原水爆禁止2002年世界大会
国際会議
日本被団協 事務局次長
小西悟
被爆者からの挨拶
はるばる海の向こうから、そして日本の各地からおいでくださった友人のみなさん、わけても苦痛に耐えてご参加くださった被爆者・核被害者のみなさん、今日は。
日本被団協事務局次長の小西悟でございます。
被団協を代表し、全国の被爆者を代表して、心から連帯のご挨拶を申し上げます。ようこそ広島へおいでくださいました。
「広島は、平和の問題を考えるのにもっともふさわしい場所です」と、数年前に私はこの壇上から語りました。今日もまた私はおなじことを繰り返さねばなりません、しかもいっそう重く、いっそう深刻な意味をこめて。
2年前、私たちの多くは「核兵器のない21世紀」、「核兵器も戦争もない世界」への大きな期待と展望に胸をおどらせてここに集いました。NPT再検討会議のすばらしい成果をにぎりしめていました。
しかし、ブッシュ政権の誕生によって事態はこの1年余のうちに急変し、いま世界に不気味な暗雲がたれこめています。
アフガンに対する「テロ報復戦争」から「悪の枢軸」発言。そしてNPR(核態勢見直し)です。
この半世紀、「広島」の警告が今日ほど深刻な意味をもったときはありませんでした。1945年以来の最大の危機です。いまこそ、あらためて広島の意味を問い直し、捉えなおすときです。
57年前の8月6日、私たちがいま座っているこの場所で、灼熱の太陽のもと、10万に近い人々が、史上もっとも残酷な姿で殺されました。ほとんどが子供と老人と女性でした。
(広島は「軍都」であったから攻撃されたという人があります。けれども、あれは違います。1945年の広島に戦力はまったく残っていませんでした。)
兵隊は40歳近い老兵ばかり、しかも小銃はおろか、武器らしい武器の持ち合わせもありませんでした。軍事工場で重い機械に振り回されていたのは15〜6歳の少年、少女でした。私は16歳、造船所で船をつくる作業をしていました。しかし、7月ごろからは船の材料の鉄板がなくなりました。
私は臆病な少年でしたが、当時の広島の戦闘能力が限りなくゼロに近かったことだけは私にもわかりました。あの7月、私たちが作らされた最後の船は、竜骨がくの字に曲がり、いたるところから水漏れのする欠陥船で、とても使い物になるとは思えませんでした。
原爆は、その広島へ落とされたのです。
閃光と爆風ときのこ雲、そして、夜中炎々と天を焦がして燃えつづけた炎の海の鮮烈な衝撃の恐怖は忘れようもありません。その炎の下には、生きながら焼き殺された無数の母たち、幼児たちがあったのでした。
翌日、何にもなくなった広島の街、ぽかんと空っぽになっただだっ広い焼け野が原。「ない!」「何もない!」という印象。そしてあの搾り出すような呼び声「水をくれ!」一瞬私の網膜がとらえたその姿、それは白くぶよぶよに煮えてふくらんだ「とうふ」以外の何ものでもありませんでした。
それは、きっと爆心地の近くであったはずです。しかし、私はそのあと何をしたのか、何を見たのか分かりません。一切の記憶はここで途絶えてしまいました。
いっしょに歩いていた友人たちがのちに語ったところによると、私は、いたるところに散らばった死体やけが人、水槽にすがりついて息絶えた人の群れ、黒焦げの満員電車、川面を埋めて浮き沈みする死者たち、それらすべてを見いるはずです。しかし、私にはあの「とうふ」顔のほか何一つ思い出せません。
その顔がのちにたえず私に問いかけます。「この半世紀、おまえは何をしてきたのだ?」と。
体調をくずして無気力になるときには、きまってその「とうふ」顔が現れます。そして私の項(うなじ)から呼びかけます。「何をしているのだ、おまえ? アフガンを見ろ、イラクを見ろ、沖縄を、横須賀を見ろ」と。あんなに欲しかった水をくんでくれなかった16歳の少年への恨みを、いつかその人は、許してくれるでしょうか。
絶対に2度とくりかえさせてはならない「核戦争地獄」=人間の表現と想像をはるかに超えた残虐さの極限が、いまにも中東に、アジアに繰り返されようとしています。しかも、ほかならぬ日本政府がアメリカのその核脅迫の最大の支えになっているのです。
2000万のアジア同胞を虫けらのように惨殺した日本、広島・長崎を身をもって体験した日本が、またしても戦争の加害者となる。そしてそのときは沖縄が、横須賀が、佐世保が・・・日本全土が核攻撃の出撃基地になるのです。
被爆者は喉も裂けよと叫びだしたい思いです。
広島を見よ、長崎をみよ。死者たちの声に耳を傾けよ!
みなさん、広島の土に眠る死者たちの願いを世界のすみずみに伝えてください。