原水爆禁止2000年世界大会
国際会議

ロンゲラップ島民核実験被害者
ヒロコ・ランギンベリック
 

 私はロンゲラップ島民とロンゲラップ市長を代表して、皆さんにご挨拶させていただきます。これから皆さんに、1954年3月1日に何が起きたのかをお話します。

 その日、私は水平線に大きな閃光を見ました。その後、爆風がきました。その日は月曜日で、私たちは学校へ行きました。学校が終わってから、姉、他の3人の女の子と1人の男の子と一緒に、ジャブアンに行き、ココナッツを採りました。帰ってくると、爆弾の灰で目が曇り、夜になると体中がかゆくてねむれませんでした。

 次の日の朝、吐き気がして、何もたべられませんでした。その日に飛行機が飛んできました。飛行機に乗っていた男たちは、直ぐに島の井戸に行き、井戸水を調べました。でも、私たちには何も言わずにクワジャレンに帰っていきました。次の日の朝、また飛行機と大きな軍艦が島にやってきて、私たち島民を全員アエレナエに連れて行きました。私たちはクワジャレンで、毎日、朝に浜辺に行き、正午まで海に浸かり、午後もまた昼ご飯の後、浜に行って夕方の5時まで海に浸かって体を洗いました。クワジャレンにいた後、エジットに行き、そこで2年間暮らし、またロンゲラップに戻りました。ロンゲラップに戻ってからも、また何回か核実験が行われました。だから私たちにはガンが多いのです。脳腫瘍、甲状腺ガン、胃ガン、白血病などです。

 補償のお金について話します。私が甲状腺の手術を受けたとき、25,000ドルもらいました。自由連合協定で、3ヶ月に一度、多い人は108ドルもらえます。でも85ドルのときもあります。医師は、いまではほとんどがマーシャル人で、アメリカの医師は3,4人しかいません。

 お話を終わる前に、アバッカ上院議員を通じて、アバッカさん、ネルソン・アンジャインさんとともにこの会議に招待してくれた日本原水協に感謝します。本当にありがとうございました。
 

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