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ビキニデー

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2012年被災58年3・1ビキニデー集会主催者報告/安斎育郎

注意:本報告は、3月1日の音声記録を日本原水協事務局の責任で起こしたものです。その旨ご了承ください。

主催者報告
原水爆禁止世界大会実行委員会 議長団
安斎育郎

 主催の一角をになっております世界大会の議長の一人であります、安斎です。私の今日の立場は、主催者報告プラス講演ということになっております。主催者報告については、ここに集まっている方々は大体、主催の意味をよく理解しておられるはずだし、さきほど川本さんが、「主催者あいさつ」としても確認されたことなので、たくさんの時間をそれにさかないようにしたいと思っています。

 要するに、核兵器のない世界に向けて国連と多くの国の政府が努力しているなかで、唯一の核兵器の実戦の被災国である日本政府が、最大の核保有国であるアメリカの核抑止力政策にしがみついて、破壊から創造への人類史的転換点となるべき核兵器廃絶の課題に正面から向き合って世界をぐいぐい引っ張っていこうとしていない実情にあります。だからこそ広島、長崎、ビキニ、福島と核被害を四度も体験した日本の私たちこそがイニシアチブを発揮して、地道な署名運動を含む明確な意思表示をして歴史を切り開く力を発揮しなければならないときだろうと思います。そのことを確認し、福島の核被害の真っただ中にある、ここ日本からはっきりと力強いのろしを上げ、その成果を世界大会に総結集したいものだと思います。

 さて、みなさん。広島、長崎、ビキニ、福島を串刺しにして統一的に理解するために、1945年から67年間を振り返ることにしたいと思います。

 この国が核の被害を受けたのは、今回が初めてではなく、最初は広島、長崎の原爆投下でありました。その広島、長崎には核の地獄が出現したのですが、それを投下したアメリカがその日本を戦後、統治する、支配するということになったために、アメリカは自分たちが落とした核兵器の被害を、世界に知られることは反人道的だとして批判をうけるので、プレスコード=報道管制をしいて、広島、長崎の被害を世界に報道することを厳しく制約しました。その結界、世界は広島、長崎で何が起こったかをよく知らないままに戦後を迎えました。

 そして翌1946年7月1日にアメリカはビキニ環礁で、戦後最初の原爆実験を行いました。その実験場の隣に世界の報道関係者を呼んでおいて、アメリカがいかにすごい兵器をもったかということを見せつけた。そのときに威力がものすごいもののことを「ビキニ」という言葉で表す流行語ができたことはご承知と思いますが、その年にパリの水着コレクションで、ルイ・レアールというデザイナーが胸と腰だけを覆う婦人用水着を発表し、それを着用したときに男性を魅了する威力たるや、原爆級であるというので、ビキニスタイルと付けたこともよく知られております。アメリカはそのとき、このような凄まじい武力を手にすることができる国は、15年来表れないだろうと思っていたところ、わずか3年後の1949年セミパラチンスクで、ソ連が最初の原爆実験に成功しました。アメリカはこれでは核兵器による抑止力がはたらかないということで、原爆の1000倍も強力なスーパー爆弾である水爆の開発に突き進んでいきましたが、ほとんど時を同じくしてソ連もその方向に向かい、1950年代初頭には米ソ両国が原理的に水爆の開発に成功しました。あとは爆撃機で運べる水爆の開発に進んでいったのですが、ご承知のとおりアメリカは、1954年3月から5月にかけてビキニ環礁で水爆の一連の実験をやった。そのうちの最大のものが、今日記念日を迎えております、1954年3月1日に行われたブラボー爆弾といわれるもので、威力は15メガトンであったといわれています。1939年9月1日にドイツがポーランドに侵入して始まって、1945年9月2日に日本が全面降伏して終わった、足かけ6年にわたって60カ国以上が参戦し、5000万人の死者をだしたあの第2次世界大戦という人類史上最悪の戦争で使われた砲弾や爆弾は、広島、長崎の原爆を入れても、合計3メガトンであったといわれているので、よく第2次世界大戦5回分というふうに例えられています。しかし、それでびっくりしていたら、その7年後の1961年に、ソ連が「ツァーリ・ボンバ」という名前の水爆実験を行いました。この威力は50メガトン、一説では58メガトンと呼ばれていまして、第2次世界大戦17ないし19回分にも相当するものでありました。

 1950年代から60年代というのは、まさに米ソ両国が世界を二分して核軍備競争の真っただ中にあった、そういう時期でありました。その時期にこそ実は原発が実用化されました。1954年3月のビキニ水爆実験の2ヶ月後、ソ連がモスクワ近郊のオブニンスクというところに、5000キロワットの原発を実用化させました。よく原子力の面で進んでいるのがアメリカだということで、アメリカが原発を最初に実用化させたと思っている人がいますが、実際はソ連が54年6月にやった。アメリカはそのときに原子力法という法律はもっていましたが、民間企業が原子力の開発研究に携わること自身を禁止していました。そんなことをやっているうちに、ソ連がいち早く原発を実用化させた。このままでは世界の原子力市場がソ連製になるおそれがあるというので、アメリカはあわてて原子力法を2ヶ月後に変えて、民間企業も原子力の分野に参入できるようにするとともに、アメリカ型の原発の開発に突き進んでいったのですが、それは大海原を行く潜水艦の推力として使う予定の原子炉ウェスティングハウスという会社製のものを陸揚げして急遽、アメリカ型の原発、加圧水型の原発にしたてていました。

 したがってアメリカ型の原発というのは、都市に電力を供給するために安全性を一歩一歩確かめながら開発するという手順を経たものではなくて、大海原を行く潜水艦に載せるはずの原子炉を急遽陸揚げして作ったので、安全性の点では懸念がある。懸念があるけれども、作った以上、重大な事故が起こったときには心配になって、アメリカは1957年3月だったと思いますが、「ブブルヘブレコード」という報告書で、原発が事故を起こしたときの被害を見立てた、その結果、原発が福島のような重大な事故を起こすと、死者3400人、傷害4万7千人、財産損害が70億ドルという評価がでました。当時、1ドルが360円なので、70億ドルは2兆5千億円ぐらいに相当します。当時の日本の国家予算は1兆2千億円ぐらいですから、原発が重大な事故を起こすと、日本の国家予算の2倍を超えるような損害がでるということが明らかにされたわけです。アメリカ政府は焦りました。このままでは民間企業が原子力に参入することはありえないだろうということで、その半年後、57年9月だったと思いますが、「プライスアンダーソン法」という原子力損害賠償法をつくって、もし原発が重大な事故を起こした場合には、その損害が102億ドルを超えたら、あとは国家が全部面倒を見るから企業は安心して原子力分野に参入しなさいということで道を開いた。日本もその4年後、1961年に原子力損害賠償法を作って同じ道を歩み、アメリカから原子炉を次々と投入していって、今日にいたってきているわけです。

 日本の原子力開発は、いったいどういう形で始まったかというと、1954年3月1日のビキニ事件と時期が重なっております。ビキニ事件の2日後、国会で中曽根康弘という当時、改進党代議士が保守3党をまとめあげて、「原子炉をつくろう予算」を急遽提案しました。4月から始まる新年度予算の補正予算の形で、「原子炉をつくろう予算」2億3500万円を提案して、急遽通していった。2億3500万という数字は、ウラン235から取ったというのはよく知られていることですけれども、中曽根氏は、前の年の1953年にアメリカのハーバード大学のヘンリー・キッシンジャーという、のちに大統領補佐官となる人物が取り仕切っていた国際問題セミナーに参加して、アメリカの「アトムズ・フォー・ピース」=「平和のための原子力」という核戦略を深く心に刻み込み、日本にアメリカ型の原子炉を導入して原子力開発を進めるという思いをもって帰ってきた。ところが、年が明けて54年になっても、日本の学者たちがぐずぐずしている。日本学術会議というところが2月27日、3・1ビキニデーの2日前に開いた公聴会に、たぶん服部学という若い科学者も出ていたはずですが、先月1月10日に亡くなりましたけれども、その公聴会の席でも、広島、長崎を体験した国として、原子力研究にはもっとも慎重であるべきだという意見が強かった。そういう状況を目にして、中曽根康弘氏は頭にきて、学者の頬を札束で引っぱたく必要があるというので、急遽、「この原子炉をつくろう予算」を提案し、保守3党をまとめて予算を通していった。これで、政治的な道筋がつくられたわけです。

 財界筋では何が起こったかというと、読売新聞社の社主だった正力松太郎という人が、アメリカの国務省と連携しながら、原子力は何も兵器として使うだけではなくて、平和のためにも使えるのだということで、原子力平和利用博覧会というのを全国あちこちで開いて、何十万という人々を動員していったんです。1959年に東京で開かれた国際見本市でもアメリカの原子炉の実物が東京で展示され、私はそれを見に行って原子力に絡め取られていったわけですけれども、そういう路線が財界では正力松太郎氏によって敷かれていったわけです。おまけに日本では、1973年に田中角栄内閣総理大臣という人が、電源開発促進税法という法律を作った、今日も電気を使っていますけれども、しかも私は会場を明るくするために、もっと電気を使うことを要請したんですが、その電気は電気料金という形で買っているわけです。ところが電気料金を払うと、1000キロワットあたり、今の体系だと375円だと思いますが、税金を払っています。促進税という名前で税金を払っています。電気料金の形で税金を払っています。ビールを飲んでもかなりの部分は税金だし、それと同じような形で払っています。せめて私は電気料金の領収書に、どの辺が税金であるかを明記することを求めてきましたけれども、まだそうなっていないと思いますが、とにかく、1年間に国庫に3500億円ぐらい貯まるわけです。これを財源として、原子力発電所を引き受けてくれた自治体には、ご褒美として特別交付金を払う、3年間にわたって数十億円の金が落ちる仕掛けを作った。地場産業の展望がなかなか開きにくいような自治体では、原発を受け入れれば自動的にお金が落ちてくる、我々は「原発の引越しそば」と呼んでいるんですけれども、そのために原発の誘致へ、誘致へと向かっていったわけです。大体1基呼ぶと、3年間に数十億円落ちてくるけれども、その間に道路を作ったり、公民館を作ったりしても、3年たつと補助金が来なくなる。来ないけれども、道路は壊れるし、公民館を運営するには人件費も必要なので、財源がほしくなる。もう一杯引越しそばを食おうかということになって、大体4基ぐらいに増えていくというのがこれまで見られてきたことであります。しかも、この国は、日本国憲法によると、民主主義の国であるということになっているので、自治体が呼ぶのではなくて地方の住民が呼ぶ形をとらなくてはいけないというので、そういう形をとって、原発を誘致するための住民組織が地元の有力者などによって作られていったんです。いま原発事故が起こっている福島県の双葉郡には、「明日の双葉地方をひらく会」というのが組織されました。そこに、住民たちが絡め取られていくわけです。地域社会にそういう原発を推進する会が作られると、あの家はあの会に加わっている、あの家は反原発派で加わっていないということが、うすうす分かりますから、そうすると、その地域の祭を合同でやることさえもできなくなるんです。3日ほど前に山口県の上関原発の近くにある祝島に行ってきましたけれども、そこの祝島の住民たちは、いま、島をあげて祭をやっていますけれども、そして、原発にこぞって反対していますけれども、ああいうところに、そういう組織が無理やり作られたりすると、原発賛成、反対派の間に文化的な亀裂も走って、そういう地域の共同体としての行事さえも立ちいかなくなったところがほかにもあります。

 このようにして日本では、原発へ原発へと突き進んでいった、その背景にはアメリカの戦略的な政策展開があります。戦争が終わったときに、この国の電気は主として水力発電で作っており、日本には、戦争を進めるために作られた仕組みですが、日本発送電株式会社という電力会社が1社あっただけ。ところが、日本を占領したアメリカは、日本発送電株式会社を北海道電力、東北電力、東京電力など9つに地域分割した。その言い方はたいへん上手で、財閥解体、経済の民主化といったわけです。財閥をそのままにしておいて、日本発送電株式会社という独占的企業体を放置しておけば、巨大な利益を積んで、いずれ復活するかもしれない日本軍国主義と結びつくと、また戦争への道を歩むおそれがあるということを旗印にして、「財閥解体」、財閥という言葉は当時、国際語でしたので、財閥を解体し経済を民主化するというふうに唱えたんだけれども、実際はそうではない。私は関西の宇治の平等院の近くに住んでいますけれども、関西電力はここからここまでと決められて、その中で発電と送電をすることを要求されるわけです。そうすると、戦後復興の過程で、神戸とか大阪とか京都とか大津とか大都市圏が大量の電気を使うことになる。その時に関西電力は果たして関西電力管内と決められたところで、その大電力を賄うための水力発電を確保することができるかというと、それはできない。水力発電の水源は中部山岳地帯に集中しているので、それができなくて、それでも電力が必要ならどうするかというと、神戸や大阪などの大電力消費地に隣接して火力発電所を作るということになる。実際にそうなっている。そして最初のうちは、日本で掘った石炭を使っていた。日本の石炭は見込みがなかったわけではないけれども、アメリカは長い戦略的な政策展開の中で、石炭から石油に転換させていって、1960年にはもう水力発電とならんで石油火力発電所が重要な位置を占めて、石油であれば、アメリカは掘って精製して国際市場に売りつける方法で、国際石油資本として牛耳っているので、ついに日本のエネルギー生産はアメリカに依存することになった。その延長線上で70年代には、石油ショックなどもその理由の一つにされて、原発へ原発へと転換されていって、いま54基ある原発のほとんどはアメリカ型の原発であり、GEとウェスティングハウス社が市場をみごとに二分しているという体制ができたわけです。アメリカにとってみれば、核兵器を作るのは金がかかる、核兵器を作るためには濃縮ウランというものを作る、その濃縮ウランを作る能力を使って、その一部を、いわゆる平和利用といわれている原発向けの燃料生産に振り向けて、日本などに輸出すれば、それによって利益を得ることができ、核兵器生産のコストを下げることもできる。そのようにして原発がすすめられていくと、原発でできたプルトニウムが核拡散の要因となって新たな核兵器をもっている国を増やしていくという悪循環も起こっている。核兵器と原発との間には密接な関係があって、今日、ひな壇に座っているジョゼフ・ガーソンさんは、たぶん30年も前から、その2つの間の致命的な結びつきについて警告を発していた人でもあるわけです。そして今、ついに核兵器国はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、1968年にたぶん持ったと思われるイスラエル、74年のインド、98年のパキスタン、そして2006年に北朝鮮がもって、9つの国が核兵器をもつにいたって、なお核拡散の危険性が続いている。アメリカは持っていいが、お前は持ってはいけないという、よくいわれるように、ヘビースモーカーの禁煙運動だといわれる。自分は散々タバコを吸って体を壊しておきながら、未成年の息子を呼んで、タバコは体に悪いから吸ってはいけないよといっても、まったく説得力がないように、やはりアメリカの核兵器そのものをなくしていくという人類史的な選択をしないかぎり、我々は核の被害を根本的に免れることはできないであろうと思うわけです。

 この歴史的な流れというものをしっかりと理解しておくことがとても大事だろうと思うんです。この日本の国の原発を進めてきた要因は、8つあって、私は八角形と呼んでいるんですが、1つは、アメリカの対日核エネルギー戦略です。それを忠実に受け取った日本政府。それとタッグマッチを組んだ電力資本。そして安全であるということを保証するために、仕掛けとしての官僚機構が、安全委員会とか保安院という仕掛けが作られて、安全の物語を書くために、東京大学工学部原子力工学科の教授たち、私の恩師にあたる教授たちですが、こういう人々がそういう物語を書き、描き出された安全の物語をマスコミが「安全神話」として人々の間に吹聴し、そこに乗って、地方自治体が原発を誘致し、そのもとで、住民たちが絡め取られていったという、8つの要因によって、この国は原発推進、翼賛体制が築かれてきたわけです。

 今年は厄介な状況にあって、野口邦和先生も、沢田昭二先生もそうでしょうけれども、日本中から講演依頼の嵐です。2月だけで23回もあったんですけれども、やっと2月も終わったと思ったら、今日からまた20回ぐらいの3月がはじまろうというわけです。どこへいってもみんな心配するのは、放射能の被害で、それは言ってみれば当然といえば当然なんだけれども、出ちゃった放射能はなんとかしてわれわれの被曝にできるだけ結びつかないようにする以外にない。出た放射能が戻るわけではない。たとえば、セシウム137という放射性物質は、どうも日本政府の見立てによると、広島原爆の168倍強出たらしいということだけれども、欧米の科学者たちが自分たちの測定データにもとづいて再評価したところ、日本政府の評価の3倍以上であるということで、広島原爆の数百倍出たらしい、それが野山に降り積もったり、食品に含まれたりしているんだけれども、このセシウム137の放射能はやっかいなことに10分の1に減るのに約100年かかるわけです。そして今事故を起こしている福島の原発、中に溶け落ちた核燃料がどこでどうなっているかをきちんと見立てて、それを取り出す技術を開発して、取り出し終わったあとの放射能まみれの原子炉施設をコンクリート詰めにして、石棺状態にし終わるには、どう考えても50年はかかるので、これから我々は、数十年から100年単位でこの放射能の問題と向き合っていかなくてはいけないという、人類史上かつてなかった事態に遭遇していることは事実なんです。しかしこれは嘆いていてもしょうがないことです。だから我々は、汚染した土の上にいると体の外から放射線を浴びる「外部被曝」をできるだけ減らすために、削れるところは全部、何年かかろうが削り取らなければいけない。そして、公共の施設や学校のグラウンドなどは、削れるだけ削りつつある。

 ところが福島に行ってみれば、野山がなんと多いことか。見た途端にこれは大変だと思うけれども、削らない限り、これを10分の1に減らすのに100年かかる以上、生産や生活の場に近い里山などから優先順位をつけて、20年かかろうが30年かかろうが営々として削り続けるということをやらなければいけない。そういう意思を我々が持ち続けることができるかどうかがいま問われていることです。

 それから内部被曝。体の中に入ってくる放射性物質からの被曝を減らすには、とにかく食品の放射能汚染を徹底的に監視して、放射能が高いものが市場に出回らないようにすることです。それには、5つぐらいのことがあって、1つは、国や自治体による監視を充実させること。それだけでは能力にあまるので、民間検査機関の検査能力なども活用すること。それから生活協同組合や農民組合などがやっているように自分たちが扱う食品は自分たちがチェックするという体制づくりが進んでいますが、それを公的に支援すること。4つ目には、我々のような放射線の専門家の能力をもっと組織的に活用すること。5つめには、みんなが心配するのは、政府が発表した大根は1キロあたり13ベクレルだったかもしれないが、今日スーパーで買ったこの大根は気になるということだから、スーパーとか学校とか保健所とかに簡易型の測定システムを普及すること。それは安いシステムで低いレベルまで測ることは通常できないが、大規模な汚染が起こっているかどうか、基準を超えるような汚染があるかどうかだったら、数分で測るようなシステムならばそれほど難しいことではないので、そういうふうにして、人々の安心が得られるような体制づくりをしていく。そういうことを営々として、放射能をこれまでのように、警戒しつづけなければいけないことは確かだけれども、日本中を回っていて気がつくのは、放射能に対する異常なまでの関心の一方で、さっき言ったような、なぜこの国に原発が54基も増えてきたのかということについて、国際関係やあるいは、政治経済のあり方についての関心が著しく低いことです。この前祝島の豚を生産している農民とシンポジウムで一緒になったときに、シンポジウムの前日に、東京の八王子などで市長選挙があったけれども、投票率がわずか30%だということで、このように社会をつくるために自分が主体的にかかわるんだという姿勢が希薄な状態では放射能を怖がっても原発がなくならないのではないか、と非常に危機感をおぼえていました。だから、私の言い方をすれば、これは放射能に関する理科の問題でもあるけれども、こういう国のあり方、アメリカ従属型でできてきた一部始終を勉強する社会科や公民の時間でもあるので、ぜひ、そういう力を結集したいものだと思います。

 私はいつも、我々のできることはたしかに微力だけれども、無力ではないと言っています。無力と微力の間には決定的な違いがあって、ゼロ×1万はゼロだが、1×1万は1万という違いがある。微力とはいいながら、我々1人が持っている力はそんな微力ではない。私の体験によっても、1970年代、若干、35歳ぐらいの安斎育郎がテレビで森山欽司科学技術庁長官と対決するという番組が仕組まれたことがありましたが、番組の前の日になって、森山欽司氏からテレビ局に、相手が安斎なら俺は出ないといったという、一国の科学技術庁長官さえも一東京大学の文部教官―安斎育郎の固有名詞を覚え、それを恐れているわけだから、1人が肝をすえればかなりのことができるはず。ここには肝がすわった人が山ほどいる。夏に向けて大いにみんなでがんばっていきましょう。

(テープ起こし担当:前川 史郎)


 
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