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ビキニデー

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2004 3・1ビキニデー
主催者報告「ビキニ被災事件とは何か」
河井智康(日本科学者会議/海洋サイエンス)

1、水爆実験とブラボー爆弾

 1945年10月24日の国連第1号決議には、「原子兵器(核兵器)および大量破壊に応用できるその他すべての主要兵器を各国の軍備から廃絶すること」という一節がある。しかしそのとき即時実行を米国が拒否したことから米ソの核軍拡競争は始まった。米国は1946年に旧ソ連は1949年に、英国も1952年に核実験を開始した。そして米国は1952年10月に第1回の水爆実験に入り、ソ連も翌53年8月に水爆実験を行った。しかもソ連の水爆は、より実用的といわれる乾式であり、米国より水爆開発では上をいくものと考えられた。

 米国は翌54年に、ソ連を追い抜くべく、巨大な水爆実験を3~5月にかけビキニ環礁で行った。それは、ブラボー(15mt―メガトン)、ロメオ(11mt)、クーン(0.1mt)、ユニオン(6・9mt)、ヤンキー(13・5mt)、ネクター(1・7mt)の計6回、合計48・2mtにも及んだ。広島投下の原爆は15キロトンであり、ブラボー爆弾は1発でもその1000倍に相当した。ちなみにビキニとエニウエトクの両環礁(マーシャル諸島の実験場)での全実験はのべ7年で67回、108・5mtであるから、その約半分の威力に相当する実験が1954年の3カ月に集中したのである。この時の実験シリーズをキャッスル作戦と呼んだが、その第1発目のブラボー爆弾が、マグロ漁船「第五福竜丸」とロンゲラップ島民を始めとするマーシャル人に大きな被害をもたらしたのである。そして環境汚染の面でいえば、キャッスル作戦全体を含めて、ビキニ被災事件と言えるであろう。つまり、ビキニ被災事件は、明らかに米ソの核軍拡競争の帰結である。

 ここで、マーシャル諸島の核実験場と、第五福竜丸とロンゲラップ島の位置関係を確認しておきたい。(図1)マーシャル諸島は太平洋の日付変更線のやや西側、赤道のやや北側に位置し、また第五福竜丸とロンゲラップ島は極めて接近し、共に致死量又は半致死量のフォールアウトを受けていたことがわかる。しかも米国が当時指定していた危険区域外にいたが、風向変化を無視した実験により、一層大きな被害を受けたと見られている。米国発表文書でも、何故風向変化を無視したかは不明としている。ネバダ実験場ではあり得ないことであった。

2、第五福竜丸の被災と放射能マグロ騒動

 1954年当時、日本国民の食糧不足は依然として全面回復されておらず、とりわけ動物タンパク質が不足していた。つまりマグロ漁業は国民への食糧供給産業として重要な役割を果たしていた。第五福竜丸も木造99トン型でマグロ船としては大きいほうではなかったが、マグロ資源の多い赤道近辺を主な操業海域としていた。そして運命の3月1日を迎えたのである。したがって、第五福竜丸の被災は単なる漁業上の突発的事件ではなく、国民の食糧不足を回復するために国が奨励する事業の中でおきた事件といえよう。そこには国としての政治責任も客観的に存在する。

 第五福竜丸は3月14日に帰国したが、人も船もマグロも高い放射能が測定された。23名の乗組員は全員が入院し治療を受け、船は隔離され、マグロはすべて廃棄処分となった。

 当時23人の乗組員の年齢は18~39歳で平均25・4歳、16人が独身であった。放射能障害による生命の心配と共に、将来の結婚などへの不安も重なり、精神的にも大きな被害を受けていた。22歳の或る乗組員の日記には次のような記憶がある。

 『4月5日、放射能がまだ手足の爪先に残っていた。長い間とれないものだ。ガイガーを当てられて、自分の体の一部に反応があった時の驚きと恐怖は、その身に直面した者でなければ解からないだろう。全く言語に絶するものだ。悪魔の遺産というやつは実にしつこい。体重検査、15貫600匁、よくもこう減ったものだ。元気の時には17貫もあった俺なのに……。もう一度、本当にもう一度、あの元気だった俺の姿を、何よりも父や母に見せて安心させてやりたい。』

 その年の9月23日、無線長だった久保山愛吉さんが「原水爆の犠牲は私を最後にしてほしい」と言い残して、39歳でこの世を去った。50年目の今日、生存者は12名だが、殆どの人が肝臓障害を持ち、いまでも放射能の恐怖にさらされているという。退院後の生活も就職・結婚などで大きなハンデを背負わされ、再び船員あるいは漁業者となれた人はわずか6人であった。

 当時、日本のマグロ漁業船は1200隻にのぼり、世界中の海(主に太平洋、インド洋)に出漁していた。政府は緊急に水揚げされるマグロの放射能調査を開始した。簡便なガイガー計数管を用い、1分間100カウント(cpm)以上を汚染魚として廃棄(海洋投棄もしくは地下2m以下に埋没)した。ガイガー計数管とは、金属の円筒に針金をはり、高電圧をかけ、筒の中のアルゴンが放射線に反応し放電する度合いを見る測定器である。その結果、3月16日~12月31日に計856隻のマグロ船で汚染魚が見つかり、廃棄されたマグロは457トン(刺身にすれば2百数十万人分)にのぼった。(図2、表1)

 2つの点が注目された。1つは6月には太平洋のほぼ全域で汚染マグロが獲られている。この広がり方はマグロの回遊速度より速いと思われ、フォールアウトの広がりも影響していると考えられる。実際、船体の汚染記録からもそのことが推定されるし、5月には日本本土で放射能の雨が観測されている。米国による危険区域など意味をなさなかった。2つ目は、その年の核実験が5月に終っているにもかかわらず、放射能汚染マグロは一向に減らず、数の上では11月にピークを迎えている。それにもかかわらず、政府は調査を12月末で打ち切った。その理由は、①肉部分はほとんど汚染されていない、②主要な汚染物質が亜鉛65であり人体にそれほど影響がない、としたが、これについては後に再度触れる。

 このような中で日本中はマグロパニックに陥った。食の安全と魚価の低落に消費者も魚屋も漁業者も大きな損害を受けた。マグロ魚価は30~40%も低下し、漁業者の経済的損失だけでも20・5億円に上ったとし日本鰹鮪連合会は試算し補償を請求した。しかし最終的な米国からの補償金額(慰謝料)は人的被害も含めて総額7・2億円(200万ドル)であった。日本政府もそれで手を打ったのである。今日のプロ野球選手1人の契約金にも満たない額であった。また国民の魚介類全体への不安が高まったことも事実である。漁業者の数がその後の5年間(1955~60)に10万人減と戦後最大であったのも、ビキニ事件が影響していると思われる。

3、俊鶻丸による調査

 日本政府は核実験のキャッスル作戦が5月13日に終るのを待って5月15日~7月4日に、調査船「俊鶻丸」を現地に派遣して汚染の実態調査を行った。それは世界最初の核実験による環境影響調査となり、船員の外に21名の研究者と9名の新聞報道機関の代表が乗りこみ、調査状況は逐一国民に知らされた。出発前には「琵琶湖にインク1滴をたらしたようなもの」と汚染を否定する学者もいたが、その予想はあまりにも軽視したものであった。ガイガー計数管の最大記録でいえば、大気でこそ15(cpm)と低かったが、雨17400、表面海水5540、50m層5786、80m層7025、プランクトン18200、マグロの肝臓4700、筋肉(カツオ)160、船体170と、国内での100cpm以上を汚染魚と判断したこととの比較でも極めて高い値を示した。また、カツオ・マグロ・カジキの魚体部位ごとのカウントを見ると、明らかに消化器系統で高い値を示しており、またマグロが高濃度に汚染されており、食物を通じて汚染が濃縮されていくことを裏付けている。つまり、海水からプランクトン、小魚、大型魚の食物連鎖にそって放射能が蓄積されていったと考えられた。

 ここで私は、カツオの筋肉で160cpmの値が出ていることに注目する。また血合肉は一般に筋肉の数倍もの値を示している。政府は肉部分は安全だとして12月末で陸上調査を打ち切ったが、これらの事実を無視している。その点からも政府の調査打ち切りは無責任であった。また亜鉛65が最大の汚染物質であったことも俊鶻丸の調査結果である。しかもそれが自然界の1万倍にも魚体内で濃縮されていたことには世界中が注目せざるを得なかった成果である。ところが日本政府(米国の指示かもしれないが)はそれを逆手にとって危険が少ない理由とした。しかし現実には死の灰からは27の放射性物質が検出されており、これまた国民の健康を犠牲にした政治判断といえる。なおブラボーが3F爆弾と呼ばれるいわゆる「汚い爆弾」であることも判明した。

 こうした日米政府の政治姿勢については、1991年10月24日に公開となった外交機密文書にも赤裸々に示されている。そこでは1952年に結ばれた日米安保条約を背景にした米国への日本政府の追従が先行し、事件への秘密主義と非人道的対応が特徴的である。世界制覇という野望がこうした結果を生むという教訓でもある。

4、反核運動の高まりと第五福竜丸の保存

 この事件は世界的にも大気と海の放射能汚染として注目され、国際的非難を浴びた。とりわけ日本では、広島・長崎についで3回目の核兵器による被害として全国的に核兵器反対の世論が高まった。よく反核運動が東京の杉並から起こったと言われるが、それは必ずしも一番早かったという意味ではない。東京だけ見ても、自治体決議での最初は武蔵野市議会のようである。しかしその運動面では、築地での魚屋集会を組織したり、婦人団体の動きが全国を励ました。そして署名運動を全国によびかけたが、それが同年8月8日の「原水爆禁止署名全国協議会」結成へとつながり、世界に向けての署名運動にも発展した。署名は翌年の8月段階で国内3200万、全世界で6億7千万に達した。

 そしてついに、1955年8月6~8日に、広島で第1回原水爆禁止世界大会が実施された。(資料)14カ国52名の海外代表を含め、5000人を越える大集会となった。原水爆禁止、原子戦争の阻止、被爆者の救援が大会決議にうたわれたが、以来世界大会の3本柱として今に受けつがれている。この世界大会の歴史にも紆余曲折はあったが、常に世界の反核世論を結集し、今まで核戦争を起こさせなかったこと、被爆者あるいは世界の核兵器被害者との連帯・援助に貢献してきた。そして2000年には、ついに世界中が核兵器の廃絶を約束するまでに至った。正に世界大会が世界の世論をリードしてきたといっても過言ではなかろう。その出発点にビキニ被災事件があったのである。いま米国の世界戦略の下で核兵器廃絶の流れが止まっているかに見る人もいるが、大局的な流れは一層廃絶に向かっている。

 反核運動の中で第五福竜丸の保存が実現した意味は大きい。米政府の圧力や日本政府の追従を乗りこえて、さらには東京湾の藻屑となる直前での市民の献身的努力によるといえよう。

5、マーシャルの悲劇と闘い

 マーシャル諸島は、かつて日本軍の占領地であった。日本軍もマーシャルの人たちを虐げた。1944年に日本軍は米軍に負け、後にマーシャル諸島は米国による信託統治領として1983年の独立まで米国の支配が続いた。そして1946~58年の12年間、ビキニ環礁とエニウエトク環礁が核実験場となり計67回の実験が行われた。そしてブラボー爆弾は水爆としては2回目、しかし67回中最大規模の15メガトンの実験であった。

 米国の核実験場としては本国のネバダも有名であるが、ここでの大気圏核実験は1951~62に計87回、合計1096キロトン(1・1メガトン)であった。ブラボー爆弾1発の10分の1にも満たない値である。つまり米国内では小型の核実験を、マーシャルで大型核実験を行ったのである。このこと自体、マーシャル民族全体を核実験のモルモットにしたと言われてもやむを得ないであろう。ブラボー爆弾が風向の変化にもかかわらず実験され、危険区域を大きく超えて大量にフォールアウトが広がったことも計画的だったと疑われているのも同様の根拠である。

 ブラボー爆弾で最も大きな被害を受けたのがロンゲラップ島民であった。米軍により被曝2日後に他の島へ移動させられたが、第五福竜丸の被曝とほぼ同レベルと考えれば、彼らの人的被害は想像に難くない。しかも彼らは僅か3年後に、ロンゲラップがすでに安全だとして元の島に戻された。そして1985年に自ら危険だとしてロンゲラップを脱出するまで、28年間も放射能汚染の地に生活させられたのである。マーシャルが独立後、1989~94年に全島の放射能汚染調査を実施したが、それによれば、例えば最多汚染物質のセシウム137は、ロンゲラップで低い値の島の1000倍にも達していた。いかにロンゲラップの人びとが、長期間放射能汚染にさらされていたかが伺える。

 ロンゲラップ島脱出後、ロンゲラップ島民を代表して、毎年のように原水爆禁止世界大会に参加し、世界にその実相が知られるようになった。世界大会実行委員会からも調査団が入りその実相を調べ普及している。1998年にはロンゲラップ代表と実行委員会がワシントンでマーシャルの実相を公開し、米国民に大きな衝撃をもたらした。マーシャルでは今、「ヒバクミュージアム」を建て、その経験を後世に残そうとしている。かつての占領国の日本人の運動とマーシャル人の闘いの合流は、世界平和への大きな1歩につながるであろう。

6、ビキニ被災事件が語るもの

 私はこれらの経緯を通じて、ビキニ被災事件が我々に以下の3点を示していると考える。

 第1点は、核兵器がいかに人類と地球環境にとって有害であるかを改めて明らかにしたことである。広島・長崎の教訓から、核兵器の非人道性については証明されていたが、ビキニ被災事件はさらに環境の破壊と内部被曝の重大さを浮き彫りにし、またいかにその被害が広域化するかを示したものである。

 第2点目は、非人道的兵器はその開発の時点から非人道的であるということが示されたことである。核実験が人間の日常生活を破壊し、戦時や戦場でなくとも甚大な被害をもたらした。またその被害をひたすら隠し、また人間をモルモット扱いにしてまで核開発を優先する姿は核兵器に固執する人間の心をも汚染したことを物語っている。

 第3点目は、不正義は必ず露見し、世界の良心の糾弾を受けるということである。これは核兵器の廃絶が、どんなに困難に見えても必ず実現できるということにつながる教訓でもある。

 我々はビキニ被災50年目の今日を、50年前の教訓をふまえ核兵器廃絶の新たな出発点として大きな運動を展開することを誓い合おうではないか。 



 
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