長崎原爆松谷訴訟弁護団
中村 照美
長崎原爆松谷訴訟の最高裁判決について
1. 上告棄却
2000年7月18日、最高裁判所は、国の上告を棄却する判決を出した。松谷英子さんの勝訴が確定した。この日、松谷さんは「被爆者全員の勝利です」とあいさつし、その笑顔はたたかい抜いた勇気と優しさにあふれていた。
2. 事件概要
�@ 長崎に原子爆弾が投下された昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、松谷英子(当時3歳5ヶ月)は、爆心地から約2.45キロメートル離れた長崎市稲佐町の自宅の縁側付近において、爆風により飛来した屋根がわらに、左頭頂部を直撃され、左頭頂部頭蓋骨陥没骨折、一部欠損を負った。この傷害により一時意識不明、上下肢運動機能喪失などに陥ったが、マーキュロクロムを塗布する治療を受けたのみであった。その後数日間は自宅にとどまっていたが、下痢症状があり、頭髪が少しずつ抜け始めた。寝たきりの状態がつづき、頭髪はいっそう薄くなった。頭部の傷口はふさがらず、水が噴出すように腐臭の強いうみないし分泌物が流出し続け、一応の治癒をみたのは、被爆後2年半ほどたってからであった。英子は、右片麻痺(脳萎縮)、頭部外傷と診断され、右半身不全麻痺、右肘関節屈曲拘縮などの傷害をうけ今日にいたっている。
�A 英子は、この傷害が原子爆弾の傷害作用に起因する旨の認定の申請を、1977年と1987年の2回おこなった。いずれも申請は却下された。英子の将来を想う母の願いもあり、1988年9月26日、却下処分の取り消しを求めて、国を相手に裁判を起こした。たった一人のたたかいを、被爆者をはじめたくさんの支援する人びとが支え、1993年5月26日、英子勝利の判決を勝ち取った。しかし、国は非情にも福岡高裁に控訴した。
裁判所での英子の「ある日夢を見ました。さっそうとハイヒールをはいて歩く自分を。目がさめると頭のうずきと足の痛みが私を現実に戻すのです」との訴えは、裁判所をも動かす力をもっていた。1997年6月27日、福岡高裁も英子の訴えを認める勝訴判決を出した。しかし、不当にも国は最高裁へ上告した。
松谷裁判を支援する輪は、全国ネットワークの結成となり、上告棄却を求める署名は、2年余りで53万を超えた。最高裁の早い時期での勝利は、広範な支援の力がもたらしたものである。
3. 最高裁の判断
�@ しきい値理論とDS86について
国の主張の根拠とされた、しきい値理論とDS86(被爆線量評価基準、Dosimetry
System of 1986)の機械的適用は、排斥された。その理由として、
a) DS86が未解明な部分を含み、現在も見直しが続けられていること、
b) DS86としきい値理論の機械的適用では、遠距離被爆者に発生した放射線障害(脱毛など)を説明できないこと
を指摘しているのは、従来の原告英子の主張を採用するもので、重要な判断である。もはやDS86としきい値理論に依拠して、遠距離被爆者を原爆症認定から排除することは許されない。
�A 松谷さんの原爆症認定について
�@ の考慮を前提に、具体的な松谷さんの原爆症認定にあたり、
a) 松谷さんの脳損傷は、かわらの打撃のみによっては説明できないこと、
b) 松谷さんには脱毛(といった急性放射線障害)が表れていたこと、
から、松谷さんの脳損傷は、かわらの打撃により生じたものであるが、放射線によって重篤化し、または放射線により治癒能力が低下したため重篤化したものであると認定することもできる、とした。とくにbの判示に照らせば、被爆後、急性放射線障害が表れたかどうかが重要になる。そして、おおくの遠距離被爆者に、急性放射線傷害が表れていることを考えれば、遠距離であるがゆえに原爆症と認定されなかった被爆者のおおくに、原爆症の道を開いたといえる。
4. 爆症の認定の現状
2000年3月現在、被爆者は約29万7000人いるが、原爆症と認定されたものは、2116人であり、全体の0.7%にしかすぎない。しきい値理論とDS86によって認定を拒まれていることを示している。
5. 判決の効果
�@ 長崎市は、7月26日、厚生省に対して、被爆地域の是正を申し入れた。この時、松谷裁判の最高裁判決は要請行動におおきな力と根拠をあたえた。
�A 現在、原爆症の認定を求める3件の裁判が係属している。核裁判所に対し、被爆の実相に目を向けさせるとともに、人びとのいっそうの理解と支援を広げることを、松谷英子は心から願っている。
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