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被爆者との連帯【広島・長崎】

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被爆70年ヒバクシャヨーロッパ遊説団―被爆証言:木村邦子さん「被爆者の訴え」

木村邦子

千葉市(広島被爆)

 

幼かった私は原爆について多くの記憶はありません。また、母も「あれは生き地獄じゃった」と多くを語ろうとはしませんでした。僅かな記憶と母や兄から聞いたことをお話します。

 

私は5歳の時、爆心地から1.7㌔離れた広島市の自宅で被爆しました。午前815分少し前、母から用事を頼まれ外に出ようとした時、飛行機の音が聞こえてきました。外に飛び出すのを踏みとどまった途端、ものすごい光線と爆発音がし、辺りは真っ暗くなりました。と同時に兄が私の上に覆いかぶさってきました。暫くして起き上がると家は傾き、土壁は落ち、家中散乱状態でした。母は我が家に爆弾が落ちたと思い子供たちを連れて外に出たところ、通りは火傷や怪我をして人相も性別のはっきり判らない人たちがただ無言で右往左往しておりました。我が家では母が飛んできた瓦で頭に怪我をしたのみで子供たちは無傷でした。

避難所をめざし逃げまどう途中、全身火傷をおった女学生に「暑い暑い、水を下さい」と声をかけられました。「水を飲むと死ぬから我慢してね」と母が言うと「私のお母さんなら飲ましてくれるのに」と呟きました。女学生のことが気になるので、暫くして戻ってみると、もうその人は死んでいました。母は「飲ませてあげればよかった」と涙を流しました。

私は6日、7日と行き場を求めて市内をさまよい歩く間中、激しい嘔吐を繰り返し真っ黄色の胃液を吐き、また耐えがたい恐怖から泣き続けていたそうです。

 家は焼け落ち、翌7日、倒れた建物の焼け残りや瓦など障害物でいっぱいの道の迂回を繰り返し、沢山の死体が散乱する道を歩いて、広島の北部にある親戚のもとに1日がかりで避難しました。避難後、私達子供は高熱と下痢に苦しみましたが、奇跡的に原爆から生き残ることができました。

父の友人の私と同年の娘さんは崩壊した家の下敷きとなり、「お父さん、これからは良い子になります、悪いことは決してしません、ここから出して下さい」と泣き叫びながら火の中に消えました。いつも朝早く空地で一緒に遊んでいた友達も熱と爆風の中で死にました。大勢の子どもたちがキノコ雲の下で命を無くしました。短い命でした。

 

私は生き残れましたが、「あの日」味わった恐怖は心深く留まり何年も悪夢となって私を苦しめました。「いつもの爆弾とはちがう」と思っていたけどピカドン=放射能ということなど全然知らない母は、親戚、友人、知人の消息を求めて連日広島市内に通いました。これが後日母を苦しめた重度の骨粗鬆症の原因となったのでしょう。背骨が次々と潰れ、晩年は「痛い、痛い」とほとんど寝たきりの生活となりました。体調が戻り、母と一緒に市内に通った兄も晩年は心筋梗塞、腎臓機能の低下で13回の透析、重度の骨粗鬆症と苦しみの連続の末、人生を終えました。「放射能が原因」と知識のない私には言えませんが、もし「ピカドン」がこの世になかったら、母も兄ももう少しましな生き方ができたのではと思い、残念です。

 

 友人は、「子孫のためにも被爆者との結婚は許しません」と将来を誓い合った人の両親の反対にあい破談となりました。別の友人の長男は成人してから、長女の娘は大学生の時、がんを発病しました。友人は被爆者である自分を責めました。

 

私自身は、健康にも生活にも恵まれ、生きてこれました。無念にも死んでいかざるを得なかった人のことを思うと生き残れたことに感謝しています。でも被爆したことへの不安は忘れることはありません。私たち被爆者は高齢となり、皆さまの前で原爆の残酷さを語れる時間は残り少なくなりました。皆さまにお願いします。きょう聞かれたことをご家族、お友達に伝えてください。

 

原爆は人間として死ぬことも人間らしく生きることも許しません。

戦争を起こすのも、平和を守るのも私たち人間です。

再び、被爆者と呼ばれる人を作らないために、そして子供たちに平和と美しい地球を残すために、「戦争をするな、核兵器はいらない」と共に声をあげて下さい。

 
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