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被爆者との連帯【広島・長崎】

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被爆70年ヒバクシャヨーロッパ遊説団―被爆証言:山田玲子さん「私の被爆体験とメッセージ」

私の被爆体験とメッセージ

山田玲子

東京被団協(東友会)副会長

 

 

19458月6日、広島に世界で初めての核兵器、原爆が投下されたとき、私は小学校の5年生11歳でした。

 真夏の太陽が照りつける朝、私は学校の運動場にいました。突然「B29だ!」と叫ぶ男の子の声で空を見上げました。

 真っ青な空高く銀色に光ったB29が白い飛行機雲の弧を描いて飛んでいました。「きれいだな」と思った途端に、一瞬白い光が走り何も見えなくなりました。

 そして、防空壕に走っていく私の背中に熱い砂が吹き付けてきて転がりました。友達皆と防空壕に着くと近所の人たちで一杯になっていて入ることが出来ず、突然降ってきた雨でびしょ濡れになりました-後で言われた黒い雨です-。濡れた体は寒くてガタガタと震えました。

 空にはもう太陽が消えて、灰色の雲が垂れ込めていました。

 爆心地から2.5kmの私の町は焼けませんでしたので、中心から逃げてきた人間とは思えない姿のケガやヤケドをした人たちで、道という道は一杯になり、歩くことも出来ない程でした。

 

 私の父は、1km地点の校舎内で被爆し建物の下から助け出され、体中ガラスの破片を浴びて 血みどろになって帰ってきました。

 その後、父の体からは、何年経ってもガラスの破片が傷跡のない所の皮膚を破って出てきて、その度に気を失いました。

そして、20年後に肺ガンと白血病を併発し、輸血と私の骨髄液を用いる治療をしましたが、痙攣をくり返しながら亡くなりました。

 一番上の姉は、1.5km地点の広島駅のホームで被爆し、首から背中に火傷をして、2日目の夕方に帰ってきましたが、薬は何もなく、母が胡瓜の薄切りを並べて冷やしました。上半身裸で横にもなれず痛い痛いと泣くばかりでした。

 13歳の姉は、その日病気で学校を休みましたので、命拾いをしました。学校から動員されて市の中心部に行っていた学校の友達は全員亡くなられました。

 近所のほとんどの家庭に、その日から帰ってこない人、ケガやヤケドで帰ってきた人などの犠牲者がいました。

 いつも遊んでいた友達の家では、子どもたち5人がお母さんの帰りを待っていました。2日目に真っ黒い塊が四つん這いで飛び込んできたので、一瞬子どもたちは黒い犬だと思ったそうですが、それがお母さんだったのです。家に着くなり倒れて亡くなり、子どもたちだけが後に遺されました。

 また、その隣の13歳の娘さんが帰ってこないので、毎日お母さんがお弁当を持って、1カ月も2カ月も町中を廻りましたが、とうとう見つけることが出来ませんでした。

 

 私の小学校では、3日目から町中の道にあふれていた死体を集めて運動場で焼く作業が行われ、街に黒い煙と臭いが立ち込めました。

 記録によれば、約2,300体が焼かれたそうですが、一人として名前を確かめられることもなく、この人たちは行方不明者として片付けられたのです。

 815日に敗戦を迎え、相変わらず食糧難が続きました。次の年の春、私の小学校では薩摩芋の苗を運動場に植えました。そして、その収穫の日に土を掘るたびにお芋と共に骨がでてきて、あちこちで悲鳴が上がりました。昼食に出たそのお芋を、私たちは誰も食べることができませんでした。

 194586日広島に9日に長崎に投下された原爆によって、両市合わせて60万人に及ぶ人が、熱線、爆風、放射線によって被爆しました

 その年の内に亡くなったと言われる広島14万人、長崎7万人の内の42%の人々は名前すら確認できないので、身元の分らない行方不明者とされています。

 あの日を生き残った私たち被爆者は、助けを求めてきた無惨な人々の姿や声が忘れられず、心の苦しみとなって残っています。また被爆したことで差別を受け、結婚や子供を産むことを諦めた人もいます。

 そして今もなお、放射能の影響と思われる病に苦しんでいる人もいます。

 

 原爆はたった一発で街を死の町として破壊し、大量無差別に人の命を奪い、未来の命までも奪う非人道的な兵器です。

 私たち被爆者は「悪魔の兵器」とよんでいます。

    決して繰り返されてはならない原爆の被害

    決して忘れてはならない死者の苦しみと嘆き

    決して存在させてはならない核兵器

 

私たちは、世界の人々に訴え続けます。

 

                                  (以上)



 
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