原水爆禁止2002年世界大会

国際会議

在ブラジル原爆被爆者協会 

向井春治(むかいしゅんじ)

在ブラジル被爆者に援護の手を差し伸べていただきたい

1.       私は、194586日、アメリカが広島市に投下した原子爆弾の被害者です。1955年から現在まで、ブラジルに居住しています。

2.被爆当時15歳でして、学徒動員で広島市舟入本町の軍需工場において作業中に被爆しました。被爆した地点は、原爆の爆心地より13kmでした。全身にガラスの破片が突き刺さって、血だらけになるとともに、大やけどを負いました。私は、被爆の直後のしばらくの間、気を失っていたのですが、迫り来る火災の熱で気がつき、江波の方へ逃げていきました。そこで、たまたま兄の昭治(しょうじ)(現在、在ブラジル原爆被爆者協会副会長)に見つけられ、助けられました。両親は爆心地より05kmの広島市本川町の自宅にいたはずですが、遺体は確認できませんでした。

3.戦後、両親の郷里の豊栄町で、きょうだい6人で一緒に生活しましたが、私は3年間寝たきりで生死の狭間をさまよいました。周りの者は「いつ死ぬのか、いつ死ぬのか、死んでもしょうがない」と思っていたそうです。親戚に頼ることもできませんでした。親代わりの兄が必死で働き、私たちの生活を支えてくれましたが、米ぬか、ねずみ、草や毒蛇を食べて生き延びるという、とても口では言えない生活状態でした。

4.そんな時、政府と広島県庁がブラジル移住を奨励しているのを知りました。「ブラジルに4年も行けば、大金持ちになれる」というのです。「もんこんな日本にいてもしょうがない。ブラジルに行けば腹いっぱいメシが食える」と思い、1955年にきょうだい6人でブラジルに移住しました。

5.私たちは、農業移民としてブラジルに移住し、農場に雇われて働きました。ブラジルに金のなる木はありませんでした。それどころか、待っていたのは、過酷な農業労働でした。それは肉体的にも精神的にもひどいものでした。言葉は判らず、地理も習慣も知らない中での生活は、想像できない程苦しいものでした。人間でない生活をしました。必死に頑張って、生き延びて来たのです。「子や孫は決して移民に出すものではない」と、私たちの間ではよく言っています。

61984年ですが、ブラジルの邦字新聞が在外被爆者にも、当時の原爆医療法、原爆特別措置法が適用され、検診や手当を受けられると報道しました。これは誤報だったのですが、これを契機に在ブラジル被爆者の名簿の作成が行われ、森田隆さん・綾子さん夫妻を中心にして「在ブラジル原爆被爆者協会」が結成されました。

会長の森田さんは、毎年帰国し、日本政府をはじめ関係者に必死になって在ブラジル被爆者の援護を訴えてきましたが、実現したのは、2年に一度の検診団の派遣だけでした。これは大変ありがたかったのですが、在ブラジル被爆者も歳をとり、またブラジルは広く、サンパウロに行くのも大変でして、徐々に受診者が減っています。「検診だけでなく、治療もしてもらいたい」というのが、私たちの率直な気持ちでして、最近はこの検診に対する期待はそれほど高くありません。ブラジルや南米在住の被爆者が、日本からしていただいているのは、この2年に1回の検診だけです。これ以外には何もしてもらっていません。

7.ブラジルの被爆者には、原爆の影響がどのようにあるのかについてよく知らされていません。被爆の影響は孫子に及ぶと聞かされて来ましたが、本当なのでしょうか。こういうこともあって、私たちは被爆者であることを知られないようにして来ました。

8.ブラジルには、日本のような公的医療保険制度はありません。医療保険は保険会社がやっているものだけです。保険会社と契約して医療保険の給付を受けるのですが、日本の皆さんには想像できないほど保険料が高額です。保険料の低いものもないわけではありませんが、この場合は安い保険料に見合った医療しか受けられないのです。高齢者になると保険料が急騰します。実際、72歳の私は、保険料が高くて支払えないので、医療保険に入っていません。したがって、少しくらい身体が悪くても医者にかからないことにしています。

私は、被爆50周年に広島県の招きで帰国し、その折り舟入病院で診てもらいましたが、左の肺が機能停止状態だと言われました。無理をしてはいけないと言われました。高齢化したブラジルの被爆者は、みな身体に異常・病気を持っています。しかし、医療費が気になり、思うように医者にかかれないのです。

9.日本政府は、今年度、5億円の予算で「在日被爆者渡日支援等事業」というものを始めました。海外にいる被爆者が日本に行って医療などを受けられるようにするため、渡日の旅費を支給するなどというものです。しかし、南米の被爆者は、日本に行くのに飛行機で最短でも24時間かかります。飛行機の乗り換えが必要な地域に住んでいるときは、さらにこれ以上かかります。こんな空の長旅をできるのは、比較的身体の状態のよい人だけであり、高齢で、しかもいろいろの病気を持っている被爆者の多くは、とてもこのような長時間の飛行に耐えられないのです。つまり、本当に治療の必要な人は渡日治療は受けられないのです。

10.私たちも被爆者です。日本国内の被爆者並みに援護をしてもらいたいと思います。とりわけ、日本の被爆者のように、お金の負担を気にすることなく医療が受けられればよいと思うことがあります。私たちは渡日治療ではなく、いま住んでいる地域で医療が受けられることを切に願っています。そのための医療支援をぜひ日本政府にお願いしたいと思います。

11.私たちは、日本政府と広島県の奨励がなければブラジルに移住しませんでした。国策に従ってブラジルに移住したのですが、今になって、お前たちは日本に関係ないという態度をとるのです。私たちは、日本生まれの日本人です。同じ日本人でありながら、海外に出たからお前たちのことは知らないなどという日本政府の態度は余りにひどいのではないでしょうか。

私は、私たちが経験した、あのようなむごたらしい生活は決して誰にも話すべきでないと思って来ました。家族にも話しませんでした。しかし、日本政府がこのような態度をとる限り黙っていられないと思うようになりました。そして、森田隆さんに続き、在ブラジル被爆者として、日本政府と広島県を訴える裁判を広島地裁に提起いたしました。

どうぞ私たち在ブラジル被爆者の裁判に対して絶大なるご支援をいただきますようお願いいたします。と同時に、大阪と長崎の裁判所でたたかわれている在韓被爆者の同じような裁判にも引き続き大きなご支援をいただきますようお願いいたします。