原水爆禁止2002年世界大会
広島・閉会総会
テコティ・ロタン
フィジー核実験被ばく兵士の会
友人の皆さん、青年組織、女性組織のメンバーのみなさん、平和活動家の皆さん、
日本を訪れ、この原水爆禁止世界大会に参加する機会を与えてくださったことに感謝します。
私は、これから皆さんに、1958年から59年にかけてクリスマス島で行われたイギリスの核実験に参加したフィジー兵士のことをお話ししようと思います。私を含め、合計300名の兵士が、クリスマス島に渡り、その一部は島に6ヶ月滞在しました。なかには9ヶ月から12ヶ月滞在した兵士もいます。滞在期間中に私たちは核爆弾の爆発を何回も目撃し、爆風にさらされました。また、放射能に汚染された食物を食べ、汚染された空気を吸いました。私たちが放射線病に苦しんでいるのは、それが原因だと思います。
当時、フィジーはイギリスの植民地でした。私たち兵士は10代か20代でした。フィジーには仕事がなかったため、私たちはイギリス軍に入隊したのです。
私はクリスマス島に3ヶ月しか滞在しませんでしたが、その間に1回実験を目撃しました。クリスマス島から帰った私は、3つの重い病気にかかりました。一つは、重症の下痢、二つ目は胸の痛み、3つ目は記憶喪失です。私は今でもこれらの病気に苦しんでいます。私の妻は流産しました。最初に生まれた子供は、男の子でしたが死産でした。娘の一人は未熟児で生まれました。孫の一人には生まれつきの奇形があります。他の兵士たちも私と同じような病気にかかっています。約200人がすでに亡くなりました。
私たちがこの世界大会に参加したのは、被ばくに関する事実を収集する方式や手段を見つけ、それによって、フィジー政府に訴え、私たちの抱える問題の解決を援助してもらうためです。それと同時に、フィジー政府に、私たちの代わりにイギリス政府に補償を要求してもらうためです。フィジーには、私たちのかかっている放射線病を治せるような、経験のある医師や専門家はいません。私たちは原水協やヒバクシャの皆さんにお願いして、経験のある医師をフィジーに派遣してもらいたいと考えています。
フィジー核実験被ばく兵士の会は、1999年に結成されました。その主要な目的は二つあります。一つは私たちを核実験被害者と認定させることです。二つ目はクリスマス島から帰還した私たちが受けた被害や苦しみにたいする補償を請求することです。フィジー政府は、クリスマス島で私たちのした仕事を兵役と認定し、毎月50フィジードルを手当てとして私たちに支給しています。私たちの配偶者も同額を支給され、子供たちは一人半額を受取っています。また、フィジー政府は、私たちに戦争年金を支給することも認めました。しかし、この年金はまだ実際に支給されていません。さらに、政府は、クリスマス島被ばく兵士補償のために、わずかですが予算をつけました。このように、わずか3年で、私たちは、どれもわずかな額ではありますが、3種類の手当てを受取れることになったのです。これは正しい方向へすすむ第一歩です。私は2日前の世界大会国際会議で、このような成果をかちとることができたのは、神が私たちを助けてくれたからだと言いました。
ニュージーランド、オーストラリア、イギリスなど他の国の核実験被ばく兵士と協力して、私たちはイギリス政府にたいし被害賠償請求訴訟を起こす計画をたてています。私たちは、賠償請求訴訟をおこしたニュージーランドの被ばく兵士たちに感謝しています。彼らが訴訟に勝利すれば、それは、その後に続いてイギリス政府にたいする訴訟をおこす私たちにも、勝利への道を開くことになるからです。