原水爆禁止2004年世界大会
国際会議
マーシャル諸島
キリ・ビキニ・エジット自治体、首長
エルドン・ノート
ビキニ島民を代表し、この大変重要な国際会議に来ておられるご来賓のみなさん、参加者のみなさんに心からのごあいさつを申し上げるとともに、大会の成功を願う気持ちをお伝えいたします。原水爆禁止日本協議会はじめ日本の友人のみなさんに、あたたかく歓迎していただいたこと、この美しい国の訪問を手配していただいたことに深く感謝申し上げます。
1945年12月、米国のハリー・S・トルーマン大統領は、陸軍と海軍に、「原爆の効果を測る」共同核実験が不可欠だとする内容の指令を下しました。マーシャル諸島のビキニ環礁は、その地理的位置から実験場に選ばれました。
1946年2月、マーシャル諸島の軍部行政官を務めていた米軍のベン・H・ワイアット准将がビキニを訪れました。准将は、ある日曜の礼拝後、ビキニ島民を教会に集め、「人類の利益のために、世界の戦争を終わらせるため」核実験を米国が実施できるよう、島から一時退去してほしいと求めました。ビキニ島民の指導者たちは、ひどい混乱と悲嘆にくれた検討の末、「すべては神の思し召しにあると信じてここを出よう」と宣言しました。
当時ビキニの人口は167人で、ビキニ核実験に関わった米国の軍人・文民は4万2千を超えていました。
ビキニが核との関わりの歴史は1946年3月に始まりました。まず島民が、「クロスロード(分岐点)作戦」のため避難しました。以来、ビキニ島民の歴史は、島をめぐる科学的な概念を理解し、食べ物を見つけ、家族を養い、文化を守る日常的なたたかいです。このたたかいは、大部分がビキニ島民の手に負えない冷戦がもたらした出来事の中でおこなわれました。
クロスロード作戦の際、島民は125マイル東のロンゲリック島に移されました。環状のサンゴ礁からなるロンゲリック環礁は、あまりに小さいためマーシャル諸島の人々には定住不可能と考えられてきた無人島でした。ロンゲリック環礁は、ビキニ環礁の6分の1しかなく、水も食糧も不十分でした。悪霊が住む島との根深い伝統的な信仰もありました。移住後すぐに、島民は、ビキニと比べ、ココナツや他の農産物も実りが極めて少ないことにも気づきました。食糧が尽き、飢えに直面した島民は、食用可能な魚を食べて中毒に苦しみました。人々は、ロンゲリック到着から2カ月で米国にビキニへの帰島を求めました。
クロスロード作戦で使われた2発の原爆は、ここ日本の長崎に落とされた原爆とほど同じ規模のものでした。
1946年の12月から翌年1947年の1月にかけ、ロンゲリックの食糧不足は悪化しました。ビキニ島民たちは、ほとんど飢餓状態に陥りました。これと同じ時期、国連は、ミクロネシアを米国の信託統治領に指定しました。これは、国連が設置した唯一の戦略的信託統治領でした。この合意の下、米国は、「住民の経済、開発、自給を促進し、そのために、土地や資源の損失から住民を守るための」国連指令に従うことを確約しました。
1975年6月、ビキニ島民の定期健康診断で、「当初想定したより高い放射線が放射性テストで検知された」との結果がでました。米国内務省の官僚は、「安全に関し、ビキニの放射線汚染度はより高いか、または問題がある」と発表しました。そして、別の報告は、ビキニの水源も放射線でひどく汚染されていると指摘しました。
1975年10月、ビキニ島民は米国の連邦裁判所で裁判を起こし、島の徹底的科学調査を要求しました。しかし、アメリカの国務省、内務省、エネルギー省の官僚と、調査の費用と責任の所在をめぐって3年も無駄な争いが続いたことで、その間、島民は、残留放射線の危険の深刻さを知らされない状態に置かれることになりました。かつても現在も、ビキニ環礁の島々はアメリカの基準を上回る放射性物質で汚染されています。
1978年マーシャル諸島と米国のあいだに自由連合協定が結ばれました。協定の177項では、原水爆実験の影響を受けたマーシャル諸島の環礁に対する補償が定められました。これにより、ビキニ島民には15年にわた7500万ドルが支払われることになり、最初の補償が対象としていない分野は、後に補償するとの約束がされました。その中で、島民は、島民と土地が受けた被害の補償として、総額5億2000万ドルの支払いを求める訴訟を起こしました。米政府は、島民に支払われた7500万ドルが公正で十分で最終的な支払いだと感じていました。
これが私たちの被害の略史です。今年は「ブラボー核実験」50周年にあたります。1954年のブラボー実験は、マーシャル島民に甚大な被害をおよぼしましたが、私たちビキニ島民は、1946年以来被害を受けているのです。
米国は、核実験が人類の利益に沿うものであり、世界の戦争を終結させるためのものだといいました。しかし、核実験は、本当にこうした大義のためのものでしょうか。
私たちが負った犠牲はあまりにも大きすぎます。甲状腺の疾病やがんを含むさまざまな病気に苦しんできましたし、適切な治療を受けられないまま、いまも苦しみ続けています。
海洋資源に恵まれた美しいビキニ環礁、地上の楽園は完全に破壊され、ひどく汚染されました。私たちは故郷に戻りたい。しかし、帰郷の夢が実現するとは思えません。
私たちの伝統的な共同体生活は破壊されました。いま島民は、キリ島、エジット島、マジュロ(マーシャル諸島共和国の首都)で離れ離れに暮らしています。キリ島は、「刑務所島」と呼ばれています。行くところもないし、することもありません。島には礁湖がないため、漁もできません。ここでは飢餓にさえあってきました。
核の被害を受け、島を脱出してから58年たったいまなお、生存し、人間として生活する上で大きな困難を抱えています。さらに、米国からの補償措置削減にも直面しています。しかし、私たちは、公正で適切な補償を得るたたかいを続けていきます。補償と島民としての尊厳回復にむけた努力にたいする、みなさんの支持と連帯をお願いするものです。
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