被爆者との連帯【クリスマス島】

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ポール・アーポイ(フィジー核実験被ばく復員兵士の会)/原水爆禁止2009年世界大会国際会議

原水爆禁止2009年世界大会
国際会議

ポール・アーポイ
フィジー核実験被ばく復員兵士の会 副会長


 私たち協会に、この重要な原水爆禁止世界大会への参加ご招待をいただいたことにお礼を申し上げます。フィジー核実験被ばく復員兵士の会で副会長をしているポール・アーポイと申します。協会の生存メンバーと家族からのごあいさつを申し上げます。

 1957年から58年までイギリスがおこなった核実験のとき、当時まだイギリスの植民地であったフィジーの兵士と水兵およそ285名も実験に参加しました。ある時点では、グラップル作戦と呼ばれた任務の一環として、海上の船舶にいた兵士以外に、合計4千の兵士が海岸で核実験に参加していました。私たちの平均年齢は19歳で、ほとんどが予備役もしくは国民兵役にあった者でした。私は海軍に属しており、英国海軍艦船レゾリューションがクリスマス島に到着するとすぐ、そこでの任務に就かされました。海兵隊の上陸用舟艇部隊の一部である、はしけ乗組員の役を務めたのです。週に5日、私たちは、クリスマス島の沖合いに停泊している貨物船から〔クリスマス島の〕ロンドン港まで一般貨物を輸送しました。 

 ある実験の日、港の野営地でテント生活をしていた私たちのうち400人が、朝食後、午前4時に海岸まで行くことになっていました。私たちは、所属する部隊ごとに隊列を組み、大音量の拡声器から流れる命令に従って、爆発予定地点から顔を反対に向けて座りました。最初の二発の原子爆弾は、鉄塔の上で爆発することになっていました。「両手の手のひらで目をしっかり覆うように」。私はそれを復唱しました。「ひざまずいて頭を下げること。目を開けると失明する」。そうしてカウントダウンが始まりました。「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1」。閃光が走りました。背中にすさまじい熱を感じ、閃光は閉じた目でも見ることができました。目をふさいでいた手の骨が透けて見えた者もいました。私は身もだえしていました。次の命令は、じっとしているようにというものでした。服に火がつきそうな熱さでした。すると、拡声器から「衝撃波。手を下ろして、目を開けろ」との命令。すると、ドーン、ドーン、ドーンと衝撃波が数回にわたって次々と私たちを襲い、それととともに砂や石が空中に吹き上げられました。3分後、「ゆっくり振り向いて、立ち上げれ」との命令が出ました。見ると、島々の上空には巨大な火の玉があり、ゆっくりと巨大なきのこ雲へと姿を変え、徐々に空いっぱいに広がっていきました。

 続く2回の実験では、爆弾は気球で空中に吊り下げられ、クリスマス島の上空で爆発させられました。訓練内容は一回目と同じでした。1958年の訓練は少し内容が違いました。400人の軍人が夜明けに8隻の上陸用舟艇に乗せられました。そこからは、12マイル離れた滑走路で離陸に向けエンジンをうならせている爆撃機の音が聞こえました。爆撃機が無事離陸すると、船から降り、通常通り海岸に整列し、説明をよく聞くよう命じられました。「これは熱核爆弾だから、目は絶対に開けないように」。
    
 爆弾はすさまじい閃光を放ち、拡声器の声は我々に、まだ動くな、と鋭く叫び、地面は衝撃波で揺れました。ドーン、ドーン、ドーンという音には恐怖を覚えました。すると「立ち上がって、両手を降ろし、ゆっくり振り向け」との命令が出ました。空には巨大な火の玉があり、やがて空のほとんどを覆う美しい月のように変化していきました。太陽は姿を消していました。すると今度は、巨大なアイスクリームがコーンから両脇に流れ落ちるような動きを見せたと思うと、やがて大きな白黒のきのこ雲へと姿を変えていきました。海の向こうから強風が吹き始めました。そこで、避難するよう命じられました。

 私たちのテントはそこから1マイルほどの所にありました。テントに入ると黒い雨が激しく降ってきました。外に出るのは危険であるなどどは誰も教えてくれませんでしたから、私たちはテントから走り出て雨のシャワーを浴びました。島では、使う真水はすべてハワイからタンカーで運んでこねばならず、真水はいつも不足していたのです。1958年4月に海上投下された強力な核爆弾のことは今でも覚えています。その爆発の影響で、200マイル離れたホノルル中心街の街灯がすべて消えてしまったほどでした。この実験の後には雨が降り、2週間ほども続きました。

 クリスマス島にいた2年間のあいだ7回の実験を目撃しましたが、そのうち一度たりとも防護服を提供されたことはなく、線量測定装置などを配られたこともありませんでした。健康診断も、任務の前にも直後にも、一切ありませんでした。

 最後の実験から3週間ほどたって、私たちの船は、核汚染物質が詰まった44ガロン入ドラム缶を60個運ぶのに使われました。島から約4マイル沖に出た海中に投げ捨てるのです。その日、私たちの船の脇に軍の大型トラックが到着しました。空軍の要員が十数人いて、彼らは、ある海軍将校の指揮でドラム缶を船に積み込みました。私は3人の同僚と、ドラム缶を甲板に積む手伝いをしました。積み込みが終わったとき、私は何気なくドラム缶の上に腰を下ろしました。すると、海兵隊の軍曹が血相を変えて走ってきて、そこから私を引っ張り降ろしたのです。私は彼がふざけているものとばかり思ったので、降りる勢いでその人のことも引っ張ってみせました。すると軍曹は私を脇に連れていき、「若いの。ドラム缶に何が入っているのか知ってるのか」と訊いてきたのです。知らないと答えると彼は、核廃棄物のことと、ドラム缶の近くに行くことも座ることも絶対にするな、と教えてくれたのです。そうして、私たちは沖合いに出、ドラムを船の脇から投げ捨て、港に戻りました。すべてが終わった後、私たちは故郷フィジーに戻り、このことは口外しないよう言われました。

 その40年後、ロセナ・サラブラという女性が、夫と共に働いていたマーシャル諸島からフィジーに帰ってきました。マーシャルに滞在中、彼女は、現地の人たちのあいだで米国の核実験に関連する病気が見られることを見聞きしていました。フィジーに戻ったロセナは、太平洋問題資料センターという非政府組織の副責任者に就き、全島規模ですべての核実験参加兵士に電話を掛けたのです。そして非公式の会合がもたれ、私たちは自分達の体験を交流し始めたのですが、そこで、自分達の体は絶対的にどこかがおかしいということを悟ったのです。何人かは20代の若さで死んでいましたし、障害児が生まれた者もいました。妻が流産するケースも多く、復員兵士たちは奇妙な病気で苦しんでいました。私も例外ではなく、たった一人の娘は3歳半で死にました。息子は無精子症です。私自身もこれまで、腫瘍を59回切除しています。

 現在、退役軍人たちはフィジー政府からわずかな小額の手当を受け取っていますが、来年は、軍人恩給を制定して欲しいとの私たちの要請に良い回答が出されることを期待しているところです。1997年に、イギリス人退役軍人が、欧州人権裁判所に損害賠償を求める訴訟を起こしました。また、フィジー人退役軍人の代理人としてニューヨークの弁護士イアン・アンダーソンが提訴しました。これらの訴訟では、技術的理由により5対4で敗訴してしまいました。2005年に、ロンドンのローゼンブラット弁護士事務所が、イギリス、ニュージーランド、フィジーの退役軍人による英国国防省を相手取った訴訟を引き受けてくれました。英国政府を相手取った集団訴訟では、出訴期限が争われたロンドン高等法院での審理で今年、私たち原告勝利の判決が下され、突破口を開くことができました。現在、私たちは皆、英国の事務弁護士からの連絡を待っているところです。来年2010年の大会ではさらに朗報をお届けできることを願っています。

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