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被爆者との連帯【アメリカ合衆国】

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原爆復員兵士連盟
アンソニー・ガリスコ(1999年世界の被ばく者セッション)

ハーグ平和のためのアピール
1999年5月 オランダ、ハーグ
世界の被ばく者セッション

原爆復員兵士連盟
アンソニー・ガリスコ


  原爆復員兵士連盟(AAV)の会長を務めています、アンソニー・ガリスコと申します。復員兵士連盟を代表し、発言する機会をあたえて下さったこと、この会議の実現に向け奮闘されてこられた多くの方々に感謝を述べるものです。

  わたしたちの連盟は、おもに、兵役に就いていたあいだ米軍の実験的核兵器爆発への参加を命じられた元兵士から構成されています。米軍によれば、1945年から1963年まで、何万もの米軍兵士がアメリカの核爆発計画に直接参加しました。このなかには、罪のない男、女、こどもにたいする不必要な原爆投下の直後、広島と長崎に入り汚染除去作業をおこなった4万人の兵士もふくまれます。

  米軍が、広島と長崎の上空で原爆を炸裂させたのは1945年です。わたしたちの連盟、またそのほかにもアメリカの多くの復員兵士たちは、広島と長崎の人びとは、米軍が目的を果たすための最初の核兵器実験動物にされたと考えています。第2次世界大戦中、太平洋で兵役に就いていたわたしたちは、沖縄がアメリカの手に落ちたときには、(その後、実際1945年6月に米軍は沖縄を占領)、戦争は終わると聞いていましたし、そう理解していました。この話はまた別の機会にでもしたいと思います。

  アメリカの原爆復員兵士たちは、わたしたちの兄弟姉妹である日本の被爆者のように、核兵器による大虐殺は経験していません。しかし、わたしたちの多くは実験のとき爆心から非常に近い距離にいました。軍部は、わたしたち兵士がすこしでも爆心の近くへと接近するよう迫ったのです。すでに1946年8月の時点で、「クロスロード作戦」との暗号がつけられた米海軍最初の核実験において、米軍兵士を使う決定がなされていました。暗号名ベイカーという2発目の(水中)核爆発のあと、この作戦は完全に統制がきかなくなり、作戦は早急に狂乱的な状況のなか中止されました。

  その後何年もたった1983年のこと、わたしたち連盟のメンバーである研究者が、当時最高機密であった文書を発見しました。この文書には、クロスロード作戦が、計画されていた最後の3発目の実験をまえに中止された理由が述べられていました。

  あらゆる点において、原爆兵士たちは、こんにちわたしたちすべてを人質にしている、より協力で致死的な核兵器を開発するための、核の時代のいけにえに供されたのでした。軍がわたしたちを危害にさらすなど考えもしないことでした。しかしわたしたちは間違っていました。作戦に参加したわたしたち兵士は、第3次世界大戦がおこればこのような様相を呈するのであろう、目の前で証明された明白ながらも信じがたい光景を忘れることはありません。日本の被爆者や核実験に参加した兵士のほかに、24キロトンの核爆発から2マイル(訳注:約3.2キロメートル)地点にいることがどんなことか、理解できる人はそう多くないでしょう。

  火のあらしを目撃し、途方もない熱と風を感じました。いちどに100もの雷雨がおきたようなとどろきがつづき、その猛烈な轟音は信じられないほどでした。容赦なく体をのみこみ、しめつける衝撃に押し潰され死んでしまいそうで身がすくみました。わたしたちの脳裏には、核兵器が跡にのこす冒涜的な惨害が焼き付いています。

  これと同じ頃の1946年8月に作成されたある最高機密文書からは、クロスロード作戦2発目(ベイカー)の実験のあと、ビキニ環礁の礁湖に停泊する旗艦のなかで開かれた秘密会議の場で、ある高官が作成した声明が明らかになりました。この声明は、「われわれは、クロスロード参加者がクロスロード作戦放射線監視部門に訴える権利や事実が承認される事のないよう、あらゆる予防措置を講じなくてはならない」としています。言い換えれば、「罪のドアにかんぬきを掛け、臭いものに蓋をせよ」ということです。

  クロスロード作戦に4万2千の兵士を使うという決定は、何万もの原爆復員兵士にじりじりとおとずれる苦痛の死刑宣告でした。1960年代から1980年代にかけ、たくさんの原爆兵士たちが死んでいきました。ガンをはじめ、病気にかかる原爆兵士の割合は異常なほどでした。1983年の初め、わたしたちは再度連邦議会にはたらきかけ、わたしたちとその子どもに起こっている事態を突きとめるため厳密な疫学調査をおこなうよう要請しました。答は、そのような調査は必要がなく、財政上も不可能であるというものでした。

  復員軍人庁の病院に助けをもとめましたが、相手にしてくれませんでした。締め出されたとでも言いましょう。1984年のあるとき、原爆復員兵士が提出した公文書をシュレッダーにかけ焼却したという理由で、サンフランシスコにある復員軍人庁病院に有罪判決が下されました。復員軍人庁の制度による医療をうけるため、自分たちの主張を裏付ける資料として、原爆復員兵士は公文書をこの病院に送っていたのでした。

  1984年、必死の思いから、また原爆復員兵士のために政府が厳密な疫学調査などすることなど絶対にないと認識していたわたしたちは、ワシントンDCの事務所を拠点に独自の調査をおこなう道を選びました。

  調査の結果、わたしたちは政府がすでに知っていた事を知りました。原爆復員兵士の53%以上に染色体異常があり、それが、先天的異常の形でこどもたちに遺伝していました。原爆復員兵士の平均死亡年齢は47歳でした。このあとも、核爆発に兵士をさらす作戦は17年つづけられました。この間、核兵器が威力をますいっぽう、何万もの兵士が被ばく者となり、死んでいきました。

  1946年の大失敗を国民の目から隠したい軍部は、国防総省を通し沈黙の陰謀をめぐらせました。1963年、ケネディーが大統領のとき、(部分的核実験停止条約により)核実験による虐殺行為が終り、莫大な金を産む金庫から空中に打ち上げられ、腐敗した核兵器軍産複合体へと注ぎ込まれていた何十億ドルもの資金の流れも止まりました。

アンソニー・ガリスコ 
第二次世界大戦、朝鮮戦争に参加 
クロスロード作戦中は、揚陸艦388に乗船

連絡先: 
Alliance of Atomic Veterans 
P.O.Box 32, Topock, Arizona 86436, USA 
Phone: (520) 768-6623 
E-mail: aav1@ctaz.com 





 
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