原水爆禁止2002年世界大会

国際会議

ヒロコ・ランギンベリック

マーシャル諸島

 今日このような記念すべき厳粛な会議に皆さんとともに参加できることを光栄に思います。心からこれに感謝し、私をこの歴史的な場にご招待いただいた原水協と広島・長崎の友人のみなさんにお礼を申し上げます。

 私たちは広島・長崎原爆投下57年目にここに集まり、「核兵器のない平和で明るい世界」という共通の目標にむかって行動ともに行動しようとしています。私がここにいることが何かのお役にたつかわかりませんが、少なくとも私はこの行動に参加したいと思っています。

 私はヒロコ・ランギンベリックといいます。私はロンゲラップ環礁の地方議会の議員です。私は195431日ビキニ環礁に落とされた水爆の被害者です。被爆した時は12歳でした。私、姉、3人の少女、1人の少年はココナツ椰子の実をとっていました。その時に突然、水平線に閃光が見え、その後、光のような早さの爆風が島を襲いました。それは恐ろしい経験でした。あの時ほど恐ろしい思いをしたことはありません。私たちは眼がかゆくてたまらず、眠れませんでした。翌日になると吐き気、身体の様々な部分からの出血、抜け毛などが始まり、その他に病名不明の病気にかかりました。早朝に飛行機と戦艦が島にやって来て、私たちをアイリングナクという別の島に移動させました。そこは長いこと無人島だった島なので、私たちの状況はよけいに悪くなりました。水も十分な食べ物もなかったからです。そのため、今度はクワジャレンに移動しました。クワジャレンでは、何度も浜辺に連れていかれ、何時間も海水浴をさせられました。それが6ヵ月も続きました。クワジャレンで6ヵ月暮した後、私たちはつぎに、エジット島のマジュロ環礁に移住させられました。そこでは2年半暮しました。1957年にロンゲラップに帰りましたが、そのときアメリカのエネルギー省は帰島しても安全だと保証しました。本当に安全だったでしょうか。いいえ。そうではありませんでした。それどころかロンゲラップで暮したことのない女性で、私たちと一緒に島に帰った人のなかに、流産が多くみられました。生まれた赤ちゃん未熟児か、奇形児でした。墓地はだんだん広がりました。島の指導者たちは、もう一度移住するかをめぐって激論した後、子供たちのために、やむなく故郷の島を離れることを決めました。しかし残念ながら、移住のための船もお金もありませんでした。それで1985年にグリーンピースの援助でようやく船を調達することができました。これについてはいつも感謝しています。島を離れたり、戻ったりしている時期は、私たちにとってとても辛く、苦労の多い時期でした。私たちの状態(放射線の影響)のせいで、多くの場所で歓迎されませんでした。まるで私たちが悪い病気をもっているようでした。たしかにそうでした。でもそれは伝染病ではありませんでした。そのため、私たちは誇りや尊厳を奪われてしまいました。

私たちロンゲラップ島民の願いは、私たちが奪われたものを取り戻すことです。ロンゲラップの指導者や島民が毎日不眠不休でロンゲラップ平和ミュージアムの募金集めに取り組んでいるのはそのためです。私たちはこのミュージアムをマーシャル諸島の首都マジュロに建て、マーシャル人にアメリカの核実験の被害や実相を知らせ、意識を高める活動を行いたいと考えています。

 兄弟のみなさん、最後になりますが、ここにおられる皆さんの一人ひとりに「核兵器のない平和で明るい世界のために」共同することを呼びかけます。私たちは子供のためにそうする責任があります。子どもたちから未来を奪ってはなりません。どうもありがとうございました。