ、70年経った現在も被爆者を苦しめ続けています。

 

私と家族の被爆のお話をさせていただきます。

7月末には空襲が激しくなり、私と姉二人は祖父母に連れられて、田舎に疎開しました。私は4才になったばかりでした。自宅には両親と1才4ヶ月の妹が残りました。

 そして、まもなく原爆が落とされたのです。

父は兵器工場として使っていた学校で被爆しました。爆心地から1.2㎞の地点でした。建物の中にいた父は、運動場を越して崖の下へ、吹き飛ばされ、たたきつけられました。

母は爆心地から4㎞の自宅で、B29の来襲を知り、庭で裸になって遊んでいる妹に、服を着せようとして用意している時でした。部屋の中から「リッちゃん」と呼んだとたん、目のくらむような閃光を感じ、とっさに母は妹のうえへ、自分の身体をかぶせました。あたり一面真っ暗になり、金砂のようなものが降ってきたそうです。家の中をみるとタンスの引き出しは全部飛び出し、畳は浮いてしまい、窓ガラスは粉々になって壁などに突き刺さっていました。

夜になっても、翌日になっても、父は帰ってきません。母は捜しに行きたくても、空襲は繰り返されており、子ども連れでは到底無理なので、ようやく3日目に、近所の人にお願いして、一緒に行ってもらいました。でも、まだ、電柱など赤い火を吹いており、非常に危険で、父がいる所までは寄りつけませんでした。

4日目の夕方、重傷の父が会社の防空壕へ、運ばれているという連絡を受けました。生きてさえいてくれたらと、母は妹をおんぶし飛んで行きました。すると、父の眼は両方とも紫色に腫れあがり、顔からは血が吹き出ており、身体全体が焼け太って、洋服には血のりがべっとりとくっついており、この世の人とは到底思えない有り様でした。

そのまま15日の終戦まで、母と妹は、父の側で過ごしました。壕の中は上からポタポタしずくが落ち、下は、ただむしろを敷いたままで、そのむしろの下は、同じ被爆者の吐しゃ物や汚物やうじ虫でグチャグチャし、それはむしろの上までしみ通り、とても妹を下に寝かせることはできませんでした。

父は吹き飛ばされた時に何かが眼に突き刺さって、右眼の失明だけで命は助かりました。

 

妹は、9月に入ってリンパ腺が腫れ、切開しましたが、だんだん声が嗄れて、ゼイゼイ、ヒイヒイと苦しみを訴え、夜は父や母を眠らせない有り様でした。とうとう5歳の時長崎大学病院で声帯の手術をしました。

妹の入院中の病室では子供たちが、次々と白血病で亡くなっていきました。屋上から飛び降りて、自ら生命を失くした娘さんもいました。

それ以降、妹の声はかすれ声しか出なくなりました。それからの妹は、入退院の繰り返しで、学校も三年遅れて中学校に入学しました。しかも、1年生の一学期しか登校できず、44才で亡くなるまで病院生活が続きました。亡くなる前は両眼とも失明し、暗闇の中にいる妹から「わたし何重苦?何の罰を受けているの?」と問われ何も言えませんでした。 Top 100 Bhojpuri mp3 tracks i downloaded from this web-site .

母はたびたび「夕べ、リッちゃんの声が出た夢を見たよ」と言い、私たち姉妹は「どんな声だった?」と聞いたものでした。

妹は、みんなと海や山へ行き、失われた自分の本当の声で、思いっきり大きく「オーイ」と叫びたい、歌を歌いたいと願ったことでしょう。

戦争さえなかったら、原爆さえ落とされなかったら、妹の人生は素晴らしい道があったはずです。私は妹のことを思い出すと切なくて、悔しくて、戦争・原爆への怒りがこみ上げてきます。

 

 私は原爆投下後すぐに、疎開先から祖母に連れられて、長崎に戻りました。あたり一面焼け野が原で、身体中に何とも言えない恐怖が押し寄せ、「死の町」に立ち入ったようでした。それ以降、私は極度の貧血症に苦しんできました。

 

 被爆3年後に生まれた末妹に、小学校入学の頃、紫斑病が襲いました。被爆直後、被爆者の身体に、紫色の斑点が現れては死んでいった人が多くいました。その恐怖の紫斑が、小さな妹の身体に発症したのです。幸いに妹の生命は助かりましたが、被爆後生まれた妹にまで、原爆の爪あとは押し寄せてきたのです。

 わが家では、いつも誰かが入院していました。いつも母が看病していました。

その母は、197264歳で胃ガンで亡くなりました。3年後に父が肺がんで亡くなりました。父は甲状腺でとても苦しみました。

 

 そして、疎開先からいち早く長崎に帰った上の姉が、2年前白血病になり、今闘病生活を送っています。下の姉は皮膚癌に始まりいろんな癌にかかり、昨年胆管癌で亡くなりました。

 

 原爆さえ落とされなかったら、私の家族は、健康で楽しく暮らせたと思います。

 毎日が原爆の病気と不安がつきまとっていました。

 

 原爆はあの日ばかりでなく、その後も、そして今も、これからも被爆者を苦しめ続けます。核兵器は人道に反する兵器です。

アメリカ、ロシアなど核保有国は、核兵器を16,000発持っているといわれています。その威力は広島・長崎の数10倍、数100倍あります。地球は全滅します。

未来のある子供たちに、青い地球を残しましょう。

 この地球上に、核兵器は一発たりともいりません。

 ベルギーの皆さまと、核兵器のない平和の輪を作りたいと願います。

 ありがとうございました。



 
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