1997年3・1ビキニデー

「核兵器のない21世紀を:広島・長崎・核実験被害告発の国際シンポジウム」

参加海外代表の発言



ジェームズ・マタヨシ
ロンゲラップ環礁市長(マーシャル諸島)

 今日ここに、ロンゲラップの島民、特に1954年3月1日に死の灰を浴びた人々を代表して参加できることをたいへん光栄に思います。マーシャル諸島でおこなわれた原水爆実験により、私たちロンゲラップ島民は、1945年に原爆を落とされた広島と長崎の人々と、同じ運命のきずなで結びつけられました。広島と長崎の被爆者の方々のように、私たちも1954年3月1日ビキニ環礁で爆発した爆弾により被爆しました。「ブラボー」という暗号名をもつこの爆発は、1946年から1958年の間にビキニおよびエニウェトク環礁において実施されたことが知られている66回の核実験のひとつであり、その中でもっとも大きな威力をもつものでした。
 ロンゲラップの人たちの体験は被爆者と同様で、被爆者の方々がよくご存知だと思いますので、今日は、核実験の遺産を背負った私たちの現在の生活についてお話ししたいと思います。
 1985年、私たちは先祖代々住み慣れた島から離れることを余儀なくされました。島民の間に深刻な病気が出始めていたからです。ロンゲラップ島住民の三分の一が甲状腺の切除手術を受けました。こうした医学的問題が続いた結果、私たちは1985年にメジャット島へ移住したのです。
メジャット島はクワジェリン環礁の最北端にある小さな孤島ですが、放射線に汚染されていません。しかし、メジャットは住みよいところではありません。メジャットは物資の供給も 資源も乏しい島です。医者もおらず、病院からも遠く離れています。メジャットは私たちの故郷ではありません。
 1954年の3月1日から43年がたちましたが、ロンゲラップは負の遺産を受け継ぎ続けています。最近では、アメリカとの交渉で前進のきざしが見られています。しかし遅きに失したと言わねばなりません。残念なことに、何千年も前にロンゲラップを築いた人々の子孫である私たち島民の長老たちはもうほとんどが死んでしまいました。汚染を除去する作業を妥協を許さずにおこなっても、ロンゲラップ環礁の北部の残留放射能を、人が住めるほどのレベルにまで下げるには多くの年月を必要とするでしょう。
 こういった理由により、私たちが直面している困難は、政治的でもあり道徳的な問題でもあります。核兵器をつくり出し核実験をおこなってきた勢力のものの考え方、その結果ひきおこされた被害は今なお勢いを失っていません。私たちは被害者として、同じような経験をしたみなさんに、すべての核兵器をなくし製造をやめさせる努力に合流するなかで連帯の意を表明したいと思います。
 親愛なるみなさん、こうした考えが将来の世代とこの地上の生き物すべての生物を救う唯一の道をひらくのです。そしてこれこそが私たちをつなぐ絆なのです。この絆は人類すべてをつなぐものです。
 ご静聴に感謝を申しあげるとともに、私たちすべてが平和のうちに生きられることを祈りたいと思います。平和を!
 

ネルソン・アンジャイン
ロンゲラップ環礁地方自治体議員(マーシャル諸島)

(原文の日本語のまま)
 御紹介にあずかりましたように、私はマーシャルからまいりました。私はロンゲラップ島に住んでいました。ロンゲラップ島は一番ビキニ島に近い島です。その島から私はまいりました。
 1954年のことについてみなさんにお話します。みなさんがご存知のように、ロンゲラップは1954年、第五福竜丸と同じように被爆した島です。その時、私の兄さんが村長をやっていました。マジュロからアメリカ人が来て、「おまえたちの命は少ししかありません」と私の兄さんに言いました。「なぜ、そう言いますか」と私の兄さんが聞くと、「ビキニ環礁で水爆実験をやっているから、おまえたちの命はこれしかない。少ししかない」と言いました。私の兄さんが、「どうしてほかの島に(私たちを)移さないのか」と聞くと、「アメリカから命令がないから。そのままにしていなさい」と。その考えは悪い考えです。人体実験ですね。アメリカはそれをやりたくて、そういう風にロンゲラップの人をそのままにしていました。
私はアメリカの方に行ったんですけれども、その時、1957年にロンゲラップ島に帰った10人と被爆者とに、アメリカはプルトニウムを注射していたという話を聞いたのです。私たち、私の島の人をロンゲラップから移さなかった、人体実験をやりたかった、そのような考えをアメリカはもっていました。マーシャルを知っているアメリカ人にこのことを話すと、「それはうそだ」と言います。
 私は1973年にロンゲラップ島の村長になりました。私がロンゲラップ島にいた時は、窓のない家に住んでいるのと同じように住んでいました。なぜかというと、アメリカの医者が来て、人を調べてそのまま帰ります。何も言わずに。私はどうしても何か知りたいと考えて、1974年に初めて日本に来ました。なぜ日本に来たかというと、一番はじめにやられたのが日本人です。日本にはいい科学者と医者がたくさんいて、とってもいい科学者です。だから、ロンゲラップの人を助けてください、と私はお願いしました。私は十何年間日本に来てお願いしています。一番困っているのは医者です。私の島(メジャット)には医者がいない。看護婦さんぐらいの人がいますが、もしもひどい病気にかかったらやっぱりマジュロとかイバイの方に連絡して、どんな薬があるか話さなくては、自分たちでは分かりません。
いま私たちは、クワジェリン環礁に住んでいます。その環礁の一番北の方のメジャットという、ちっちゃい島に住んでいますけれども、その島は無人島だったんです。1985年に私たちはロンゲラップから逃げました。なぜ逃げたかというと、ひどい病気にかかって、それから変な病気にかかったからです。「この島は安全じゃなかった」と私たちは思って、その島から逃げてきました。
 いま、クワジェリン環礁では、アメリカがミサイル実験をやっています。島々の人は、(環礁の南側にある)ちっちゃいイバイという所にも住んでいます。私は環礁の一番北の方に住んでいます。クワジェリン環礁ではいつでもミサイル実験がやられていて、一度私の島がやられたんですけれども、今やられている実験で、いつやられるか分かりません。
私たちは、アメリカの援助をもらいますけれども、それでは足りません。3カ月に80ドル。食べ物も来ますけれども1カ月半でなくなります。私たちは、海が荒れると魚とりにはいかれません。島にはなにもありません。ですから、ちょっと恥ずかしいんですけれども聞いてください。
 みなさまどうもありがとうございました。シンポジウムに参加してくださったみなさまに心から感謝を申し上げます。

エリオ・ボアス
ロンゲラップ環礁地方自治体議員(マーシャル諸島)

 ロンゲラップ、アイリングナエ、ロンゲリック環礁の兄弟・姉妹を代表して発言する機会をいただいたことに心から感謝いたします。
 私は、みなさんが静岡でビキニデーの諸行事をおこなわれたことを、また、日本での被爆と、マーシャルのロンゲラップやウトリック島民に被害をもたらしたビキニ・エニウェトクでの核実験、さらにはごく最近も含めて多くのところでおこなわれた核実験にかんして、いま一連の都市でシンポジウムをおこなっておられることを心から歓迎します。
 1954年3月1日の、あの水爆「ブラボー」の爆発の犠牲をともにしのぶ機会をいただいたことに感謝します。ずいぶん前のことですが、その後の私の運命を変えることになったあの瞬間、まだ小さな少年だった私は、波打ちぎわで遊んでいました。私は、ヒバクシャとなりました。私の子どもも、そのまた子どもも犠牲者になると思います。
 現在、私たちは、自分たちの環礁に住んでいません。私たちは、あちこちに分散して住むことを余儀なくされています。環礁は、私たちの帰属、つまり存在の証明であり、故郷であり、私たち自身です。私たちには、自分たちの環礁に住むための選択の自由さえ与えられていません。今なお、あまりに強い放射能が残っているからです。1954年3月1日のあの運命の出来事は、島民にとってこの上ない過酷なものでした。風向きは変わり、太陽は西から昇り、子供たちは死の灰とは知らずに「雪遊び」をしたのです。
 私たちは避難しませんでした。なぜなら、私たちは被爆しないはずだったからです。いまでは、それがまったく違っていたことを知っています。
 しばらくして、ロンゲラップ島民は自分たちの島に帰ってよいと言われました。しかし、その後何年かして、ふたたび島を離れなければなりませんでした。島の指導者たちが、島はまだ安全ではない、と主張したからです。新たに測定した結果、それが正しかったことが証明されました。これは、およそ10年前のことでした。ロンゲラップ島民は、いま、お金で借りた島に住んでおり、自分の島に住めないでいます。そこまで行くのには(イバイから)ボートで9時間かかります。空港はありません。
 私たちは、いまでもロンゲラップにふたたび帰ろうと計画しています。それは、私たちの故郷だからです。科学者たちは、私たちが帰る前に、そこで育てた食べ物を食べられるようにするには、特別の肥料をまかなければならない、と言っています。そうしてもなお、島でとれたものは、食べ物全体のなかで一定の割合を超えないよう、用心しなければいけないとのことです。私たちは、外から運ばれる缶詰で食料を補わねばなりません。科学者たちはまた、私たちがそこに安全に住むためには、環礁全体の表土を削りとらなければならないとも言っています。
 私の父親の年代の人たちと話すと、みな、あの3月1日には、息子や娘たちがちょうど私と同じように浜辺で遊んでいたと言います。美しい海で魚釣りをした日々のことを想いおこさせてくれます。私と同じように、彼らもまた島に帰り、眩いばかりに美しい島で生活したがっています。もう何年もそれを待ち続けてきたのです。
 この数年のあいだに、私たち島民の声は世界の人たちにも聞いてもらえるようになりました。私たちが故郷の環礁に再定住するための手だてが取られはじめました。しかし、私たちは、自分たちにも子どもや孫たちにもこれ以上、被害の心配をすることなく住めるようにしなければなりません。私たちには次の世代に対してそうする責任があるのです。
 時とともに、私たち島民が引き続き被害にさらされていることは、ますますはっきりしてきています。ごく最近、わたしたちは、あのブラボー実験のあとでさえ、放射性物質の注射という形で、さらに人体実験の材料にされていたことを知りました。私たちは、その実験の犠牲者の名前さえ教えられていません。たたかいは続いているのです。
 ひるむことなく継続して私たちの努力を支援してくださっている原水協に感謝します。原水協は私たちの声を響かせるフォーラムを与え、今日ここでも私たちが発言できるよう物的支援を与えてくれました。私たちの努力へのそのすべての支援に感謝します。私たちは、歴史の中に今日という日があったこと、そしてそれが人々の記憶に刻まれていることに感謝します。それは、私たちのメッセージを人々に届けるのを助けてくれました。ありがとうございました。
 

ジュマグリ・カイリバエバ
核実験被害者同盟(カザフスタン・セミパラチンスク)

 ビキニデー記念行事の主催者にたいし私を招待してくださったことにお礼を申し上げます。私はここで、カザフスタン、セミパラチンスク州の核実験被害者を代表して発言します。私たちは核実験被害者同盟を結成し、反核団体と協力して、核兵器廃絶と核被害者の救済と連帯の運動を進めています。
 まず、私たちの問題の背景についてお話します。
 1947年8月21日、旧ソ連の政府と軍事関係者は核兵器研究実験場をつくることを決めました。1949年8月29日、最初の核装置(関係者たちは最初の爆弾をこう呼んでいました)の実験がセミパラチンスク州のポリゴン(実験場)でおこなわれました。そして、その実験場はセミパラチンスク実験場と名づけられました。ここで、1953年8月12日には、最初の熱核爆弾の実験が、そして、1955年11月22日には水爆実験がおこなわれました。
 セミパラチンスク実験場では、26回の地上実験、87回の大気圏爆発実験がおこなわれました。最後の大気圏実験がおこなわれたのは1962年12月30日でした。1949年から1989年の間、470回の実験がおこなわれました。最後の実験は、1990年10月24日でした。
 実験場はカザフの三つの州にまたがり、広大な面積を占めています。その54%がセミパラチンスク州に、39%がパブロダール州に、そして、7%がカラガンダ州にあります。
 ポリゴンの近隣にすむ人々にとっては、すべてが軍事、国防に関する事柄であるということで、秘密にされてきました。しかし、核実験がひきおこした環境汚染と人体への被害についての恐るべき実態が、90年代のはじめにやっと世界の人々や地元の人々に知られるところとなり、これが国内の反核団体、組合などの運動の発展にはずみをつけました。そして、1990年8月29日、核実験被害者同盟が結成されたのです。
 カザフ大統領令によって、1991年に実験場は閉鎖されました。1992年12月18日、「セミパラチンスク実験場での核実験の被害者の社会的保護」に関する法律が可決されました。これは、政府が、実験場周辺地域に住む人々が核実験によって被害を受けたことを初めて公式に認めたことになります。被害者と認定された人々には特別の証明書が与えられます。その証明書を持っている人はすべて、額は異なりますが、一度限りの補償金を受ける権利を有します。そして、女性は50歳、男性は55歳と、普通より早く引退して年金を受け取ることができます。また、労働者の場合は、毎月の給料とは別に給付金が受けられます。被害地で生まれ育った18歳までの子供たちは、健康保養センターで無料で治療を受けることができます。
 被害者だけでなく、反核運動に加わっている人びとや団体も、カザフスタンの医療制度が現在のようなひどい状況でなければ、これを喜ぶことができたはずでした。しかし、法律は規定どおりの恩恵をもたらしてくれないのです。これまで、公共医療機関は国営で、国の予算で運営されていました。現在これは、保険医療制度に移行されつつあり、ほとんどの病院や診療所は入札にかけられ民営化されています。これらの医療機関の機能が完全に回復するまでには、2、3年かかるでしょう。というのは、新しい経営者たちは実業家としては成功した人びとですが、医療についてはまったく素人だからです。
 新しく設立された公共医療保険基金(FOMS)が、州保健局と共同して、セミパラチンスク州における医療制度の任務と目標を定めることになっています。次の点が優先課題とされます。つまり、政府から配分された予算を効率的に使うこと、医療を採算ベースでおこなうこと、さまざまな医師養成コースを設けること、そして初めてのことですが、家庭医のネットワークを組織することなどです。核被害者の医療についてはまったく触れていません。都市部の住民なら医療保険証を持っていれば、無料あるいは小額の負担で検診を受けることができます。毎日、マスメディアを通じて、社会のさまざまな階層の人びとに、どんな状況のもとで、そしてどこでこの医療保険証を申請できるかについて知らせるキャンペーンが展開されましたが、すべての人々がこれを手にすることができているわけではありません。
 セミパラチンスクは環境破壊地域として認定されているので、住民は一年に一度「セミパラチンスクがん診療所」で無料検診を受けることができます。さらに30歳以上の住民に最低一年に一度のがん検診受診を義務づける規定があります。しかしこの規定は、次のような理由により機能していません。第一に、がんの初期段階は痛みを伴わないことから、検診に来る人はすでに手後れとなっていること。第二は家庭の経済的理由によるもので、農村部に住む人たちには、セミパラチンスク市まで行って適確な医療検診を受けるための移動の費用を負担する余裕がありません。第三には、安静にしていなければいけない状態になってからしか医者にかかろうとしない心理が人々にはたらいていることです。しかし、がん診療所の専門家の統計によれば、実験場の近隣地域(そのほとんどが郊外にある)における生殖器官のがんの割合は、カザフ共和国平均の4倍、前がん症状は15倍なのです。初めてがんと診断された時から一年以内の死亡率は4割、カザフ共和国平均よりも8%から10%も高いのです。
 土壌に関する問題も同じように深刻です。核実験場の面積は18500キロ平方メートルあります。この土地の一部は農民に与えられ、放牧や小麦・野菜の栽培がおこなわれています。つまり、食物を介した汚染の可能性があるのです。汚染地域はしっかりと柵で囲まれてはおらず、土壌改善はほとんどおこなわれていません。セミパラチンスク州には、地域環境生物資源局があり、1996年には、デゲレン地域での地下核実験のためにつくられた坑道の閉鎖に関する48のプロジェクトの研究をおこないました。しかし、プロジェクトはどれ一つとして機能していません。こうしたことから、ポリゴンがいまだ地域全体と人々を汚染し続けていることは明らかなのです。
 私たちカザフの核被害者にとって、ビキニデーの参加者に連帯の意を表することはとても重要なことです。それだけでなく、核兵器をなくすたたかいの先頭に立つ日本の人々に、核の被害者はもういらないと願う日本の人びとに、私たちの問題を理解してもらい支援していただくことがどれほど重要であるか、言葉であらわすことはできません。ご静聴ありがとうございました。平和がみなのもとにおとずれることを祈って。
 

グルスム・カキムジャノバ
核実験被害者同盟(カザフスタン・セミパラチンスク)

 セミパラチンスクの核実験場は、40年間にわたって機能していました。そこでおこなわれた核実験は、自然と多くの人々のいのちと生活に、巨大な傷痕を残しました。
 NGOの努力によって人々は核実験についての情報に触れることができるようになりました。
 1949年8月29日、最初の核装置の実験が、1953年8月12日に最初の熱核爆弾の実験が、そして1955年11月22日に初めての水爆実験がおこなわれました。1949年から63年までは大気圏爆発実験および地上実験がおこなわれ、それ以後89年までは、地下実験がおこなわれました。全部で470回の実験がおこなわれたのです。ただ、この数字は情報源によって微妙に違いますし、これから先新しい事実が明らかになれば、もっと大きい数字になるかもしれません。
 1993年にセミパラチンスクでおこなわれた会議の席で、核実験場の司令官であったコノヴァレンコ氏が、驚くべき事実を明らかにしました。1962年の夏だけで62回の核装置の実験がおこなわれたというのです。
 1991年に、カザフスタン大統領令によって、実験場は閉鎖されました。1992年に議会において、「セミパラチンスク実験場における核実験の被害者の社会的保護」に関する法律が批准されました。私たちの核実験被害者同盟はこの法律の立案に参加し、イニシアチブをとりました。
 この法律では一回だけ補償金を支給することが規定されていますが、今のところ補償金を受けているのは、優先的に支給される年金生活者だけです。この法律を内容どおりに実行するのは、カザフスタンの経済状況が悪化しているためにたいへん困難です。
 1996年の9月に、私たちはカラウル村とイギンデブラク村の2カ所で経済及び生活状況の調査をおこないました。この2つの村を合わせた人口は20084人、世帯数は4404です。年金生活者の総数は4000人です。住民の主な収入源は、年金、障害者手当と児童手当などですが、支払いは遅れています。失業率の高さも深刻な問題となっています。
 放射能の汚染の状況の程度がいまだにはっきりわかっていないことが、この地域の経済的状況をますます悪化させています。この二つの村の主要産業は畜産であり、住民は、村から遠く離れており、放射能でひどく汚染されているであろう核実験場の跡地で家畜を放牧しているのです。住民の健康状況は年々悪化しています。
 イギンデブラク村の人口は2万人です。全体の罹病率は1000人あたり748人であり(これは述べ人数で、一人が複数回医者にかかった場合も含む)、出産可能な若い女性の罹病率は1000人あたり680人です。1993年から1995年のあいだに、出生率は半分になり、そのかわり死亡率は1.3倍になりました。たとえば1994年には、171人が死亡しています。
 アバイスキー地区の小児課によると、子どもの疾病者は1993年の1189人から95年の1307人に増えました。14歳までの6632人のうち5人に1人が医者にかかっているということになります。貧血、障害、精神障害、奇形児の数が増えています。
 医療水準が低く、また衛生状態が悪いため、結核、肝炎、かいせんが流行しています。
 最近私は、ロシア政府にも、カザフスタンの自然と人々の生活を破壊したことに対する補償を求めるべきではないかという気持ちを強くしています。ロシア政府がチェチェンでの戦争や、政治家同士の権力争いに巨額のお金を使っているのを目の当たりにしているからです。
 ロシア軍は、クルチャトフ市から最後に撤退する時、窓枠やドア、床にはっている板や、バスタブや便器まで、持っていけるものはすべて持ち出し、運べないものは破壊し尽くしていったのです。今でもクルチャトフ市では多くの建物が無人のまま無残な姿で立っています。
 私は、先月の28日におこなわれた「被爆と核実験被害の実態の国際調査・普及についての国際協議会」で提案された、実験場の共同調査をおこなおうという提案に賛成します。
 
 

アンソニー・ガリスコ
原爆復員兵士連盟(アメリカ)

 私は原爆復員兵士連盟の理事長を務めています。連盟の全会員を代表してみなさんにご挨拶を申し上げます。また、みなさんがこのとても重要な集会に時間をさいて参加して下さったことにお礼を申し上げます。
 原爆復員兵士連盟とは日本の被爆者の組織のようなものであると申し上げるのが、最もわかりやすい説明だと思います。
 私たち原爆復員兵士の多くは、第二次世界大戦の際には太平洋戦線に従軍していました。朝鮮戦争に参加した者もいますし、ベトナム戦争に従軍した兵士で、ベトナムに行く前にアメリカのネバダ実験場でおこなわれた核実験に参加することを命ぜられた者もいます。
 組織を結成しようと考えた時から、私たちは、アメリカ政府は原爆復員兵士の死と遺伝的な影響をうけた子どもたちの苦しみに対する責任を認めないだろうとはっきりわかっていました。その理由は、エネルギー省の核実験計画、核兵器の開発、原発、その他の軍事用核計画を守るためでした。
 軍部はつねに、クロスロード作戦の恐ろしい結果をアメリカ国民から隠そうとつとめてきました。三番目の爆弾を爆発させる前に、この作戦全体の情報を完全に外部から遮断しました。軍は、2回にわたる24キロトンの核爆弾の爆発によって、兵士が大量の放射能にさらされたということを、国民に知らせたくなかったのです。
 軍は、マーシャル諸島やアメリカのネバダ実験場の風下地域の人々に対し、誠実ではありませんでした。政府は周到な計画によって、大企業によって統制されたメディアの助けもかりて、この米軍の犯罪を隠蔽してきました。クロスロード作戦がおこなわれたことを知っているアメリカ人さえほとんどいません。
 原爆復員兵士の死は、軍が、これまでもそして今でも最も厳重に秘密にしてきたことのひとつです。彼らは真実をアメリカ国民の目からおおい隠してきましたが、1984年に原爆復員兵士の手で、初めて500人を対象に非公式な形で郵送でアンケートをおこなった結果、被爆兵士が平均47才で死んでいるということが、兵士の家族の間で明らかになりました。
 1975年にアメリカの国防総省は、防衛原子力局(DNA)を創設しました。DNAは米軍によってつくられ、設置された機関です。軍はDNAに2つの命令を与えました。
 1)核兵器はアメリカ人にとってよいものであると国民�