被爆者との連帯【アメリカ合衆国】

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ユタ風下住民
デニス・ネルソン(1997年国際会議)

原水爆禁止1997年世界大会・国際会議

ユタ風下住民
デニス・ネルソン



  今日、ここに私をご招待下さった方々に感謝します。私は、ここで皆さんにお話をする機会を与えられ、大変光栄に思います。

  私は、科学者として専門的な話をすることもできますが、そうするつもりはありません。私が話したい問題は、それよりはるかに重要な事だからです。私の話は、愛と命と失ったものについての話です。家族と果たせなかった夢の話です。

  私は、冷戦のさなか、アメリカ・ユタ州のセント・ジョージ市で育ちました。当時は、冷戦があまりに激しかったため、道徳や正しい行為など問題にもされませんでした。普通の人々の命は、たとえ少しくらい犠牲者を出そうと「国家の安全」や「自由」という作り話を守ることの重要性に比べたら、全く意味のないものと考えられていました。ネバダ核実験場の風下にあるユタ州南部とネバダ地方には「ほどんど人の住んでいない地方」というレッテルがはられ、そうした政府の声明によって、少なくとも2万人の人々が目にみえない、無視してもかまわない存在とされたのです。このなかには私の家族も含まれていました。

  私の子ども時代に、後に「死の灰の町」として知られるようになるセント・ジョージ市の西120マイルの地点で約200発の核爆弾が実験されました。風は私たちの町の方向に向かって吹くことが多く、ある時、特別やっかいな爆弾が、計画していたよりも「激しく爆発」してしまった時には、原子力委員会のある役人は、もし実験の当日に雨が降っていれば、その影響でセント・ジョージ市の住民の半分が死んでいただろうと後になってから言いました。たしかに、あの日、私たちは幸運に恵まれました。速やかに死ぬ代わりに、ゆっくりと死ぬことになったのですから。1950年代になると、あまり大騒ぎにはなりませんでしたが、一人また一人と、死者が出るようになり、それが今日もなお続いています。世界はユタ州の小さな町で何が起きているか知ることはありませんでした。この小さな町の人々は、放射線を浴びてからというもの、放射線実験に組み込まれ、知らないうちに、世界中で用いられることになる放射線の遮蔽基準を設定することに貢献させられていたのです。

  広島と長崎で何が起きたのかは疑う余地もありません。たとえ医学者や物理学者がその影響を過小評価しようとしても、そこにいた人々は真実を知っています。しかし、ユタをはじめ多くのアメリカの核被害地の人々は、今でもなお、この日本で起きたと同じ事が自分たちに起きたのだと信じようとしません。たしかに私たちは恐ろしい業火に焼かれたことはありません。しかし私たちの飼っている家畜の背中には、ベータ線によるやけどができています。「黒い雨」も降りませんでした。でも何年間も、放射性のほこりを含んだ乾燥した雲が私たちの空にただよっていました。破壊による膨大な被害もありませんでした。でも私たちは放射能で汚染された食物を食べ、汚染された牧草地で草を食べている乳牛のミルクを飲んでいたのです。

  子どもの頃、私は死の灰がどこに流れていくのだろうと思ったものでした。夏の間、私が木陰で昼寝をした木にも、家の庭に撒いた水にも死の灰は降りました。ネバダから吹いてきた風にも死の灰が含まれていました。しかし、私の両親は、心配しなくても安全だからと言われていました。私たちはそれを信じていました。死の灰がいたるところにあったのを知りませんでした。死の灰は、私の父親の肺や骨の中に、母親の脳の中に、私の弟の血液の中に、私の妹の腸の中に、そして私自身の皮膚にまで入り込んでいました。

  私の母は47歳で亡くなり、妹もわずか40歳で死にました。父はたばこを一度も吸ったことがないのに肺ガンで死に、弟と私は二人とも2回ガンを患いました。私や同世代の人々は、あまり長生きできないだろうと思っています。私の祖父母は元気で長生きしましたし、私は自分の子供たちも、また再び祖父母の世代と同じように、健康で長生きできるようになることを願っています。私は、あの美しく、聡明で、ウィットに富んだ妹が、ユダヤ人大虐殺の犠牲者のような変わり果てた姿になったことに気づいた時の恐ろしさを忘れることはできません。毒ガスを使ってであれ、アイソトープを使ってであれ、その犯罪性には変わりはありません。そして私の家族はその犠牲者に選ばれたのです。

  私の家族は、放射線被曝の影響について行われた統計や医学的調査の対象になったことはありません。私たちは利用され、見捨てられたのです。自分たちで医療費を負担し、一度も補償を受けることはありませんでした。

  社会保障による医療制度のない国では、人を病気にするのは簡単です。犠牲者自身が医療費を全額負担させられるのですから。

  今世紀のはじめには、科学が、肉体だけでなく、精神も道徳も心も破壊するようになるとは誰も想像すらしませんでした。次の世紀になっても、科学は破壊から私たちを救うことはないでしょう。人類を破壊から救うことができるのは、皆さんや私のように、たとえささやかな方法によってでも、この現実を変えようとしている人々なのです。紀元2000年が間近に迫った今、私たちは原子にまつわる真実を世界中の人々に知らせなければなりません。勇気ある男女の力を借りて、調査によって核兵器の引き起こした被害の実態を明らかにし、過去の犠牲者たちに発言の機会を与え、人間の行なった大虐殺が、極秘文書のなかに隠蔽されることを二度と再び許してはなりません。

  日本にある原爆記念碑は、私たちの後に続く世代の人々が過去を忘れることのないよう、彼らに私たちを苦しめ、変えてしまった核の悲劇を常に思い出させるものとして、そこに立っています。セント・ジョージには、記念碑はひとつもありません。あるのは多くの幼い子供たちと若くして死んだ大人たちの埋葬されている墓地だけです。彼らは自分たちの声に耳をかたむけてくれと叫んでいます。ちょうど、皆さんのなかにもご存知の方々がおられると思いますが、クローディアの美しい娘のベサニー・ピーターソンのような幼い子供たちです。そして、5年前に亡くなってからこれまで、私を休ませてくれない私の妹のマーガレットのような大人たちです。

  ここにいる私たちは皆同じひとつの絆で結ばれています。私たちが時間を過去に戻し、死ではなく生を語る事ができたなら、これまでに起こったあの出来事が、まったく起こらなかったならと、私は心から思います。しかし、過去を変えることはできません。それならば、私はせめて長生きして、この世界的な核のホロコーストによって命を失った全ての人に捧げられる記念碑が建てられるのを見てから死にたいと思っています。皆がそのまわりに集まって、この話題を避けることなく話し合い、私たち全員がヒバクシャであると聞かされても目をそむけなくなるその時に立ち会いたいと思います。私たちは罪のない犠牲者であり、核兵器がなくなるその最後の運命の日まで、声をあげ訴え続けるのだということを決して忘れてはなりません。

  私の愛する人々の命を奪ったあの原子兵器は、その標的や人命を破壊しただけでなく、その究極の力で、兵器を作り使用した人々の信用をも打ち砕いたのです。彼らの道徳や倫理の欠如は、図らずも、彼らが巧妙に秘密を隠し続けることで身を守ろうとしている臆病な殺人者に他ならないことを明らかにしました。

  私は真実を愛しています。真実は人間を解放し、私が子供の時に奪われた選択の自由を取り戻させてくれるからです。私は私ができなかったこと、両親と妹と共に過ごす太陽の輝く日々、そして平穏な夜を夢に見たいと思っています。私は、長生きする人々、健康な子供たち、良い政府の夢を見たいと思っています。私は、私たち全員が、この夢を現実に変えられるように祈ります。

デニス・P・ネルソンの経歴
  デニス・ネルソンはアメリカ・ユタ州リッチフィールドで1943年8月8日に生まれる。1943年から1959年まで、ユタ州セント・ジョージで弟と3人の姉妹とともに育つ。1959年、一家はユタ州北部へ移り住む。彼は当地のブリガム・ヤング大学で学び、化学で理学士号、生物物理化学で博士号を取得する。
  1968年、ネルソン博士はアメリカ海軍に入り、22年にわたって海軍将校として勤務する。彼は、メリーランド州の海軍医学研究所、カリフォルニア州の海軍地方医療センター、海軍保健研究センターで働いた後、ワシントンDC近郊の軍医科大学の大学コンピューターセンター所長を 最後に海軍でのキャリアに終止符を打つ。この間、免疫系、中毒性および出血性ショック、ヘモグロビンの酸素輸送など様々な分野で生物医学的研究にたずさわる。
  海軍を退役後、ネルソン博士は国立衛生研究所における廃棄物焼却の廃止に貢献したメリーランド州ベゼスダ環境問題啓発タスク・フォース議長として、地域活動に積極的に参加している。また、放射線が人体に及ぼす影響に関する実験についての大統領諮問委員会で2回証言した。彼はコンサルタント事務所を経営し、化学物質の毒性および環境汚染の分野での専門的助言を提供している。
  ネルソン博士の夫人はオーストリア人で、息子が1人、娘が3人いる。


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