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被爆者との連帯【広島・長崎】

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被爆70年ヒバクシャヨーロッパ遊説―被爆証言:家島昌志さん「私の訴えたいこと」

      家島昌志

 広島被爆

      東京都中野区

 

広島に原爆が落とされた当時、私は3歳になったばかりでした。恐ろしいことをかなり見聞したとは思いますが、まだ幼少であった故に断片的な記憶しかありません。己斐方面の山火事が消す人もなく真っ赤に焼けるのを眺めた記憶はあります。被爆した場所は、市内の北部、牛田町の屋内でした。その町の平均距離を採用する現在の被爆手帳には、被爆距離2.5キロとありますが、最初の手帳には1.8キロと記されておりました。

 

原爆投下の朝、父親は敵の空襲警戒という屋上での夜間の当番勤務を終え、自宅に帰って仮眠している最中だったといいます。勤務先の広島逓信局は、爆心から1.2キロばかりの距離でしたから、そのまま屋上で見張りなど続けていたら命を落としていたことでしょう。

 強烈な閃光に驚いて飛び起きて、二階の階段口まで来たとき、爆風で階段下まで吹き飛ばされたそうです。家中のガラスは吹き飛び、台所の食器戸棚のダイヤガラス一枚だけが無事でした。屋根もめくれて夜は月が見える状態だったといいます。

 母親は、日当たりの良い玄関脇の部屋に居たので、爆風で砕け散ったガラスが体中に突き刺さったそうですが、たまたま近所に看護婦さんが住んでおられたので、傷の手当てをしてもらったそうです。

まだ生後10ヶ月であった妹は、日頃は陽のあたるガラス窓の方に向けて寝かされていたそうですが、その日に限って部屋に置いてあった布団袋の影でガラス窓に背を向けて寝かされていて無傷だったといいます。私は玄関で遊んでいたそうですが奇跡的に無事でした。

 たまたま前夜から親戚の娘さん夫婦が新婚のご主人の入営のために我が家に泊まっていて、入営のため西練兵場の方に出かけたので、父親は直ぐに安否の確認に向かいました。

練兵場の兵隊さんは皆黒焦げの死体となっていて、自分の子供でもないので全く見分けもつかず、探すのを諦めて帰途につきました。

ところが、途中で、大やけどをして道端に倒れている娘さんを見つけました。急ぎ我が家の隣家の農家から大八車を借りて運び、近所の看護婦さんから分けていただいたチンク油を塗って手当をしたそうです。私は蛆虫の涌くやけどの強烈な臭気を記憶しています。「敵の飛行機悪いねー」と言って私は枕元で慰めたそうですが、そこまでの記憶はありません。

この娘さんは、その後再婚されましたが、首から胸にかけて広がったケロイドのせいもあったのでしょうか、夏になると暑い暑いと言っておられました。我が一家は命の恩人であると感謝されていましたが、生まれた子供は知恵遅れの障害児でした。そして、被爆から20年以上経ってから甲状腺癌で亡くなりました。明らかに被曝の影響でしょう。

 

後の報道によれば、マンハンタン計画を遂行した当事者達は、原爆の強力な爆発力は理解していたけれども、後々まで尾を引く放射能障害というものは全く想定していなかったと言いますが、それこそが悪魔の兵器の核心なのです。

 広島には75年間草木も生えないと噂されたあの夏終わりに、私たちの家族は勤めのある父親一人を広島に残し、祖父母の暮らす鳥取県に引越しました。満員列車の汽車の窓から乗せられたという記憶があります。姉二人は既に食料も乏しい広島から引っ越しており、祖父母の下から小学校に通っていました。

1年後に父親も転勤希望がかなって鳥取県に引っ越したのですが、10年後に胃癌のため胃を摘出し、24年後には上顎癌で60歳という若さで他界しました。当時あまりその原因について考えが及ばなかったのですが、これが被爆の影響でなくて何でしょう。

核兵器は親の敵です。後々まで尾を引く放射線障害。現在の核兵器は爆発力が広島・長崎型原爆の千倍を超えるという代物です。核戦争になれば人類は滅亡するでしょう。核は人類の手に余るものです。真の世界平和実現のために一日も早い核兵器廃絶を強く求めます。



 
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