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被爆者との連帯【アメリカ合衆国】

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ネバダ核実験場風下地区住民
クローディア・ピーターソン(1999年世界の被ばく者セッション)

ハーグ平和のためのアピール
1999年5月 オランダ、ハーグ
世界の被ばく者セッション

ネバダ核実験場風下地区住民
クローディア・ピーターソン


  みなさんの前で、私は、感謝の思いと謙虚な気持ちでおります。 平和と正義をもとめるこの会議に参加する機会を与えていただきありがとうございました。

  私は、アメリカ政府が1000以上の核装置を実験したネバダ核実験場の風下に位置するユタ州南部から来ました。

  私は、恵まれた環境にあると信じて育ちました。アメリカ政府は、すべては安全で何の危険もないと信じさせるため、たくさんの方法をとりました。生活が順調なときは、恐ろしいことが起こりうるなどとは考えないものです。しかし、核実験場の風下に住む人たちは、実験開始後まもなく、不幸が現実となったことに気づきました。アメリカ政府がいかなる過失もないと否定をつづけるなか、私たちの目の前で、愛する者が驚くほどの速さで苦しみ死んでいったのでした。

  私の夫の父はウラン鉱夫で、適切な換気がなされていない坑道で働きつづけた結果、若くして肺ガンで亡くなりました。いまでは、解禁された文書から、原爆製造にウランが必要だったため、ラドンガスへの被ばくにより起こる病気については鉱夫に知らせない、という意図的な決定をアメリカ政府がおこなっていたことが判明しています。

  私の父は、レモン大の脳腫瘍が摘出された半年後に亡くなりました。このとき、かかりつけの医者は、この腫瘍が、私たちの家に降り注いだ核実験から生じた死の灰によるものであることを示唆していました。

  父の死はつらいものだったとはいえ、この後につづく悲しみに比べればまだましでした。私の末娘のべサニーは、3歳にして悪性の神経芽細胞種というがんの診断を下されました。私たちが見守るなか、この素晴らしいほど活発で好奇心に満ちた娘は、生きるために本当にたくさんのたたかいを乗り越えていきました。しかし、3年におよぶ化学療法、放射線治療、そして手術のすえ、ベサニーはたたかいに敗れました。苦しみが終わることを祈るほか何もしてあげられないという戦慄にふるえながら、わたしたちはベサニーを抱き、その腕の中でベサニーは死んでいきました。

  ベサニーが亡くなるちょうど一月前、私のただ一人の姉キャシーが、皮膚がんため36歳で亡くなりました。彼女は、6人の幼い子どもと夫を残していったのです。愛するものの死を見ることはあまりつらく、私も悲しみを終わらせるために死を願いました。核の時代は物理的に何千人も殺しただけでなく、本当に多くの人から素朴さを奪ったのです。

  私たちのなかには、もう体力的には丈夫ではない者もいるかもしれません。しかし、失ったものの大きさによって、私たちは強くなり、平和がなぜこんなにも大切であるか理解できるようになりました。

  私は、コソボの母親や父親のように難民キャンプでわが子を探すというつらい経験をしたことはありません。広島や長崎の母親や父親のように、わが子の体を探し求め、真っ黒に焼かれた道をさまよわなくてはならなかったということもありません。しかし、アメリカ政府はこれと同様のことを、うそと隠ぺいと欺きにより、秘密裏に、機密を保持するやり方で、自国の国民にたいしおこなったのです。

  国際社会の一員として、友人、隣人、愛するものが苦しみ死に逝くのを、ただ見ていられるでしょうか。毎日テレビで見る惨事をいったいどう正当化しろというのでしょう。他人の苦しみに背を向け無視する者は、このような苦しみを引き起こしている者と変りません。 

  私たちすべてが、沈黙を破ることにより、政府の政策を変えさせることができるのです。沈黙は、権力をもつ者がさらに悪事をはたらくことを許します。今日ここに参加した理由が何であれ、私たちは未来を変えられること、私たちすべてが核の時代の犠牲者だということを知らなくてはなりません。力を合わせて生き続ける決意を固めようではありませんか。





 
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