原水爆禁止2000年世界大会
国際会議

アオテアロア・ニュージランド平和評議会
名誉議長
ジェラルド・オブライエン

 議長ならびに友人のみなさん、

 広島に来ることは、核兵器という絶対悪と、人間の息づく命と魂にたいして核兵器を使用することになった、ゆがんだ人間の考え方に真っ向から立ち向かうことです。この地で55年前に起きた出来事によって、数千年にわたる人類の発展と、そして文明の進歩を可能にした道徳体系の創出が、全て無に帰したように思えました。人類の黄金時代を約束していたはずの進歩した科学は、この地で行なわれた言語同断の犯罪に加担することによって、それが本来もつべきだった道徳的な中立性を永久に汚し、人類の善良な進歩を可能にする力を自ら放棄したのです。この科学の堕落の影響は、現在でもなお私たちを脅かしつづけています。

 諸国の指導者たちは、地上の生物全てを危険にさらすことになるまで、文明を捻じ曲げてしまいました。暗黒時代を除けば、国の指導者たちが、これほど狂気をもって、神の力を行使しようとしたことはなかったでしょう。これについて、アメリカの著者リチャード・ターナス氏は、人類の背負った重荷を軽減してきた科学は、今や人類の生存にとって、かつてない脅威を及ぼしていると書いています。広島と長崎にたいする犯罪を引き起こした道徳性の放棄は、やがて政治的、軍事的権力、大企業のあいだの癒着を増長させ、それによって、現在支配的となっているグローバル化という名の新たな搾取の時代への道を開くことになったのです。

 かつて大気圏核実験を阻止するためにフランスの核実験場ムルロアにニュージーランドの戦艦を派遣したこともあり、またその政権が、フランスの核実験の是非を問うために初めて国際司法裁判所に訴えた、ニュージランドのノーマン・カーク首相は、1973年に国連総会で発言しました。彼は、当時見られた大国間の関係の緩和を、中小国や国連自身にも何の利益にもならないとして批判し、今日もそうであるように、この関係の緩和は、一握りの大国のあいだの黙認によるなれあいがもたらしたものと指摘し、安定した平和、協力関係、国際秩序を必要とする世界の他の国々は、歴史的に避けられない帝国間の衝突の可能性を少しも考慮していない、一時的な脆弱な状況に甘んじていることはできないと訴えたのです。

 今日再び見られる緊張緩和がそうであるように、かつての緊張緩和を可能にした力の均衡もまた、力以外の手段による各国の国益追求を隠す虚構でしかありませんでした。アメリカが現在果たそうとしている役割、「ならず者国家」への攻撃、従属国にたいするガイドラインの押し付け、国連、国際協定、国連憲章の誓約などに縛られない勢力としてNATOを操り、利用するやり方などに見られるような、一方にだけ有利に力の均衡を傾けようとする企ては、最終的には、対決に至ることは避けられないでしょう。核兵器が依然として存在し、それが拡散していること、そして通常兵器が広範囲に広がっていることから、私たちは、この歴史的な対決という現実が相変わらず続いていることに危機感をもっています。

 軍備拡大は依然として世界が抱える最大の問題です。核兵器は生物に対する最大の脅威であり、核兵器をはじめとする軍備のための資源の浪費が、数百万人の死を招き、30億人以上の困窮の根源となっているからです。それなのに主要な大国の政府は、軍縮、特に核軍縮に断固として反対し、独占資本による世界支配の非合法な手段に固執する一方で、その真の意図をとりつくろってごまかす以外、何をすることも頑強に拒否し続けています。

 服従を拒否する小さな国、特に、えん曲して(複数の世界が道義的にあり得るかのように)第三世界とよばれている世界に属する国を悪者扱いすることで、核兵器を含む兵器拡散の継続が正当化されています。しかも、核兵器は、NPT条約やその他、核兵器が全人民にたいする脅威として存在し続けることを保障するために作られた仕組みそのものによって拡散し続けているのです。悪者扱いされた国々は、逆説的に「ならずもの国家」と呼ばれていますが、実際には、人類の生存に対する脅威は、これら核兵器を獲得することで、自国の「防衛」を確立しようとしている国ではなくて、本当の「ならずもの国家」である核保有国自身から生じたものです。なぜなら、現在までに起きた核兵器やその死の灰による死の責任は、全て核保有国にあるからです。しかし、この単純明快な真実は、常に無視され、かつて一度も公表が許可されることはありませんでした。

 このような悪者扱いは、自分たちは世界に民主主義をもたらしているのであるという核大国の主張に照らしてみると、矛盾しています。これは新右翼の支配につきものの付属物であり、民主主義国家自体における、演出されたニュース・メディアによる宣伝によってのみ効を奏するものです。このような、現代の世論操作技術は、もともとベトナム戦争で導入され、ブッシュの対イラク戦争で完成され、NATOによる対ユーゴスラビア戦争の惨禍のなかで、さらに洗練されたものになりました。

 かつての世代に、核兵器の悪に危機感をもたせるのにあれほど効果的であったかつてのやり方、つまり、人々の認識を高め、啓蒙し、抗議することだけが、私たちが、まだ民主主義が残っているうちに民主主義を行使し、世論と抵抗運動を再び活性化することを可能にするのです。

 私の国、ニュージーランドでは、昨年11月に、反核を誓約する政府を再び選挙で誕生させることによって、私たちは過去の反核・平和のたたかいの残りを基礎にして、再度、希望に燃えて世界の好核階級に立ち向かい、核保有国を彼らの外交ゲームの土俵上で打ち負かすことを目指した新アジェンダ連合をつうじて、国際的なイニシアをとっています。そして新しい世代は、学校で、献身的で進歩的な教師をつうじて、私たちがニュージーランドの反核主義と、国内法において達成したものの価値と正しさを学んでいます。

 カーク首相は、1973年の国連総会の演説で、各国の国民はもう戦争がいやになり、核兵器やそれに伴なう脅威を拒否しているが、その一方では、大国の政府が無視してきた平和にむけた進展を望んでいると自分は確信していると述べました。

 カーク首相は、「大国」とはそもそも、単に他国よりも多大な被害をもたらす力がある国なのか、それよりも、そのような力をもちながら、それにふさわしい責任を果たすことができなかった国ではないのか、そして自分が守っている羊を襲って食べることができる番犬になることを自認した国ではないのかと問いかけました。その上で、われわれは、力を最優先する価値基準を問題にすべきではないだろうか、そして真に偉大な国とは、自国だけでなく隣国の国民の生活の質を大切にする国であるという信念に基づいた別の価値基準、人間的で文明的な基準を要求すべきではないかと訴えたのです。

 これらの課題は、各国政府ばかりでなく、国連自体が取組むべき課題でもあります。現在の国連は、安全保障理事会における拒否権、常任理事国という制度の維持を真剣に見直さなければなりません。これら二つの制度は、世界秩序の最高レベルにおける民主主義を大きく捻じ曲げており、それはもはやどんな正当化もできなくなっています。各国政府もまた、軍縮交渉における部分措置の「積み重ね主義」が進展を意味するというごまかしを暗に受入れている態度を見なおさなければなりません。なぜなら「積み重ね主義」は、辞書ではもっと適切な定義がされ、「クライマックスがないままに、部分措置を付け加えること」としていて、実際には、私たち全員が要求している目標からの後退あるいは逸脱になっているからです。

 ニュージーランドの現政権は、先に述べた1972年から1975年までのカーク政権時代から学ばなくてはなりません。ニュージーランド国民は、反核法を成立させて以降、核時代の権力についての基本的な真理、すなわち核兵器は、国民全体の自殺の時のみに使用することができるという真理に気づいています。しかし、彼らは、天然資源を浪費し、数十億の人々を貧困化し、多くの被爆者をはじめ、核兵器の存在、使用、実験に苦しめられた多くの人々の要求に応えることを拒み、多くの人々の生きる権利を奪っていながら、不当な権力をふるって、最も有利な立場に君臨するために、核兵器に固執するという狂気の欲望にかられ、人々の要求や訴えや法律を踏みにじるという、核保有国の国連における不遜な態度をまだ懸念しています。

 私たちは、国際法が核兵器の保有によって踏みにじられ、人類を守るために設立された国際諸機関が、超大国の横暴の犠牲となっているという単純な事実を直視しなければなりません。国連においては、中小国も投票という力をもっていて、その勇気があれば、その力を行使できるのです。これらの国は、国連総会における票決で、大半の票を握っているからです。今こそ、彼らは、団結して、自らにたいしてかけられている経済戦争の脅しを無視し、国連において投票という力を行使し、国連を改革し、世界の中小国と世界の諸国民の力を強化すべき時です。

 新アジェンダ連合は、中小国がそれを実現する手段を提供し、またニュージーランド政府もこれを利用しています。

 新しい千年紀を迎えようとしている私たちは、社会や経済の組織や、今日、はっきりとその姿を現したグローバル化の新帝国主義に代表される利益欲という原動力から生じる平和にたいする歴史的な危険性に依然として直面しています。

 例えば、日本の例を見てみましょう。日本では、世界の進歩的人民の羨望の的であり、人類の偉大な文書である日本国憲法の改悪を、最大の連立与党が堂々と主張するなど、政府の行動において、平和に対する重大な脅威のきざしが顕著になっています。首相は、封建時代の過去に根ざした、国際的には受入れられない概念へ逆戻りするという意図を表し、その代わりに平和戦略を提示するわけでもありません。このことは、近隣諸国に過去に日本の軍国主義が行なった横暴を思い出せ、戦りつさせたにちがいありません。さらには、労働者が労働組合を組織する権利を破壊するグローバル化した労使関係法の概念も、台頭しつつあります。

 各国政府が、国連憲章で誓った誓約や国連の諸決議に従って平和を希求すべき世界において、日本では、下される政治決定は、日米間で合意されたとは言うものの、実質的には日本に押し付けられた「ガイドライン」に、意図的に従ったものであることを見ることができます。世界にとって危険な、これらガイドラインに合致した政策は、平和憲法を変えて、企業に都合の良い戦争法を日本に適用することを狙ったものであり、好戦的な国の亡霊を再びよびおこすものです。日本国民とは、真に平和を愛する国民であると考えている私たちにとって、日本政府は、国内的にも、国際的にも、反動的に思えます。日本政府の立場は、グローバル化した企業国家主義に屈服した政府に特有の立場です。世界の人民の生存と生命を脅かし、その手段を奪っているこの悪弊に対し、収奪された数十億の人々の初めての抗議の訴えであったシアトルやワシントンでの行動に見られるように、人民の認識の高まりがあります。

 しかし、それでもなお、知識経済によって、コンピューターや知識を利用できる人と、数十億のそれができない人々とのあいだの格差は急速に拡大し、これらの人々には、教育、経済的正義、最低限の医療などでさえ、とうてい手の届かないものであり続けるでしょう。今後、正義を求めてたたかう人々は、NATOや、イラクやユーゴに対して戦争を行なった人々と同類の勢力の攻撃にさらされるに違いありません。このような地獄が、日々、近づいているのです。

 ますます露骨になるグローバル化の欲望と、それを支える核兵器によって、平和は明らかに重大な脅威にさらされています。今後、国際通貨基金(IMF)、世界銀行、世界貿易機関(WTO)などの世界的諸機関による経済的な締め付け、そして企業の言いなりの各国政府の声にかき消され、人民の声がほとんど取り上げられない、身動きのとれない国連安保理にたいして反発が起こるのを阻止することは難しくなるでしょう。グローバル化の土台は、核兵器維持、増強、近代化と水平拡散です。原水爆禁止世界大会が人類の直面する最大の課題と常に位置づけてきた核兵器の廃絶こそが、最も重要な課題であることに変りはありません。

 平和運動は、多くの進歩的な人々がずいぶん前から厳然たる事実として理解していたこと、すなわち軍国主義とは国際資本の意図を強制するための武器であり、全てのレベルで民主主義の規制がきかなくなった国家は、もはや富裕階級の利益を管理する執行委員会にすぎず、個人を服従させる取り締り機関になる、という事実を、ようやく認識したのです。現在の世界秩序の構造は、このような考え方のなかで機能しています。これに従わない人々は、誰であれ、手ひどい攻撃を受けるのです。核兵器が保持され、開発され、水平拡散されているのは、まさにこのためです。

 グローバル化とは、帝国主義を現代的にえん曲に言い換えたものであり、私たちがこのことに気付かないと、技術革命である第3次産業革命を利用して、人類の暮らしを発展させることができなくなるでしょう。この革命を全員の利益のために利用できなくなるばかりでなく、この革命の性質上、かつて奴隷制度の導入や封建制度の創出がそうであったように、世界は確実に、持つ者と持たざる者に分断されることになるでしょう。持つ者とは、テクノロジーの道具を支配し、利用できる者であり、持たざる者とは、経済的な収奪によって、テクノロジーではなく、自らが新しい奴隷にされてしまう人々です。

 軍事基地、軍事同盟、軍事ブロック、NATOやアメリカによる戦争、そしてアメリカの押し付けるガイドラインは、明らかにグローバル化過程の付属物であり、これによって地球の資源が枯渇し、人類の将来の幸福が損なわれることは確実です。これらはそれぞれが別々の問題であり、段階的に、従って推論すれば、順次、成功裏に、一つずつ別個に対処することができると主張することは、過去55年間の核軍縮の失敗が示しているように、自己欺まんの夢の国に生きていることに他なりません。部分措置を段階的に積み重ねる道を追求しようとすることは、それによって目標が達成できるということを推定していますが、このような道をたどることは、実は、制度全体の爪先をいじるだけに終ってしまうのです。

 シアトル、ワシントン、沖縄での行動は、グローバル化とは古い帝国主義の、より悪質な形態であるという認識こそが、平和運動に、単に制度の及ぼす末端の影響に対処するだけではなく、制度の核心に迫る可能性を与えるという、新たな希望が生まれたことを告げるものでした。

 現在、反対運動の高まりに対抗するグローバル化推進者のキャンペーンにおいて、核保有国がさかんにおこなっている宣伝は、安定が達成され、悪者扱いされている「ならずもの国家」を除けば、核の脅威はそれほど大きくなくなった今日、反核活動はもはや意味がないという考えを青年に植え付けることを目的としています。反核主義は、たいくつで時代遅れであるかのように言われているのです。これは、若者の心と頭をどちらがうまくとらえるか、という新たなたたかいです。そして私たちには、核の悪にたいし、初めて反対が怒りとともに湧き起こる基礎となった理想に立ち返るという課題を与えています。

 さらに、このような青年にたいする新たな宣伝と並行して、世論操作によほど自信のある核保有国は、何の臆面もなく、新たな戦略防衛構想(SDI)の提案を再び行なっているのです。こうして、G7の利害に対する深い懸念に表れているように、帝国間の衝突が、再び現実のものとなろうとしています。

 各国政府は、道徳的に軍縮を誓約している政府でないかぎり、選挙をつうじて行使される国民の圧力によってしか、その政策を変えることはありません。私たちにおなじみで、すぐに実施できる多種多様な方法を駆使して、常に国民の認識を高めていくことによって、反核主義を国の政策として確立し、好核勢力が手出しできないものにすることは、絶対的に可能なのです。私たちはニュージーランドでそれを実行し、核大国が南太平洋を不安定化することを決める前には、南太平洋全域に真の非核地帯を設置する一歩手前までいったからです。

 世界の各地域はそれぞれ、個別の問題を抱えています。特に現在の南太平洋地域がそうです。この地域への武器の流入や、フィジーやソロモン諸島での民主的政権の転覆、バヌアツへ加えられている圧力などは、いずれも国際的な調査が必要です。核廃棄物、核武装艦船の通過の問題は、国連の非核地帯の基本概念および、当初、オーストラリアのホーク首相がアメリカの国益に沿って骨抜きにしたラロトンガ条約の基本概念の見直しと改革を必要としています。

 私がこれら地域的な問題をお話するのは、反核・平和の敵が準備している計画にたいし、平和運動が単純に反対しているだけにならないよう、もっと慎重に対処しなければならないということを強調したいからです。単に反対しているだけになるというのは、運動は後進的にもなりえるにもかかわらず、いかなる運動でも進歩なのだと信じている時に、私たちが陥りやすい誤りです。

 では、私たちの第一の目標は何であるべきなのか。それは、当然、核兵器廃絶条約締結についての交渉を直ちに開始させることです。外交官は、現在の環境では、それができないと言うでしょう。ですから、55年もたった今、この環境を変えることこそが、私たち普通の人間の義務であり、責任であり、また私たちにはその力があるのです。私たちの国の政府にたいし、国連が、その第1号決議を実行するように要求することで、私たちは世界の機構の活動を再び活性化し、真の人類という家族を形成するうえでの役割を果たし、最終的に、私たちが希求してやまない涅槃である、人間社会における正しい秩序を確立する道を歩み出すことになるのです。

 私たちの国民や、政治的代表者、政府、そして国連にたいし、イギリスの歴史家A.J.P.テイラーが述べた基本的な真実、すなわち自由な国の市民は誰でも、世界から核兵器をなくすことに貢献する義務があり、どのような国、政治体制も、その維持のために大量殺人をおこなう権利はないという真実を語っていこうではありませんか。


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